甘い香り
厨房に、甘い香りがたちこめている。
リエナは小鍋を取り上げた。中に入っているのは、たっぷりの溶かしたチョコレートである。
焼き上げておいたスポンジ生地の上で、慎重に小鍋を傾けた。チョコレートがスポンジ生地を覆っていく。続けてパレットナイフを使い、チョコレートが固まらないうちに素早く丁寧に表面を整える。
リエナはほっと息をついた。
艶やかで香ばしいチョコレートケーキの出来上がりである。
********
数年前の今日、まだリエナがルークとアーサーとともに、ハーゴン討伐に出ていた時のことである。リエナは思いがけず、ルークから贈り物を受け取った。
淡い薔薇色のリボンをほどき、蓋を開けると、中から出てきたのは可愛らしい小粒のチョコレートだった。
リエナは心があたたかいもので満たされていくのを感じていた。
自分が甘いものを好むのに、普段はほとんど口にしないことをルークは知っていて贈ってくれたのだろう――そんな彼の心遣いがうれしかった。王族でありながら普通の旅人と同じ生活を送っていた当時では、贅沢な品だったから。その後、チョコレートとリエナ手作りのサンドイッチで二人で午後のお茶を楽しんだことは、とても素敵な思い出である。
けれど長い間、リエナはこの贈り物の本当を意味を知ることはなかった。聖バレンタインはロト三国にはない。旅が終わり、ルークとこうして人生をともに歩むようになってから偶然、ある限られた地域――まさにルークがチョコレートを贈ってくれた時に滞在していた町の辺りだけに、聖バレンタインという、男性が意中の女性にチョコレートを贈る風習があることを知ったのである。
ルークがそれを知っていて自分にチョコレートを贈ってくれたのか、それとも偶然に過ぎないのかはわからない。とは言え、ルークがそんな洒落た風習を知っているとは思えなかったから、おそらくは偶然なのだろう、もしかしたらチョコレートを買ってから知って、狼狽したかもしれないけれど。
そこまで考えて、リエナの頬にやわらかな笑みが浮かぶ。
幸せな日々を送っている今、どちらでも構わなかった。リエナが聖バレンタインの意味を知ったことをルークは気づいていない。ルークの気持ちがうれしいことに変わりはないのだから、今更確かめる必要もない。
続けてお茶の支度をしながら、リエナはふとあることを思い出し、再び笑みをこぼした。それは、贈り物に添えられていた、一枚のちいさなカード。
そこには『柄じゃないけど今日ぐらい』とだけ書かれていた。
ルークが自分で入れるとは思えないから、恐らくは悪戯心を起こした店員が入れたのだろう。リエナは今も、大切にカードをしまってある。
********
お茶の支度が整った頃、ルークが姿を現した。輝くような笑顔で出迎えたリエナを、ルークは抱きしめてくちづける。
リエナが香り高いお茶を注ぎ、出来上がったばかりのチョコレートケーキを切って、ゆるめに泡立てた生クリームをたっぷりと添え、ルークの前に置いた。
ルークはうれしそうに顔をほころばせた。普段は決して甘いものは口にしない彼も、リエナ手作りのお菓子だけは目がないのである。
互いに笑みを交わし会話を楽しみながらも、リエナは内心ですこしだけ迷っていた。今日の午後のお茶のお菓子が何故チョコレートケーキなのか、理由をルークに告げるかどうかを。
ルークには特に変わった様子はない。いつもと同じく、満面の笑みでケーキを口に運んでいる。リエナはあの時の気持ちがうれしくて、お礼の意味を籠めてルークを今日のお茶に誘ったのであるが、肝心の本人はやはり気づいていないらしい。
如何にもルークらしいとリエナは思った。同時に、リエナが聖バレンタインの意味を知ったことをルークは知らないだろうから、仕方がないとも考える。第一、あの贈り物そのものが聖バレンタインを意味していたのかどうかすら、定かではないのだから。
そんな不器用さも含めて、リエナはルークを心から愛している。
しばらく悩んだものの、リエナはやはりルークに告げるのはやめておくと決めた。ルークもあの日には自分に何も言わなかったのだから、これでお互いさま――リエナはそんなふうに考えたのである。
ルークがふと自分に視線を向けた。深い青の瞳が何かを問うている。けれどルークの疑問に気づかない振りをして、いつもの笑みを返した。
********
――甘い香りに包まれて、あたたかく、豊かな時が流れている。
( 終 )
小説おしながきへ
TOPへ