小説おしながきへ
                                                     TOPへ

移り香
 季節は初夏を迎えていた。空は青く澄みわたり、照りつける日差しが木々の根元に濃い影を落としている。汗ばむほどの陽気に、街ゆく人々の服装もすっかり軽装になっている。

 そんなある日の昼下がりのこと。リエナは宿の自分の部屋で、荷物から裁縫道具を取り出していた。ルークに頼まれ、破れてしまった青い旅装束の繕い物を引き受けたのである。今この宿にいるのはリエナだけで、男二人はそれぞれ用事を済ませに出かけている。

 魔物との戦闘の時、ルークはいつも率先して斬り込んでいく。相手の懐に飛び込んでの接近戦を得意とするルークは、三人の中でもいちばん負傷が多かった。そのぶん他の二人よりも、どうしても衣服が破れてしまう。またリエナは手先が器用で、刺繍が趣味だから、破れた衣服を縫うくらいはどうということもない。そういうわけで、ごく自然に、繕い物はリエナの担当になっていたのである。

 針に糸を通しながら、リエナは思わず笑みをこぼしていた。ついさきほど、ルークが自分にこの旅装束を渡した時のことを思い出したのである。

********

「リエナ、悪い。またこれ、縫ってくれるか?」

 ルークはリエナに青い旅装束を差し出した。

「ええ、わかったわ。今日中にはできあがると思うから、終わったらお部屋に届けるわね」

 リエナは旅装束を受け取ると、その場で破れ目を確認した。左肩の背中に近いところに、魔物の爪跡らしい大きなかぎ裂きができている。それだけでなく、かぎ裂きの端が不自然に引きつれてしまっていた。

「ルーク、これ、どうかしたの?」

 リエナの疑問に、ルークは一瞬口ごもっていたが、やがてぼそりと答えた。

「いや、実は……、洗濯した時に、無理に引っ張っちまったらしい。……ごめん」

 言われてみれば、旅装束にはどこも汚れがなく、かすかに石鹸の匂いがしている。ルークもリエナに返り血と汗で汚れたまま繕い物を頼むのは気が引けたらしい。自分で洗ったまではよかったが、力が余って、余計に破れ目を大きくしてしまったのだった。

 納得がいったリエナは、ルークを見上げてにっこりと微笑んだ。

「大丈夫よ、わたくしに任せておいて」

********

「さあ、できたわ」

 糸の端を切って、リエナは針を針山に戻した。繕った箇所がきちんと縫えていることをもう一度確認すると、裁縫道具を片付ける。皺にならないように畳んでおこうと机の上に広げたそのとき、思わず旅装束に見入っていた。

(やっぱり、大きいわね……)

 ルークから繕い物を頼まれるたび、自分のローブとの大きさの違いを感じていた。けれど、いつもは時間の余裕もなくて、縫い終わり次第すぐに返していたから、こんなふうにルークの旅装束をゆっくりと見たのは初めてだった。

 リエナは椅子から立ち上がると、旅装束を手に取った。そのままそっと、自分の身体にあててみる。

 ルークの腰までしかないはずの丈が、リエナの膝を覆うくらいまでになっている。横幅に至っては、華奢なリエナの身体が優に二人分が入るくらい、たっぷりと余裕がありそうだ。旅装束を自分の身体にあてたまま、リエナはルークがこれを着た姿を思い起こしていた。

 小柄で非力な自分とはまったく違う、力強い、ルークの姿。群衆の中でも目立つほどの長身、重い大剣を軽々と操る逞しい腕、がっちりとした肩と広い背中の持ち主であるルークが纏えば、この大きな旅装束もぴったりと寸法が合っている。

 そのとき唐突に、リエナの脳裏にルークに抱きしめられたときの記憶がよみがえった。

(いやだわ、わたくし、なんてはしたない……)

 これまでの長い旅の間に、リエナは何度もルークに抱きしめられていた。とはいっても、普段のルークは決して、リエナに指一本たりとも触れてくることはない。必ず、何かしらの理由があるときに限られている。

(あの時、あたたかいルークの腕のなかで、傷ついた心がどれだけ癒されたか……)

 三人揃っての、旅の初日のことだった。ムーンペタの宿で、リエナは夜中にムーンブルク崩壊の悪夢にうなされ、眼を覚ました。自分では気づかなかったが、悲鳴をあげてしまっていたらしく、心配したルークが様子を見に来てくれたのである。そしてその時、初めてルークに抱きしめられた。

 ルークの腕のなかはあたたかかった。既に婚約を解消している相手にそんな振る舞いを許してはいけないはずなのに、力強くあたたかい腕のなかで、ムーンブルク崩壊以来初めて、心の安らぎを感じていた。そして、いつの間にか、涙があふれてきた。悲しみが強過ぎて、それまでどうしても流すことのできなかった、涙が。

 翌朝、重苦しいばかりだった心がわずかながら軽くなったことに気づいて、リエナは自分が心から安らげるのはルークのそばだけであることを自覚していた。

 旅を続けていても、悪夢はたびたびリエナを悩ませた。その度、ルークの腕のなかでリエナはようやく心の安定を取り戻すことができていた。旅が始まって数ヶ月経ったある夜、リエナはまたムーンブルク崩壊の夢を見た。魔物が嬉々としてリエナに襲いかかろうとするまさにその時、鮮やかな青い光――ルークの魂の光――に包まれ、悪夢から助け出された。眼覚めた時、ルークが眼の前にいてくれ、この夜だけでなく、今までもずっと助けてもらっていたことを知った。おかげで、最近は悪夢を見ることはほとんどなくなっている。

 リエナは、自分から『抱きしめてほしい』と願ったことは一度もない。――もしかしたら、自分では気づかないだけで、心の奥底では願っていたのかもしれないのだけれど。

(ルークはいつもわたくしのそばにいてくれるわ。何も言わないけれど、いつだって、大切に守ってくれている……)

 知らず知らずのうちに、リエナは旅装束を抱きしめていた。

「――ルーク、ありがとう」

 リエナは青い旅装束にちいさく囁きかけた。透き通るほど白くなめらかな頬は、いつのまにか薄紅に染まっている。

********

 リエナの部屋をノックする音が聞こえた。

 その音ではっと我に返ったリエナは、慌てて旅装束を机の上に戻した。扉を開けると、用事を済ませて帰って来たルークが立っている。

「ただいま、リエナ」

「お帰りなさい。早かったのね。――ちょうど今、繕い物が終わったところよ」

 出迎えるリエナの頬はまだ染まったままである。

「お、ありがとう。いつも助かるぜ」

 リエナが旅装束を手渡すと、ルークは破れ目が綺麗に繕われたのを見て笑顔になった。

「流石だな。いつもながら綺麗に縫えてる。早速着てみてもいいか?」

「ええ、もちろんよ」

 ルークは隣の自分の部屋に姿を消した。ルークを見送ったリエナは、思わず椅子に座り込んでいた。胸の鼓動が高鳴っていることが、自分でもはっきりとわかる。つい今しがたまで抱きしめていた旅装束が、今はルークの手の中にある。

 ――まだ自分のぬくもりが残っているかもしれないものを、ルークが身に纏う。

 そのことに思い至ったリエナの心臓が大きく跳ね上がった。

********

 自分の部屋に戻ったルークは、今着ている旅装束を脱ぎ捨て、リエナが繕ってくれた方を頭からかぶった――とその時、ふっと何かいい香りがした気がした。

(……なんだ、これ。石鹸の匂いとは違うみたいだけど)

 気になったルークはかぶった旅装束を脱ぎ、あらためて鼻を近づけてみると、ほのかに香りがしている。決して強くはないのだけれど、ほんのりと甘く、それでいて清々しい香り。何かの花の香りなのかもしれないが、残念ながらそれ以上のことはわからない。

 ルークはもう一度手早く着直した。香りを身につける習慣はないけれど、いい匂いの衣服を着て、気分が悪かろうはずはない。リエナが繕ってくれたのだから、尚更だった。

 ルークはリエナにあらためて礼を言おうと、足取りも軽く、自分の部屋を後にした。

********

 再びリエナの部屋にノックの音がした。

 まだ動悸がおさまらないリエナは、一度深呼吸をすると立ち上がる。高鳴る胸をなだめつつ扉を開けた。着替えを済ませたルークが部屋に入って来る。

「どうかしら?」

 リエナはルークを見上げた。

「着心地なら上々だ。ありがとうよ」

 ルークは満面の笑みで頷いた。

「縫い目が引きつれていないかしら。なるべく細かく縫っておいたから、もうここから破れることはないと思うけれど……。見せてもらってもいい?」

「ああ、頼む。自分じゃよくわからないから」

 ルークはリエナが見やすいよう少し屈んだ。リエナは背伸びをして、ルークの肩に顔を寄せる。

 その時、ふわりといい香りが立ち昇り、ルークの鼻腔をくすぐった。

(うん? ――この、香り……)

 今自分が着ている旅装束のと同じものに違いない。それに気づいた瞬間、ルークはかっと顔に血が昇るのがはっきりとわかった。おまけに自分の顔のすぐ近くにリエナの横顔がある。眩しくて仕方がない。

 ――リエナを抱きしめたい。

 ルークは突然、激しい衝動に駆られた。リエナは自分のすぐ眼の前にいる。腕をほんのわずか伸ばしさえすれば、リエナの華奢な身体は、自分の腕にすっぽりとおさまってしまう。

「大丈夫みたいね」

 ルークの焦燥など知る由もないリエナの声が聞こえる。その声ですら、今のルークには耐え難いほどの誘惑となった。ルークは意思の力で、かろうじて自分の不埒な衝動を抑え込んだ。

「……ああ。大丈夫だ」

 ルークはわざとゆっくり身体を伸ばした。あらためてリエナを見下ろすと、彼女の頬は今日の暑さのせいなのか、なんとなくいつもよりも赤くなっている気がする。

 自分も顔が赤くなっているだろうことは容易に想像がつく。けれど、これも暑さのせいだと思ってもらえるんじゃないか――ルークはそんなことを考えていた。

「ルーク」

 リエナに話しかけられて、ルークは我に返った。

「……何だ?」

「どうかしたの?」

「いや、別に何でもねえよ。――それより、リエナ」

「なあに?」

「飯でも食いに行くか? 帰り道で、うまそうな食堂があったんだ。――ああ、まだ飯時には早いか。でも、この時間なら菓子類もあるだろうから、一緒に……どうだ?」

「……え?」

「別に嫌なら嫌って言ってくれて構わないぜ。――綺麗に縫ってくれたから、まあ、その……礼代わり、みたいなもんだ」

 ルークとしては精一杯の誘いである。リエナも突然の誘いに一瞬驚いたようだが、はみかみながらも微笑んだ。

「うれしいわ」

「じゃ、早速出かけるか」

 ルークとリエナは笑みを交わすと、連れ立って宿を出て行った。並んで歩く二人の距離は、いつもよりもほんのわずかだけ、近づいていた……かもしれない。

                                             ( 終 )


                                         小説おしながきへ
                                             TOPへ