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月のしずく
今夜も野宿である。いつも通り三人は焚火を囲み、リエナが腕を振るった手料理に満足した後、食後のお茶を片手にしばらく会話を楽しんだ。その後、ルークとアーサーはそれぞれ剣の手入れを始め、リエナは寝支度のために長い髪をまとめようと、紅色の頭巾を脱いだ。
「あ……」
リエナは夜空を見上げた。澄みきった漆黒の流れに、どこも欠けるところのない満月が浮かんでいる。
(なんて、綺麗……)
リエナはあまりの美しさに心惹かれ、立ち上がった。そのまま焚火の場所から離れ、うっとりと満月を見つめる。
寝支度をしていたはずのリエナが、突然焚火から離れていったのに気づいたルークは、何か起きたのかと心配になり、自分も立ち上がるとリエナの方に歩いて行った。
「おい……」
リエナに声をかけようとした瞬間、ルークはその場で動けなくなってしまった。
煌々たる満月の光の下に立つリエナは、この世のものとは思えないほど美しかった。透き通るほど白い肌は、自らが月光を放つかのごとく冴え冴えと輝き、しなやかに流れるプラチナブロンドの髪からは、わずかな風になびくたびに、まるで月のしずくのような煌めきが零れ落ちる。
(まさに、月の、女神……だ……)
ルークは食い入るように見つめ続けたが、リエナはまだその視線には気づいていないらしい。満月に魅入られたように、その場で立ち尽くしている。
「月の女神――本当にその通りだね」
いつの間にか、アーサーがルークのすぐ隣に立って、感に堪えないといった面持ちでリエナの姿を見つめている。
「お前がリエナに見惚れる気持ちは、僕にもよくわかるよ」
アーサーが意味ありげな笑みを湛えて、ルークに囁いた。
「――何だよ。驚かせないでくれ」
「別にそんなつもりはないよ。――本当にリエナは綺麗だ。ムーンブルクでも月の女神の再来だと謳われていたことは、お前ももちろん知ってるよね」
「……ああ、知ってる」
「こうしてリエナの姿を見ると、それがよくわかる。――彼女の真の美しさは、月光の下で発揮される、ってわけだね」
「――アーサー」
「何?」
「まさか、お前リエナのこと……?」
「リエナのことを、何?」
「いや、その……」
「リエナのことなら、もちろん好きだよ」
「……!」
ルークの顔は明らかに衝撃を受けていた。アーサーは内心で笑いを噛み殺しながら、言葉を継いだ。
「――かけがえのない仲間で大切な友人、だからね」
それでもまだ立ち直っていないらしい親友のために、はっきりと告げた。
「僕が女性として愛することができるのは、一人しかいないから。――安心した?」
いつもは穏やかな若草色の瞳が、少々意地悪げに光っている。
「……う、うるせー。余計なお世話だ!」
アーサーはそれには答えず、かすかに笑いを漏らすとそのまま元の場所に戻りかけたが、途中で振り向き、ルークに声をかけた。
「もうしばらくしたら、リエナをこっちに連れてこないと駄目だよ。――このまま月に帰ってしまったら、困るだろう?」
「……は? 何、言ってんだ? お前」
今度こそアーサーは笑いを隠せなかった。
「本当にお前ってやつは、冗談も通じないんだから困る。だいぶ冷え込んできたから、風邪を引いたら大変だ。だから、適当なところで焚き火のところに戻らないと駄目だって言いたかったんだよ」
そう言うと背を向けて焚火の前に戻り、途中になっていた剣の手入れをまたやりはじめた。
確かに言われてみれば、時折吹き抜ける風もずいぶんと冷たくなってきている。ルークが思い切って、リエナに声をかけようとした、そのとき――
満月はよりいっそう輝きを増し、降り注ぐ月の光がリエナを包み込んだ。
リエナは心から楽しそうな表情で、まるで踊るかのような足取りで月光と戯れている。ルークはかけるべき言葉を失って、その場で立ち尽くしたまま見惚れていた。
どのくらいの時間が経ったのか、リエナは何かに誘われるように、華奢な両腕を夜空に向かって伸ばした。その瞬間、ルークの眼には、リエナの姿が儚く月光に溶けていってしまいそうに映った。
(満月が、リエナを……攫う……? そんな馬鹿な……!)
我に返ったルークはリエナに声をかけた。
「おい、リエナ」
その声に、ようやくリエナははっとして、ルークの方に視線を向けた。同時に、リエナを包み込んでいた月光も闇に溶け、消え去った。
「あ、ルーク。どうしたの?」
夢を見ているかのような菫色の瞳は、満月を見つめ続けたせいか、わずかに潤み、いつも以上の輝きを放っていた。その瞳に真正面から覗き込まれて、ルークの心臓が跳ね上がる。
「だいぶ冷え込んできた。月を眺めるのもいいけど、いい加減にしとかないと風邪引くぞ」
「……本当ね。ごめんなさい、つい夢中になってしまって」
「早く戻って、火にあたれ」
「そうするわ」
そう言いながらも、どことなく名残惜しげにもう一度満月を見上げ、それでようやく満足できたのか、素直に戻ってきた。アーサーはいつの間にか剣の手入れも終え、毛布をかぶって眠ってしまっている。
焚火の前に座ったリエナに、ルークが熱いお茶を差し出した。
「ほら、これ飲んどけ」
「ありがとう」
そう言って、白いちいさな両手で受け取った。長い時間夜風に吹かれて立っていたせいか、自分では気づかないうちに身体が冷えてしまっている。じんわりとしたぬくもりが、冷たくなった指先に心地よかった。
「なあ、リエナ」
「なあに?」
ルークは自分もお茶をひとくち飲むと、焚火の方を向いたまま、リエナに問いかけた。
「お前、そんなに月を見るのが好きなのか?」
「ええ、好きよ。月を、特に今夜のような満月を見ていると、とても懐かしい気がするの。――自分でも理由はよくわからないのだけれど」
「そうか……」
会話はそれで途切れたが、不思議と気まずい雰囲気はなかった。リエナはお茶を飲み終わると、茶碗を片付け、再び寝支度のために長い髪を梳き始める。
ルークはまたその姿に見惚れていたが、まだ剣の手入れの途中だったことを思い出し、慌てて道具を取り出した。
「おやすみなさい」
髪をまとめたリエナがルークを見て微笑む。
「ああ、おやすみ」
ルークも手を動かしながら、答えた。
リエナが眠りにつき、ルークも剣の手入れを終えて片付けると、夜空を見上げる。彼にしては珍しく大きな溜息をついていた。
(一瞬、リエナの姿が月の光に溶けて消えちまいそうだった。――ちゃんと戻ってきてくれて、よかった)
――満月はいつの間にか、南の空に高く昇っていた。
( 終 )
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