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         傷跡

「あっついなあ……!」

 ゴーグル付きの皮の帽子を脱ぎ、額を流れる汗を拭いながら、ル―クは足を止めた。

 真夏の照りつける日差しに、さすがのルークもうんざりしたらしい。帽子を団扇代わりにばたばたと振ってはいたが、余計に暑苦しくなるだけだった。仕方なく帽子をかぶり直そうとしたその時、遠くで何かがが光ったように見えた。ルークはアーサーとリエナに一声かけると、街道から離れ、一人で奥に入っていった。ほどなくして戻ってきたルークは、さっきとは打って変わって、えらく機嫌がよさそうである。

「おい、あそこに湖がある。ちょっと水浴びしていかないか? こう暑くちゃあ、倒れちまうぜ」

「お前に限って、『倒れる』のはないと思うけど、僕も水浴びには賛成。なんなら、今日はここら辺で野宿する? まだ時間は早いけど、そろそろ洗濯もしたいしね」

 アーサーも一見平気そうにはしていたものの、やはり相当こたえていたらしい。

「そうするか。リエナも疲れてるはずだしな」

 男二人の会話を聞いて、リエナはほっとしていた。ここ数日、特に暑さが厳しいせいもあり、あまり体調もいいとはいえない。水浴びをして、涼しい湖畔で一晩過ごせれば、ずいぶん気分もよくなるはずだ。

 三人はそのまま真っ直ぐに湖を目指して歩いていく。近づくにつれ、澄んだ水が強い日差しを浴びて、きらきらと輝いているのが見えてきた。濃い緑の木々が眼に眩しく、吹き抜けてくる風も、街道沿いのものに比べて格段に涼しい。

「おー、生き返るな」

 早速荷物を置いて水を浴びに行こうとしたルークを、アーサーが引き止めた。

「何だよ。早く行こうぜ」

「リエナが先。多分誰もいないとは思うけど、水浴び中の彼女を覗かれたら嫌だろう?」

 アーサーはリエナの耳に入らないよう、こっそりルークに耳打ちした。

「……それは困る」

 ルークも真剣な顔で頷くと、後ろからついて来ているリエナに向かって声をかけた。

「リエナ、俺達二人で見張ってるから、どっか見えないところで先に済ませてくれ」

「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらうわね」

 どこかいい場所がないか、リエナは辺りを見渡した。すると、大きく垂れ下がった木の枝で影になっているところがある。水は澄んでいるし、浅くて危険がなさそうなのも――リエナは泳いだ経験がないのである――ちょうどよかった。

 場所が決まったと、男二人に声をかける。念の為、毛布を垂れ下がった木の枝にかけて目隠しすると、リエナはローブを脱ぎ、冷たい水に身体を沈めた。

(気持ちいい……)

 今までの暑さと不快感が嘘のように消え去っていく。ひとしきり水を浴びてから、石鹸を取り出し、丁寧に髪と身体を洗った。あまりの気持ちよさに、洗い終わってもしばらく水に浸かっていた。

 透き通るように白いリエナの肌の上を、澄んだ湖水が滑り落ちていく。度重なる戦闘にもかかわらず傷一つない、きめ細かくなめらかな肌に、木漏れ日が反射して、よりいっそう輝きを増していた。

 やがて、水からあがったリエナは手早く身支度を整え、男二人に声をかけた。

「お先に。次はあなたたちの番ね。わたくしはその間に自分のお洗濯と夕食の支度をしておくわ」

 男二人もそれぞれ自分の洗濯物を抱えて、適当な場所に散った。しばらくして、大きな水音が聞こえた。早々に洗濯を終えたルークが、水に飛び込んだらしい。

 ちょうど夕食の準備に取りかかろうとしていたリエナが、湖の方を眼を向けると、ルークがどんどん向こう岸に向かって泳いでいるのが見えた。

 ローレシアは海にも近く、また城の近隣にはたくさんの湖がある。そのため、ルークは幼い時から、海辺や湖畔の離宮で夏を過ごす機会が多く、泳ぎも達者だ。久しぶりに思い切り泳げるのが余程気持ちいいらしく、見る間に彼の姿がちいさくなっていった。

(ルークは泳ぎも上手なのよね。……ちょっとうらやましいかも)

 リエナがそんなことを考えるともなしにルークの姿を眺めていたが、気がつくと、水面に彼の姿がない。

「……え?」

 驚いたリエナが立ち上がったとき、水面からいきなり大きな水飛沫があがり、ルークが顔を出した。リエナが自分の方を見ているのに気づいたのか、こちらに向かって、白い歯を見せて手を振っている。

(びっくりしたわ……。溺れるはずないとは思ったけれど)

「相変わらずだよ、ルークは」

 いつの間にか、洗い終わった洗濯物を抱えたアーサーが隣に立って苦笑していた。

「今日もあれだけ戦ったっていうのにね。体力だけは、いつでも余ってるみたいだ。――こどものときから、全然変わってない」

「そうなの?」

「僕もこどもの時には、ときどき夏の休暇をあいつと一緒に過ごしたんだ。ローレシア城から少し奥に入ったところに、大きな湖と離宮があるのは知ってるよね。そこでよく泳いだんだけど、どうがんばっても、あいつには勝てなかった」

「わたくし、一度も泳いだことないのよ」

「そりゃあそうだよ。僕の妹のルディアだって、水が怖いって、近づきもしないし、第一、周りが許さない。 ――日焼けするわけにもいかないしね」

 しばらくの間、二人でなんとなくルークの泳ぐ姿を眺めていたが、彼の方は一向に戻って来る気配がない。アーサーが半ば呆れて、リエナに話しかけた。

「僕は洗濯物を干したら荷物の整理をしてるから、何かあったら声をかけて。あいつを待ってたら日が暮れちゃうからね」

 その後も、もうしばらくリエナは湖に視線を向けていたが、やがて、ちいさな溜息を一つつくと、夕食の支度を始めた。

 ようやく泳ぎを堪能して、ルークは水からあがった。手早く身体を拭いて、ズボンだけを穿く。湖を渡ってくる風が、まだ少し濡れた素肌と髪に心地よい。そのままの姿でリエナの方に歩いていくと、背中を向けて料理に勤しんでいる彼女に声をかけた。

「リエナ、今日の晩めしはなんだ?」

「暑いから、さっぱりしたものにしようと思って……」

 振り返って返事をしたリエナは、ルークの姿を見て続きの言葉を飲み込んでしまった。

「どうした? 急に黙り込んじまって」

「ルーク、あなた……、その、傷跡……」

 リエナの眼の前に立っている、ルークの日に焼けた逞しい身体には、たくさんの傷跡があった。いつも自分から率先して魔物の群れに突っ込んでいく彼は、当然ながらいちばん負傷も多い。それだけでなく、体力のない若い女性であるリエナにできるだけ怪我をさせないよう、身体を張って彼女を庇うことがしょっちゅうある。しかも、負傷した時に限って、長い移動中で手持ちの薬草を切らしていたり、頼みの綱の回復の呪文も、アーサーとリエナの魔力に余裕がないことすらある。その時には、応急処置をして凌ぐしか方法がない。

 悲しそうな顔でその場で絶句してしまったリエナに対し、ルークはまったく気にしたふうもなく、自分の身体を指さしてあっさり言った。

「ん? これか?」

「どうして、こんなになるまで……! わたくしのせいだわ。いつも、あなたがわたくしを庇って、攻撃を受けて……!」

 菫色の瞳に、みるみるうちに大粒の涙が浮かんだ。それを見て、今度はルークの方が慌て始めた。

「な、泣くなよ……! 別に、お前に傷が残ったんじゃないんだから」

「そうじゃないの。わたくしのせいで、あなたに……!」

 作りかけの夕食の存在も忘れてしまったように、リエナはその場で泣きだしてしまった。

「ルーク、何故リエナをいじめてるんだ?」

 突然後ろから声がして、ルークは驚いて眼を向けた。そこには、呆れ果てたような表情のアーサーが立っている。

「アーサー! 人聞きの悪いこと言うんじゃねえ! ――リエナが、急に泣き出して……!」

 ルークは必死に弁解するが、アーサーの反応は冷たい。

「お前がいじめない限り、リエナが泣くわけないだろう? 何をしたんだ、観念して白状しろ」

「だから、何にもしてないって! 俺の身体を見て、急に泣かれたんだ。こっちが理由を知りたい!」

「身体……?」

 慌てふためいているせいで、ルークの説明は今一つ要領を得ない。

「だって、傷跡が……」

 大粒の涙を零しながら、リエナはやっとそれだけを言った。

「傷跡? ――そういうことか」

 アーサーにはリエナが泣きだした理由がすぐにわかったらしい。リエナに近づくと、穏やかに声をかけた。

「リエナは優しいね。でも、ルークに傷跡が残るのは、別に気にしなくていいんだよ」

「でも、ルークはわたくしを庇って……」

 リエナはまだ泣きじゃくっている。

「ルークみたいな男にとっては、傷跡は勲章みたいなものだから、ね?」

(大切な女性を庇ってできた傷跡だから、なおさらだよ)

 本当なら、アーサーは続けてこう言いたかったのだが、心のなかでつぶやくだけにとどめておいた。

「アーサーの言う通りだぜ。まあ、勲章かどうかはともかく、別に悲しむようなものじゃない。今ある傷跡だって、全部が全部、旅に出てからのものでもないしな」

「……え? そうなの?」

 リエナは涙に濡れたままの瞳をルークに向けた。

「ああ、俺、前に騎士団にいたことあるだろ? 演習中に魔物に襲われたりもあったし、いくつかはその時のだぜ」

「ルークの話は本当だよ。いくら王太子でも、在団中はそうそう特別扱いもしてもらえないだろうからね。――特に、ローレシアはそうじゃないかな」

「その通りだ。俺も一応は王族だから、顔にだけは傷が残らないように気をつけてるし。父上だって結構たくさん残ってるぜ。服着て見えないとこなら、別にいくつあったって構わない」

 まだ涙ぐんでいるリエナに、ルークは笑顔を見せた。

「な、だから気にするな。――お前だけは、そうならないようにはしたいけど」

 ルークにそう言ってもらっても、リエナはまだ悲しそうな表情のままだ。

「でも……」

「あ、お前まさか……、傷が残ってる、のか?」

「ないわ。――あなたがほとんど全部庇って、回復もわたくし優先にしてくれているもの」

「本当か? ――なら、いいけど」

 ルークはまたリエナが自分達に心配をかけたくないがために、本当のことを言っていないのではないかとは、少しだけ考えた。しかし、まさか自分で確認するわけにもいかず、今は彼女の言い分を信用するしかない。

「とにかく、俺の傷跡のことは気にするな。女性なら気になるのは当然だろうけど、男にとっちゃ、どうってことないから」

「……わかったわ」

 リエナも一応は納得できたようだ。まだ涙に濡れた瞳のままではあるが、頷いた。

 アーサーは余分な口を挟まず、二人の遣り取りを見守っていたが、どうやら落ち着いたらしいと判断して、リエナに声をかけた。

「じゃあ、そろそろ夕食の準備を頼めるかな? 僕は今から火を熾すから」

 ルークも、本当はリエナに頼みがあって声をかけたはずだったのを思い出した。

「リエナ、鍋貸してくれ。ちいさい方でいい」

「お鍋?」

「あっちに、うまそうな魚がたくさん泳いでたんだ。ちょっと行って獲ってくる」

 リエナは大小二つ持っている鍋のうち、ちいさい方をルークに手渡した。

 鍋を持って、ルークはまた湖の方に歩いていった。ズボンの裾をまくり、岸に近い浅瀬にざぶざぶ入っていくと、なんと手づかみで魚を獲り始めた。

 その様子を見て、アーサーは集めておいた薪に威力を絞った閃光の呪文で火をつけながら、感心半分、呆れ半分といった面持ちでつぶやいていた。

「いったい、どういう反射神経をしてるんだろうね。とても、大国の王子の姿には見えない」

 いくらも経たないうちに、ルークは鍋を手に二人のところへ戻ってきた。

「獲れたぜ。塩振って焼いたら、うまいはずだ」

 アーサーが鍋の中を覗き込むと、数匹の魚が泳いでいる。

「よく手づかみなんかで獲れるものだって、感心してたんだよ」

「こつがあるんだよ。泳いでるのをそのまま捕まえるんじゃなくて、岸に近い、草が生えてるところにいるやつを狙うんだ。アーサーなら、すぐにできるようになるぜ」

「いや、遠慮しておく。こういうことは、やっぱりお前の出番だと思うから」

 男二人のいつもの遣り取りに、リエナにもようやく笑顔が戻った。

 ルークの提案通り、魚はすべて焚火の周りで塩焼きにされた。涼しい風に吹かれながらの食事はとりわけおいしいものである。久々のご馳走に三人は満足だった。

********

 その夜、先に火の番となったルークは、リエナから少しだけ離れたところに座っていた。背を向けて横になっている彼女を見つめながら、昼間からずっと気になっていたことを考え続けている。

 視線を感じたのか、リエナは身じろぎしてルークの方を向いた。てっきり眠ったと思ったのに、まだ起きていたらしい。

「リエナ、まだ起きてたのか」

「ええ、でも、そろそろ眠れると思うわ。――どうかしたの?」

「昼間の話の続きなんだけど……。お前な……、本当に、傷跡残ってないよな?」

「ないわよ。どうして、また同じことを聞くの?」

「……お前のことだからさ、また俺達に心配かけないように、そう言ったのかと思ったんだ」

「本当よ。――あなたが庇ってくれているおかげだわ、ありがとう」

「なら、いい。じゃあ、早く寝ろよ。明日からまた大変だからな」

「おやすみなさい」

「――おやすみ」

 リエナはそのまま眼を閉じた。やはり疲れていたのだろう、すぐに眠れたようだった。ルークは彼には珍しくぼんやりと焚火を見つめていた。

 今夜は月もなく、わずかな星明かりだけである。深い闇と静寂が辺りを支配しているなか、焚火だけがあかあかと燃え、ルークの姿を照らしていた。

(俺の傷跡で、あんなにリエナに泣かれるとは思ってもみなかった……)

 昼間にリエナにも言った通り、傷跡が残ってもルークは構わないし、いちいち気にしてもいられない。実際、ローレシアの騎士団員達も、多かれ少なかれ、みな傷跡は残っていた。演習中などで負傷者が出たときも、回復の呪文を使える魔法使いの数は多くなく、薬草も数に限りがある。それでも周囲の団員達は、王太子であるルークを優先して回復しようとした。しかし、ルークは自分は丈夫で人一倍体力もあるから、重傷者を優先するようにといつも言ってきたのである。

 そんなルークにとって、リエナを庇うことは当たり前過ぎて、今までそれについて深く考えたことはなかった。けれど、彼女には重大な問題らしい。

(まいったな……。俺は純粋にリエナを守りたいと思うだけだが、それが、かえって負担になるっていうのか?)

 リエナがルークの傷跡を見て泣きだしたのには理由がある。ムーンブルク崩壊の時、彼女を救うために、父王、兄が生命を失った。その事実がリエナの心に大きな影を落とし、それ以来、彼女は他者が自分のために犠牲を払うことに対し、ひどく罪悪感を抱くようになっていたのである。

 一方で、ルークは少しでもリエナの力になりたいと願っているが、自分が彼女の犠牲になったという意識はまったくない。そのため、リエナが自分に守られることを負担に感じていることまでは理解できても、何故あそこまで過剰に反応したのか、どうしても真の理由までにはたどりつけなかった。

 いつの間にか、火の番の交替時間になっていた。アーサーに後を頼んだルークは、リエナにさっきよりもう少し近づいて隣に横になると、彼女の寝顔を見つめた。焚火のわずかな灯りに、リエナの華奢な姿が照らされている。

(この細い身体で、俺とアーサーに弱音を吐かずについてこられるだけでも大変なことなのにな……)

 リエナは強いが、同時に弱い。圧倒的な破壊力を誇る攻撃呪文と、驚異的な効果の回復呪文の両方を操るが、肉体的にはごく普通の女性である。魔物からの攻撃も、種類によってはたった一撃が致命傷になりかねない。

(リエナを最後まで守り切るのが俺の役割だ。いくら俺の傷が増えようが、そのせいでリエナに泣かれようが、今はそんなことを考えても何もならない)

 ルークはリエナを魔物の攻撃から庇うのをやめるつもりはさらさらない。

 結論は最初から決まっていた。それを確認すると、ルークは急に眠気を覚え、眼を閉じた。

                                           ( 終 )

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