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祈り
「……我が愛する人のもとへ――ルーラ」

 夜の闇に紛れ、灯りを落とした宿の窓から、一条の光――夜目にも鮮やかな新緑の色が流れ去った。

********

 コレットは自室の居間で一人、眠れぬままに読書をしていた。既に夜は更け、侍女達はすべて下がらせている。

 愛読書を手にしていても、言葉がいっこうに頭に入ってこない。仕方なく灯りを消し、掛けていた椅子から立ち上がる。ゆっくりと仏蘭西窓まで歩み寄ると、夜空を見上げた。淡い月の光が、彼女のすらりとした姿を照らしている。

 漆黒の闇に眼を向けたまま、彼の人へ思いを馳せる。今、どこを旅しているのか、どんな境遇にあるのか、不安は尽きない。

 アーサーが旅立ちを決意した、あの夜の出来事がよみがえる。

 それは、あまりにも唐突なものだった。

 ムーンブルク崩壊の悲報がもたらされてから一月後のことである。サマルトリア城に、ムーンペタの領主であるルーセント公爵家からの使者が到着した。大神官ハーゴンの呪いによって姿を変えられたムーンブルクの王女リエナの呪いを解くべく、ラーの鏡を手に入れて欲しいとの依頼である。それを受けてアーサーは、ローレシアの王太子ルークとともに旅立った。

 その後無事にラーの鏡を手に入れ、目的を達成したとの連絡があり、すぐにアーサーは自分のもとへ帰ってくるはずだった。しかし――

「コレット、話がある」

 サマルトリアに帰国した当日の夜、アーサーはルティエンス公爵家を訪れていた。アーサーはいつもどおり、公爵夫妻からの挨拶を受けるとすぐにコレットの私室を訪ねた。さりげなく人払いをした後の、最初の言葉がこれである。

「はい、何でございましょうか?」

 いつもは穏やかなアーサーの、いつにない真剣な表情に、コレットは不安を押し隠しながらも、努めて穏やかに答えた。

「僕は、大神官ハーゴン討伐の旅に出ることになった」

「大神官ハーゴンを、討伐……」

 コレットは呆然とアーサーの台詞を繰り返した。そして、衝撃を受けたのは間違いないけれど、やはりそうだった、と納得せざるを得なかったことに自分でも驚いていた。心のどこかで、アーサーなら必ずそうすると確信していたことに、あらためて気づかされたのである。

「リエナ姫はローレシアのアレフ11世陛下の御前で、自らハーゴン討伐のために旅立つと宣言した。続いてルークがその場で旅立ちを決め、陛下より正式に拝命した。それに僕も同行する。――明日、父上に話をするが、どうしても先に君に話しておきたかった」

 アーサーは若草色の瞳をコレットに向ける。

「隠しても仕方のないことだから、正直に言うよ。僕は、いつ帰って来られるかわからない。生きて戻って来られる保証もない。そのくらい、今回の旅は過酷なものになる」

 そのまま大きく一つ息をつくと、言葉を継いだ。

「コレット、サマルトリアで待っていて欲しい。我が儘なのはわかっている。それでも、僕は君が待っていてくれる限り、何があっても君のもとに帰ってくる」

「はい、お待ちしております」

 コレットは一瞬も躊躇うことなくそう答えた。彼女の声音には、何の迷いも感じられない。

「リエナ姫様は女性の身でありながら、祖国ムーンブルクのために立ち上がられたのでしょう? それなのに何故、私があなたを待たず、他の殿方のもとへ嫁ぐとお思いでしたの?」

「すまない……」

 沈痛な表情のアーサーに対し、コレットは穏やかな笑みをたたえている。

「何を謝られることがありまして? あなたは、サマルトリアの王太子ではありませんか。ロト三国の危機を、黙って見過ごされる御方ではないはずですわ。――私でしたら、大丈夫です。ご武運を祈ることしかできませんが、ここで、いつまでも、お待ち……」

 淡々と言葉を紡いでいたはずのコレットの声が途切れた。美しい榛色の瞳に、みるみる涙があふれる。

「コレット……」

 アーサーは、コレットを抱きしめると、決意を籠めた声で囁いた。

「必ず、戻ってくる」

 コレットはアーサーの腕のなかで、かすかに頷くことしかできなかった。

********

 旅立ちの前夜、夜更けに、一台のサマルトリア王家の紋章入りの馬車が、ルティエンス公爵邸に到着した。

 翌朝、コレットは涙をこらえながら、城へ帰る馬車を見送った。

 コレットのしなやかな左手の薬指には、サマルトリア王家の紋章を刻んだ指輪が光っていた。そして、アーサーの指にも、まったく同じ意匠の指輪がはめられていたのである。

********

 コレットは指輪を見つめ、ちいさく溜息をつくと、再び窓の外に視線を移した。その時、遥か遠くで、懐かしい光が見えた気がした。思わず眼を凝らすと、光は確かに自分の部屋を目指して真っ直ぐに伸びてくる。コレットは咄嗟にショールを羽織ると、仏蘭西窓を開け、バルコニーに駆けだした。

 同時に、新緑の光がバルコニーに降り立った。そこには全身に淡い魔力の光を纏ったアーサーが立っている。

「コレット、ただいま」

 アーサーは両腕を広げた。自分の腕に飛び込んできたコレットを抱きしめる。

「お帰りなさいま……」

 すべての言葉を言い終わる前に、アーサーの唇がコレットのそれを塞いだ。

********

 二人は寄り添って室内に戻った。コレットはアーサーに微笑みかけ、一人で寝室に向かう。ほどなくして戻ってきた彼女の手には美しい小箱があった。小卓の上にそっと置いて鍵を開け、中から取り出したのは、天鵝絨(びろうど)の若草色のリボンである。それを持って、部屋の扉を開けると、扉の外側の取っ手に結びつけた――アーサーが訪ねてきている、という合図である。

 部屋の中に戻ってきたコレットを、アーサーはもう一度しっかりと抱きしめる。今はほどかれて背中を流れる長い髪を優しく撫で、瞳を覗き込んだ。

「変わりはなかった?」

「ええ」

 コレットの答えはいつもと同じである。けれどアーサーには、コレットがそれ以上何も言わなくとも、彼女を取り巻く現状が如何につらいものかがわかっていた。

 傍目には申し分のない境遇である。

 サマルトリアでも有数の大貴族であるルティエンス公爵家に生まれ、今は、王太子の婚約者として、ハーゴン討伐の旅に出ているアーサーが戻り次第、正式に婚儀を挙げることが決定している。

 コレット本人も、美しいのはもちろんのこと、思慮深く、立ち居振る舞いは優雅で、それでいて親しみやすく、誰もが彼女と過ごすひとときは、心休まるものだと言う。

 しかし、その実情はと言えば、コレットの立場は決して安泰なものではなかったのである。

 幼いころ、ある偶然の出来事がきっかけで、コレットはアーサーに見初められたのだった。間もなく内々での婚約が決まり、その後もアーサーはずっとコレットだけを想い続けている。それゆえに、嫉妬心からの有りもしない噂話――アーサーが他の女性に心を移している、といったものや、陰湿な嫌がらせも、数多く受けてきた。

 けれどコレットは、アーサーを深く信頼し、自分への愛情を疑ったことなどなかった。何があっても決して不用意に騒ぎ立てるようなことはせず、穏やかに受け流し、慎重に身を処している。将来のサマルトリア王妃となる自分の立場を常に意識し、それにふさわしい振る舞いを心がけていた。アーサーはそういったコレットの聡明さをも、愛していたのである。

 アーサーが旅立った後、コレットはほとんど外出することもなくなっていた。何故なら、嫌がらせは益々ひどくなり、そればかりか、アーサーの留守を狙って、秘かにコレットの生命を奪おうとする――自分の娘を次期王太子妃に、と画策している貴族までもが現れたからである。

 今のコレットは、ひたすらアーサーを案じ、屋敷の奥深くで、身を切られるほどの思いで待ち続けている――アーサーにはそれが、痛いほどにわかっていた。

 それなのに、コレットはそんなつらさは微塵も見せることなく、こうしてごく稀に訪ねて来るアーサーを、いつも心からの笑顔で出迎えてくれる。

 過酷な戦いの日々に身を置くアーサーにとって、このコレットと過ごすわずかな時間は、何ものにも代えがたい大切なひとときだった。

 二人は並んで、居間の長椅子に腰掛けた。アーサーがそっとコレットの細い肩を抱く。コレットも、アーサーにゆったりと身体を預けると、お互いに微笑みを交わす。

「今日は、どんなお話を聞かせてくださいますの?」

「そうだね、じゃあ、こんなのはどうかな?」

 アーサーが戻った時、旅の話――様々な土地での体験談を話して聞かせるのが、いつしか習慣になっていた。コレットはほとんどサマルトリアから出たことがない。アーサーの異国の話はいつも興味深く、コレットも、ともに旅ができない寂しさを、わずかではあっても慰めることができるのだった。そして、旅の話の最後には、いつか二人でここを旅しよう、そう締めくくられるのである。

 窓辺の長椅子で、楽しげな、それでいて密やかな囁き声が交わされている。

 ふと会話が途切れた。アーサーは、今だけは自分とともにいる、心から愛するひとを見つめた。

 この優しい笑顔も、理知的に輝く榛色の瞳も、艶やかな栗色の髪も、すらりとしたしなやかな肢体も、耳に心地よく響く声も、何もかもが、愛おしい――アーサーはたまらず、再びくちづけを落とす。

 ――優しい月の光が、たまさかの逢瀬を許された、若い恋人達の姿を照らしていた。

********

 夜明け前、バルコニーからアーサーを見送ったコレットは、新緑の光の残像を見つめ続けていた。やがて、夜明けの日の光とともに、愛するひとの魂の色が消えていく。何度同じ経験をしても、どうしても慣れることのできない、寂しい瞬間である。

 コレットは自室に戻ると、入口の扉を開け、取っ手に結び付けた若草色のリボンをほどいた。また大切にしまっておかなければと、小箱の蓋を開けたとき、左手の指輪の上に、こらえ切れない涙が零れ落ちる。

 自分達に許された、束の間の逢瀬。

 次にこのリボンを使うことができるのはいつなのか、誰にもわからない。

 そして、もうこれで最後かもしれない、そのひととき。

 自分は愛する人を信じて待つことしかできない。

 つらくてたまらない。――けれど、このつらさは、決して誰にも言うわけにはいかない。ただアーサーだけは、何も言わなくてもわかってくれている。それだけが、救いだった。

 コレットは手のなかのリボンを見つめながら、それでも、自分は待つことを許されているだけ幸せなのかもしれない、とも思い直した。

 アーサーから、ルークとリエナの婚約が白紙に戻ったと聞いている。聡明なコレットには、理由は言われずとも理解できていた。あの、ルークとリエナの出会いとなった舞踏会での、二人の姿が脳裏によみがえる。出会った瞬間、二人は惹かれ合わずにはいられなかったのが、コレットの眼にも明らかだった。それなのに、旅が終わったら、二人を待ち受けているものは別離しかない。

 それを痛ましいと思うのと同時に、今、この瞬間、愛するひとのそばにいられるリエナをうらやましく感じてしまう自分もいる。リエナは自らも魔法使いとして戦う術を持ち、ともに旅をすることができる――三人の旅が、自分の想像を遥かに超える厳しい日々であるのは、もちろん承知していても、その感情を抑えることは難しかった。

 それでも、アーサーは必ず、生きて、自分のもとに帰って来てくれると言い切ることができる。根拠などはない。ただ、アーサーが自分と交わした約束を違えるはずがない、そう信じることができるから。

********

「コレット様、アーサー殿下から、お手紙が……!」

 アーサーの訪問から十数日後、幼いころからずっと仕えてくれている乳姉妹が、息せききってコレットのもとに走り寄って来た。コレットは穏やかに微笑んで手紙を受け取ると、乳姉妹に労いの声をかけた。

「ありがとう。下がっていいわ」

 コレットは逸る心を抑えながら、書き物机の前の椅子に腰掛けた。引き出しから小振りのナイフを取り出し、慎重に封を切る。

 淡い緑色の便箋を広げると、まぎれもない、愛する人の懐かしい文字が並んでいる。ひと文字ひと文字、いとおしむように、ゆっくりと読んでいく。手紙には、普段の冷静なアーサーしか知らない人物にはとても想像がつかないほどの、あふれる想いが綴られていた。

 何度も繰り返し読むと、コレットはほうっと溜め息をついた。今は離れていても、二人の心は常に寄り添っているという満ち足りた想い。けれど、同時に、言い様のないほどの寂しさに苛まれる。

 コレットは先日訪ねてきてくれたアーサーの面影と、あたたかい腕のなかを思い起こしながら、そっと手紙を胸に抱きしめる。

 ――私は、ここで、いつまでも、お待ちしております……。

 手紙を胸に抱いたまま、コレットは小声でルビスの祈りを唱え、愛するひとの名を呼んだ。

********

 旅の空の下、アーサーもコレットへ思いを馳せていた。

(手紙、無事に届いているかな……)

 今は、昼食を取った後の小休止である。木陰で、ゆったりと流れる雲を眺めながら、コレットのあたたかな笑顔を思い起こしていた。

 同時に、彼女とともに過ごした、たくさんの思い出が、頭のなかに浮かんでは消えていく。

 ――7歳の時の、思いがけぬ場所での出会い。いつしか、コレットは自分にとってかけがえのない存在になっていた。幼いながらも、真剣に将来を誓い合ったこと。初めて一緒に踊った舞踏会。そして……

 爽やかな風が、アーサーの癖のない髪を揺らしている。自分の左手に視線を落とすと、今は緑色の革手袋に隠されている指輪を愛おしげに見つめる。

 心のなかで、愛するひとの名前を呼んだ、その時――

 突然、すこし離れて、食後の珈琲を飲んでいたはずのルークが声を掛けてきた。

「どうした? アーサー、ぼけっとしてるなんて、お前らしくもない」

 はっと我に返ったアーサーは、珍しく一瞬慌ててしまったのだが、すぐにいつもと同じ冷静さを装って答えた。

「別になんでもないよ」

「とてもそうは見えんかったけど……。お前がそう言うなら、ま、いいか」

 ルークはそう言っただけで、その後は特に気に留めてはいなかった。けれど、彼らの遣り取りを見ていたリエナは、アーサーがサマルトリアに残してきたコレットのことを考えていたのだろうと察していた。さっき、ほんの一瞬だけ見せたアーサーの表情が、限りなく懐かしげで、優しい――恐らくは、普段はコレットの前でだけでしか見せることのないであろうものであったから。

 リエナは男二人に気づかれないよう、そっと息をはいた。ここまで深く想われているコレットを、うらやましく思ったからだった。けれど実際のコレットは、アーサーの身を案じ、ひたすら無事を祈り続ける毎日を送っているはずである。それが、どれだけつらいことか、リエナには容易に想像がついた。――もし自分が、彼女と同じ立場だったら。激しい戦いに身を置き続ける愛するひとの帰りを、ただ待つことしかできなかったとしたら……。

「リエナ」

 ルークは、今度はリエナに声をかけた。リエナの心臓が驚きに跳ね上がったが、精一杯平静を装って答えた。

「なあに?」

「今度はお前までが、何か考え込んでた。二人ともいったいどうしたんだ?」

 リエナは内心の動揺を覚られないよう、ぎこちないながらもルークに微笑んで答えた。

「なんでもないわ。――あ、ルーク、珈琲のお代わりは?」

「いや、もう充分だ」

 ルークがそう言って、空になったマグカップをリエナに渡したところで、アーサーが唐突に立ち上がった。

「じゃあ、そろそろ行こうか」

 珍しく照れを隠そうとしているのか、ルークとリエナに背を向けたまま、そう声をかけると、すっかり手に馴染んだはやぶさの剣を腰に佩く。

 ――コレット、僕は必ず君のもとに帰る。

 アーサーは澄みきった青い空を見上げ、誓いを新たにした。


                                             ( 終 )


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