青き海、紅の月
――青き海。
目の前に広がるのは、どこまでも続く、大海原。澄み切った青空からは燦々と真夏の陽光が降り注ぎ、きらきらと輝く海面が目に眩しい。渡ってくる潮風は髪を揺らし、心地よく頬をなでていく。
ルークとリエナは今、ローレシア城に滞在している。ルークがリエナを誘い、二人でルークの部屋のバルコニーからローレシアの海を眺めているのである。
リエナがムーンブルク女王として即位、同時にルークと婚儀を挙げてから既に数年が経っていた。二人はムーンブルク復興に向けて日々邁進している。つい最近、復興事業が一つの節目を迎えた。この機会に一度、ローレシアへ復興支援への礼を兼ねて、挨拶と報告のために揃って公式訪問しているところだった。
「綺麗ね……」
リエナが目を細めた。
「ああ。いつ見ても、この景色はいいな」
ルークがバルコニーの手すりに寄りかかり、海に視線を向けたまま答えた。
ルークはこの場所から見るローレシアの海が好きだった。幼いころから数えきれないほど目にしてきたが、海は一度たりとも同じ表情を見せたことがない。
ルークはリエナと出会ってからずっと、この場所から海を見せたかった。あれからずいぶん時を経て、ようやく念願かなったのだ。
「このバルコニーからのローレシアの海は、本当に素晴らしいわ」
「そうだろ。俺は、ここから見る海が一番だと思ってる」
ルークがリエナに屈託のない笑顔を見せた。多忙な日々を送る中、久しぶりに懐かしい故郷の海を見てくつろいでいるのだろう。ルークの笑顔はどこか、少年のような無邪気さすら感じさせた。
「ええ、あなたの言った通りね」
そう答えながら、リエナはルークの深い青の瞳から目が離せなくなっていた。
――ローレシアの真夏の海の色。
どこまでも深く、どこまでも澄み切った、鮮やかな青。
やっぱり同じ色だわ……とリエナは思った。初めて出会った時、ルークの瞳の色がとても印象に残ったのが忘れられない。その時にも、リエナはローレシアの海の色はこんなふうなのかもしれないと想像していた。その後、旅立ち前にこの地を訪れた時、自分の考えが正しかったことで、この色が余計に印象深いものになったのだ。
そして数年を経た今、こうしてローレシアの海を背景に立った姿をみると、ルークの瞳は、やはり同じ色なのだとあらためて実感させられるのである。
「リエナ、どうした?」
視線を感じたのか、ルークが不思議そうに話しかけてきた。リエナはほんの一瞬、目の前の海とルークの瞳が同じ色だと話そうかと思ったけれど、やっぱりやめておくことにする。
「……なんでも、ないわ」
「そうか、それならいいが」
ルークは白い歯を見せると、再び海に顔を向けた。
リエナもまた、ルークの深い青の瞳に視線を移す。ルークに話さなかったのは、自分だけの秘密にしておきたくなったから。
ちいさく微笑んで、リエナはルークのそばに歩み寄った。ルークもリエナの肩を抱く。
その後も長い間、二人並んで海を見つめ続けていた。
********
「……乾杯」
その夜、ルークとリエナは昼と同じバルコニーで酒杯を傾けていた。
夜の海もまた絶景だとルークが誘い、せっかくの気持ちの良い季節だから外で飲もうとバルコニーに簡単な酒席を用意させたのだ。今夜はこのままルークの寝室で休むことにしている。就寝前のひとときを月を眺めて過ごそうと、二人ともがくつろいだ夜着姿である。
海は穏やかに凪ぎ、漆黒の闇に沈んでいる。
空には鮮やかな満月。
冴え冴えとした白銀色の月光が辺りを照らしている。卓上に灯りは何もない。しばらくとりとめのない会話を交わしながら、夫婦水入らずの時間を楽しんでいた。
ルークは心地よく酔いに身を任せながら、愛する妻の姿を眺めていた。
月光を背に纏ったリエナの姿は美しい。
誰もが絶世の美女だと口を揃えて絶賛するリエナの、その美しさがもっとも際立つのが、満月の光のもとである。
ルークは、昔の旅の出来事を思い出していた。
旅の途中のある満月の夜、リエナが月を眺める姿に、魅入られたように動けなくなったことがあったのだ。
自らが月光を放っているかのような透き通るほどに白い肌も、しなやかに流れるプラチナブロンドの髪も、この世のものとも思えぬほどの美しさだった。
リエナは月光と戯れ、何かに誘われるように、華奢な両腕を夜空に向かって伸ばした。リエナの姿が儚く月光に溶けていってしまいそうに映ったその瞬間、ルークは満月がリエナを攫うのではないかと錯覚したのをよく覚えている。
そして数年の時を経て、リエナは更に豊かに輝きを増している。
「どうしたの?」
リエナが尋ねた。ルークはいつの間にか、黙り込んでしまったらしい。
「昔のことを思い出してたんだ」
「昔?」
「ああ。旅の途中で、満月を眺めるお前に見惚れてた」
「そんなことがあったかしら……?」
リエナは瞳を閉じて、ゆっくりと記憶をたどった。
「思い出したわ。でも、わたくしが月を見ていたことは覚えているけれど、あなたがそんなふうだったなんて」
「この世のものとも思えないほど、綺麗だったんだぜ」
リエナは幼いころから、月の女神の再来にして、満月を象徴する姫君と称えられた。今のルークは、その言葉の真の意味を知っている。
リエナは何も答えず、ただ微笑みを浮かべている。
「もう一本、持ってくるか」
ルークが立ち上がった。月夜の心地よさに、いつもよりも酒が進んでいる。普段はほとんど飲まないリエナも、今夜は珍しく酒杯を重ねていた。
「わたくしが持ってくるわ」
「女王陛下にそんなことはさせられないぜ」
「あら、いつもとは違うことを言うのね」
「まあ、たまにはいいだろ?」
ルークは笑って、席を立った。
********
ほどなくして新しい葡萄酒の壜を持って、ルークがバルコニーに戻ってきた。
「待たせたな……」
リエナにそう声をかけた瞬間、ルークは予想だにしない光景に思わず立ち尽くしていた。
ほんのわずかのうちに、空の景色が一変していたのだ。
そこに浮かぶのは――紅の月。
淡い紅の光を纏った満月の幻想的な美しさに、ルークは目を奪われていた。
「この月の光の色――リエナの、魂の色だ」
ルークが呻くように呟いた。
リエナはこちらに背を向けて、バルコニーの端に立って月を見上げている。
薄紅の月光が、纏った薄物から豊かなリエナの肢体をわずかに透かしていた。おろしたプラチナブロンドの巻き毛が潮風になびくたび、月のしずくが零れ落ちる。
リエナが振り返った。
満月の月光のもとに立つ姿はまさに、月の女神の降臨。月の神々の末裔にして、古の月の王国を統べる女王。その威厳と神々しさの前では、誰もが膝を折らずにはいられない。
しかしルークは怯むことなく、一歩ずつ、ゆっくりと歩み寄った。この姿を目の前にして跪かずにいられる、ただ一人の男である。
無言のまま、月の女神を腕に抱く。菫色の瞳が見上げ、深い青の瞳を捉えた。
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これは、青き海と紅の月が出会った夜の物語。
( 終 )
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