ラリホー! ラリホー!

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 鬱蒼とした森を抜けた瞬間、ルークの目の前が真っ赤に燃えた。何ものかが先頭を歩くルークに向かって炎を放ったのだ。

 ルークは咄嗟に背中ですぐ後ろにいるリエナを庇い、盾で炎を防いだ。地を焼くきな臭い匂いに混じり、魔物のけたたましい嗤い声が響き渡る。

 盾を下ろしたルークの視線の先に、毒々しい紫色の小悪魔が飛んでいる。まるでこちらを馬鹿にしたかのような表情で、再び嗤い声をあげながらルークに襲いかかってくる。

「……グレムリン、か」

 ルークが呟きを漏らした瞬間、大剣が一閃した。耳障りな断末魔を聞く暇もなく、グレムリンは屍となり果て地に墜ちた。

 しかし、グレムリンは一匹ではなかった。地面にはたくさんの魔物の影。空を見上げれば、びっしりと飛び交っている。この近くに巣でもあるのか、滅多にないほど数が多い。

 ルークとアーサーは互いにやや距離を取って背を向け、男二人の間にリエナが立つ。同一種類の多数の魔物に対しては、リエナの真空の呪文がもっとも効力を発揮する。彼女が詠唱に集中できるよう、援護するのである。

 リエナは魔導士の杖を両腕で胸の前でいだくと瞳を閉じ、精神の集中を始める。魔力の渦とともに、えもいわれぬほどの美しい薄紅の光――リエナの魂の色であり、魔力の象徴である――が輝いた。

 しかし詠唱に入ろうとしたその瞬間、それまでの嗤い声とは違う、呪詛のようなうめき声が群れの一角から響き渡る。

「……ラリホー!」

 グレムリンの放つ睡眠の呪文――どす黒い瘴気がリエナに向かって放たれた。

 リエナもすぐさま反応する。菫色の瞳が開かれたその瞬間、彼女が発する薄紅の光が強くなり、自身を守る鎧のように華奢な身体を覆う。グレムリンの放った瘴気は薄紅の光に触れた瞬間、あえなく消え去った。光はさらに広がり、ルークとアーサーまでも包み込んだ。

 強大な魔力を持つ魔法使いを眠らせるのは容易なことではない。リエナはすぐさま反撃に移る。すっと背筋を伸ばし、両腕で魔道士の杖を正面に構え直した。菫色の瞳は強い意志に満ち、魔物らを見据えている。

「風の精霊よ……」

 花びらのような唇から真空の呪文が紡ぎ出されはじめた。詠唱が進むにつれ、薄紅の輝きはますます強くなり、杖に仕込まれた紅の石に魔力が注ぎ込まれていく。

 しかし、グレムリン達も負けてはいなかった。

「ラリホー!」

「ラリホー!」

 性懲りもなく連続で呪文を放ってきた。それらすべてがリエナに向けられている。グレムリンは妙に賢いところがある。ルークもアーサーももちろん強い。しかし数を頼みにしている魔物にとって、複数を一度に葬れる真空の呪文が一番の驚異である。従ってリエナさえ眠らせれてしまえば自分達が圧倒的な有利になると、本能的に理解しているのだ。

 あちらこちらから何ともいえない嫌な色の瘴気が放たれ、リエナの薄紅の光に絡みつく。最初のうちはリエナの光に触れた瞬間、瘴気は浄化されて消え去った。しかし、グレムリンの呪文は際限なく続く。あとわずかで真空の呪文が完結できるところまできて、薄紅の光の輝きが弱まってきた。

 ここで眠ってしまってはいけない。リエナは詠唱を中断し、魔道士の杖を天に向かって掲げた。ゆっくりと振りかざしながら敵の呪文を無効化していく。再び薄紅の光が強まった。

 その後もグレムリンの睡眠の呪文との攻防は続く。リエナも早く態勢を立て直し、真空の呪文を唱えて反撃に移りたい。しかし今は、自分へ向けられる睡眠の呪文を跳ね返すだけで精一杯だった。

 とにかく数が多すぎるのだ。無論ルークもアーサーも戦い続けている。グレムリンは睡眠の呪文を唱えるだけでなく炎も吐くし、直接攻撃も仕掛けてくる。リエナを守るため、基本的に迎撃の構えを解くわけにはいかないのだ。二人の剣にしろアーサーの閃光の呪文にしろ、一度に一匹ずつしか相手にできない。ひたすら目の前の敵を葬っていくより方法がないのである。

 男二人の援護を受け、リエナはもう一度精神を集中する。魔導士の杖の紅の石から、目も眩むほどの光が迸しった。

「――バギ!」

 紅の石に凝縮された魔力が無数の刃となってグレムリン達を襲う。あちらこちらから阿鼻叫喚の呻き声とともに、多数の魔物が地に墜ち、醜い屍を晒した。

 しかしその時、リエナのすぐ目の前から瘴気が襲ってきた。

「ラリホー!」

 睡眠の呪文がリエナにまともに命中した。思わぬ反撃だった。真空の刃に切り刻まれ、断末魔の苦しみにもがくグレムリンが、リエナを道連れにせんとばかりに放った呪文だった。

 薄紅の光がふっと弱まった。しっかりと見開かれて、正面を見据えていたはずの菫色の瞳の睫毛が揺れる。

 同時に、華奢な身体がぐらりと揺れた。流石のリエナも真正面から受けた睡眠の呪文に抗しきれなかったのだ。普段なら容易に跳ね返せるが、距離が近すぎたうえに詠唱完結直後のほんの一瞬の隙を突かれてしまった。

 間髪を入れずルークが動いた。駆け寄り、地面に倒れる寸前でリエナの身体を受けとめた。ルークはその場で腰を落とし、片膝をつくと左腕でリエナを抱きかかえ、眠りに落ちた彼女を防御するべく体勢を整える。盾はリエナのために使い自らを守ることは捨てていた。

 生き残りのグレムリン達は死に物狂いで襲ってくる。ルークは炎を浴びせられながらもその場から動かず、直接攻撃を仕掛けてくる敵を迎撃し続ける。

 アーサーは二人から距離を取った。アーサーの役割は自分が囮となり、残りのグレムリンが二人に近づくのを少しでも阻止することだった。まずリエナに回復の呪文をかけた。外傷はなさそうであるが、睡眠の呪文で意識を奪われているリエナは、男二人に比べてはるかに危険な状態となる。見えない場所に傷を負っていた場合、軽い一撃であっても致命傷になりかねないからだ。

 その後もアーサーは縦横無尽に動き続けた。ルークがその場で動けない分、自分がやるしかない。細身の剣を振るい、同時に放たれる閃光の呪文で戦う姿は、軽やかで優美で、まるで舞いを舞っているかのようにすら感じられる。

 幸い、この頃には魔物の数はかなり減っていた。何より、さきほどのリエナの真空の呪文の効果が絶大だった。グレムリン達にとって三人は思わぬ強敵だったらしい。簡単に血祭りにあげるつもりが、逆に味方を大勢失っていた。得意の睡眠の呪文もリエナによって相当数無効化され、魔力はとうに尽きている。怖気づいて巣に逃げ帰るものも多数いたのだ。

********

 ようやく最後の一匹が地に墜ちた。平原には累々とグレムリンの屍が転がり、激しかった戦闘を物語っている。

「……終わったな」

 ルークがようやく息をついた。

「長かったね。――まさか、こんな集団に襲われるとは思ってもみなかったよ」

 アーサーも荒い息を吐きながら答えた。

 ルークは頷きを返すと、今度はリエナに声をかけた。

「おい、リエナ。大丈夫か?」

 しかしリエナは、ルークの腕のなかでぐったりとしたままだった。

「リエナ?」

「ルーク、まだリエナは目覚めないのか?」

 アーサーが近づいてきた。

「おかしいね。通常であれば、呪文は術者が生命を落としたその瞬間に効力を失うはずなのに」

「ああ、こんなことは初めてだ――数が多すぎたか?」

「その可能性はある。念のために聞くけど、外傷はないよね?」

「大丈夫なはずだ。すくなくとも眠らされてからは、リエナに攻撃は当たっていない」

 ルークの言う通りだった。呪文で眠りに落ちた直後にアーサーが回復しているし、その後はルークが身を挺して攻撃から守っていた。

「それなら待つしかないね」

 アーサーも地面に腰を下ろす。ルークとリエナからはすこしばかり距離を取り、背中を向けている。アーサーはいつもこうだった。いくら戦闘中に呪文で眠らされたからとはいえ、貴婦人であるリエナの無防備な姿を見ることはしないのだ。どんな状況にしろ、リエナに触れるのはルーク一人である。旅が始まった当初からの、男二人の間でできた暗黙の了解である。

 しばしの間、沈黙が辺りを支配した。グレムリンとの激しい戦闘に恐れをなしたのか、この辺りに生息している動物の気配すらない。

 リエナはまだ目覚めない。いくら不意打ちで真正面から呪文で攻撃されたとはいえ、そろそろ効力が切れてもいい頃なのだ。

 心配になったルークはリエナの身体を抱え直すと、リエナの顔を覗き込んだ。

 透けるように白い顔はまだ血の気を失ったままである。

(……息、してるよな?)

 ルークは呼吸を確認しようと顔を近づけた、その瞬間――

 菫色の瞳が開かれた。

「……え?」

 目覚めたばかりのリエナの眼の前に、ルークの深い青の瞳が迫っていた。しかも、逞しい両腕にしっかりと抱きかかえられている。思いがけず、お互いの息がかからんばかりの距離で見つめ合う格好になってしまった二人は、しばしそのままの状態で固まってしまっていた。

「……うわ! 悪い」

 ルークは狼狽しながら、身体を離そうとした――が、リエナの身体を取り落としそうになり、慌ててもう一度抱きかかえる。リエナの方も、咄嗟のことでルークに縋りついた。ルークの心臓が跳ね上がった。思いがけないほど豊かな何かが、自分に押し当てられたからだった。

 ルークの逞しい腕の中でリエナは包み込まれるようにおさまっている。思いがけず、しっかりと抱き合う格好になってしまったのに、何故か二人はしばらく動くことができなかった。

「リエナ……目、覚めてるな?」

 ルークはあらぬ方に視線を向けたままリエナに問いかけた。ルークが動けないでいるのは、わずかでも身じろぎすれば自分にあたるリエナの柔らかさに意識が向いてしまうからだった。それに気づかれるかもしれない気恥ずかしさの方が先に立って、どうしても顔を見ることができないのである。

「……ええ、大丈夫、よ」

 リエナの言葉にほっとしつつ、ルークは名残惜し気にリエナを抱く腕をゆるめた。正直なことを言えば、もうしばらくこうしていたかった。しかしその気持ちはリエナにはもちろん、アーサーにも覚られるわけにはいかない。

「よかった」

 ルークは煩悩を振り払い、今度は慎重に身体を離す。さっきのように狼狽してリエナを落としてしまわないよう、きちんと地面に座らせることも忘れていなかった。

 一方で、座り込んだままのリエナは、ようやく事態を――呪文で眠らされ、地面に倒れそうになった自分をルークが支え、魔物の攻撃から守ってくれていたことを理解していた。ゆっくりと立ち上がり、そっとローブの裾を直しながら、再びルークへちらりと視線を向ける。けれど恥ずかしさのあまり、ルークへ背中を向けるとうつむいてしまった。その顔はいつの間にか、薄紅に染まっている。

「あの……ルーク?」

「……ああ、何だ?」

 さっきまで抱き合っていたはずの二人は、今はお互いに背中を向けてしまっている。

「ごめんなさい」

「……謝る必要なんてないぜ」

「でも……」

「何度も同じこと言わせるなって。いくらお前でも、あんな状況で呪文喰らったら避けられないのは仕方ない。――とにかく、無事でよかった」

 リエナから視線を外したまま、ルークはぶっきらぼうに答えを返した。

 そんな二人の様子を、アーサーは意味ありげに見ている。そろそろいい頃合いだろうと、二人に声をかけた。

「じゃあ、そろそろ出発しようか?」

「あ、ああ、そうだな」

 ルークはそのまま荷物を担ぎ直すと、さっさと歩きだし、リエナは慌てて小走りで後を追う。

「……相変わらずだよね。手がかかって仕方ない」

 いつもと同じ二人の遣り取りに苦笑しつつ、二人に聞こえないよう小声で独りごちる。アーサーはちょっと肩をすくめ、自分も荷物を背負い直し、歩き始めた。


( 終 )


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