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指先
 ある冬の日のことである。ルークとリエナは、情報収集を続ける、というアーサーを残し、二人で一足先に宿に戻ってきた。

 部屋の扉を開けると、外の寒さが嘘のようにあたたかい。

「おー、部屋の中はあったかい。外は寒かったもんな。リエナ、長いこと人混みを歩いて疲れただろ?」

「大丈夫よ。いつも気遣ってくれて、ありがとう」

 リエナはにっこり微笑んでそう答えると、ルークに外套を脱がせてもらった。ルークはリエナの外套を壁にかけると、自分もゴーグル付きの革の帽子と外套を脱いだ。

「あ……」

 リエナの口からちいさな声が漏れた。

「どうした?」

「ごめんなさい、しばらく向こうを向いていてくれる?」

 リエナはちょっととまどったように、ルークに答えた。頭巾を脱ごうとした時、ローブの背中の紐――ボタンの代わりについているもの――が引っかかり、結び目が緩んでしまっている。リエナはそれを直したかったのである。

「うん? 別にいいけど」

 ルークは素直に背中を向けた。リエナは背中に手を回して紐を結び直そうとしたが、なかなかうまくいかない。ずっと寒い中を歩き続けていたため、指先がかじかんでしまっているせいだった。

(いやだわ、早く結び直したいのに……)

 焦れば焦るほどうまくいかない。もしかしたら本当の理由は、寒さに凍えた指先のせいなどではなく、ルークと部屋で二人きりでいるからかもしれなかった。

 つい先日、二人は晴れて恋人同士になれたばかりだった。ルークが勇気を振り絞って、やっとのことで告白し、同じ気持ちだったリエナもそれを受けて、ようやく長年の想いが通じ合ったのである。二人は将来を誓い合ったが、今はまだ旅の途中であるし、リエナにはムーンブルク復興という悲願がある。二人が正式に夫婦となれる日はまだ遠い先の話であろうけれど、リエナにとって、愛するルークと同じ目標に向かっていくことができるのは、何よりも頼もしく、心強いことだった。

 アーサーも心から祝福してくれた。ずっとはらはらしながら見守り、時にはルークに発破をかけ、リエナの相談相手をつとめてきた彼も、ようやくこれで肩の荷を降ろしたというわけである。今日、ルークとリエナだけ先に宿に帰したのも、安全な町にいる時くらいなるべく二人きりの時間を過ごさせてあげたい、という彼一流の心遣いである。二人もそれをよく理解していたし、素直に感謝もしていた。

 そうはいっても、まだ恋人同士になって日の浅い二人のことである。いざ二人きりになってみると、どうしても緊張が先に立ってしまうのは仕方ないのかもしれない。

 ずっと黙ったままのリエナを不思議に思い、ルークは背中を向けたまま、声をかけた。

「まだか?」

「え……、ええ」

「どうしんたんだよ」

 ルークは唐突に振り向いた。リエナは突然のことに驚きはしたが、何も言わないのも不自然である。素直に理由を説明した。

「なんだ、言ってくれればやったのに」

 そう言うと、青い革手袋を脱ぎながら、無造作に近づいてくる。

「ほら、向こう向け。俺が結んでやるよ」

「え? ……じゃあ、お願いしようかしら」

 リエナは恥ずかしいけれど、そのままにしておくわけにもいかず、ルークに背中を向けた。

「――あ、髪の毛だけ前で抱えていてくれるか? このまんまじゃ、からまりそうだから」

 リエナは言われた通り長い巻き毛を簡単に手で纏めると、胸の前にかき寄せた。

 ルークはいざ紐を結び直そうとして、一瞬手が止まった。眼の前に、リエナの細いうなじがある。いつもは長い髪と頭巾に隠されているそこは、抜けるように白く、しっとりときめ細かな肌が眼に眩しくて、なまめかしささえ感じさせるほどに美しい。

(うわ……。俺、こんなん眼の前にして、紐、結べるか……?)

 ルークは焦ったけれど、一度引き受けてしまった以上やるしかない。意を決して紐に手をかけようとしたその時、焦りからか、リエナのうなじにほんのわずか指先が触れてしまった。

 リエナの細い肩がわずかに震えた。と同時に、白いうなじがみるみる桜色に染まりはじめる。ルークはますます焦ってきた。どうしてもうなじから眼を離すことができずにいるが、それでも何とか結び直すと、平静を装って、リエナに声をかけた。

「できた、ぞ」

「あ……、ありがとう」

 リエナも明らかにほっとした顔をしている。それでも、恥ずかしげにこちらに向けた顔は、うなじと同じように桜色に染まったままである。そのあまりの可憐さに、ルークは思わずリエナの細い肩を抱き寄せると、大切に、すっぽりと包み込むように抱きしめる。

「リエナ、可愛いよ。もうどうしようもないほど、お前に惚れちまってる」

「……わたくしも、よ」

 あたたかいルークの腕の中は、いつでもリエナに心からの安らぎを与えてくれる。ルークは長い巻き毛を愛おしげに撫でながら、リエナの耳元で優しく囁いた。

「ずっと、一緒だからな」

「うれしい……」

 ルークの抱きしめる腕に力が籠り、リエナもそれに応えた。

********

(さて、そろそろいい頃合いかな?)

 アーサーは宿の部屋の前の廊下に立っていた。実は、予想よりも早く情報収集が終わり、だいぶ前に宿に帰ってきていたのである。そのまま一度は部屋の前まで戻ったものの、いざ扉の前に立ってみると、なんとなくノックするのが憚られる気がしたのだった。アーサーはしばしどうするか考え、寒い中を歩き続けてきたことでもあるし、熱いお茶を一杯飲んでくるのもいいだろうと、階下の食堂へ行くことに決めた。そこで集めてきた情報を整理がてらしばらく時間をつぶし、今またこうして戻ってきたというわけである。

 軽く息をはくと、アーサーは慎重に部屋の扉をノックした。わざと一呼吸おいてから、ゆっくりと扉を開ける。室内で出迎えてくれたルークとリエナの二人の間には、予想通り、どことなくいい雰囲気が漂っている。さりげなくリエナの様子をみると、なめらかな頬はまだ桜色に染まったままだった。

「ただいま」

「遅かったじゃねえか」

 そう言うルークも、どことなく態度がぎこちない。

「お帰りなさい、アーサー。寒かったでしょ? 熱いお茶でもいかが?」

「ありがとう、リエナ。でも、今ここの食堂でお茶を飲んできたところだよ」

「一人だけ道草食ってて、こんな時間になったってわけか?」

「ちょっと興味深い話を耳にしたから、少しでも早く検討してみたかったんだよ。そういうお前だって、別に僕の心配をしてくれてたわけじゃないだろう?」

「誰が、お前みたいなやつのこと心配するかよ」

 ルークの口調は相変わらずなのだが、彼は彼なりに感謝してくれているのが、つきあいの長いアーサーにはよくわかる。

「そろそろ腹減ってきたな。リエナ、晩めし何だ?」

 これでこの件は終わりとばかりに、ルークがいきなり話題を変えた。言われてみれば、日暮れも近い時刻になっている。リエナがにっこり微笑んで答えた。

「ちょっと贅沢なシチューにするつもりよ。市場でおいしそうなお肉とパンも買えたから」

 今夜の宿には食堂があるだけでなく、宿泊者向けに厨房も貸してもらえるようになっている。久し振りにリエナの心づくしの手料理を存分に楽しめるとわかって、男二人から歓声があがった。

「それなら、俺も行く。何か手伝ってやるよ」

 ルークが満面の笑みでリエナに声をかけた。

「お前に荷物持ち以外の手伝いが、できたっけ?」

 やる気だけは人一倍あるルークに、アーサーがすかさず茶々を入れる。

「うるせー、余計なお世話だ。リエナ、行くぞ」

 そう言うと、材料の入った紙袋を抱え、反対の腕でリエナの肩を抱く。リエナもまたすこし頬を染め、素直に身体を預けている。

 触ると火傷しそうなほど熱々の二人を送り出し、荷物から愛読書を取り出したアーサーは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

(まったく、故郷に婚約者を待たせてる僕の身にもなって欲しいよ。まあ、見せつけられるのはいつものことだけどね)

 そう心のなかでひとりごちたが、アーサーの口元には優しい笑みが浮かんでいる。

                                             ( 終 )

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