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旅路の果てに
第14章 2


 リエナが無事出産を終えた一週間後の朝、ジェイクはルークと裏山に来ていた。

「じゃあ、ルーク。ちょっとここで待っててくれよ」

「わかった。魔物の気配は無いが、充分に気をつけてくれ」

「大丈夫だ。神聖な儀式だからよ、魔物も今日ばかりは遠慮してくれるはずだぜ」

 口調は冗談めいていても、真剣な表情である。しかも服装もいつものとは違っている。早朝に身体を清めた上に、ルビス教の助祭のものに似た、ローブを羽織っているのである。

 ジェイクは一歩一歩、丁寧に歩みを進め、ある場所に辿り着いた。

 目の前にあるのは、蟠桃(ばんとう)の木である。

(よし、これがいい。思った通り、ちょうど盛りだ)

 たわわに実をつけた木からは、芳醇な甘い香りが漂ってくる。ジェイクはゆっくりと深呼吸をすると跪いた。頭を垂れて、ルビスの祈りの言葉を唱え始める。

「……トランの村に、新しい生命が授かりました。ルビス様、この山の恵みを一身に受けて、健やかに育つようお見守りください」

 両手を組み、最後の祈りを捧げると、ジェイクは立ち上がった。目の前の木から、まず一つ蟠桃を採るのである。やわらかな実を傷つけないよう慎重にもぎ、真新しい布に包む。その実を傍らに置いた後、同じ木から、今度は数を数えながら、次々と収穫していく。

 ほどなくして、持参した籠いっぱいになった。その中心に、最初に採った蟠桃を布ごとそっと置く。その様子はまるで、周りの蟠桃に守られているかのようである。

 ジェイクは満足げな笑みを見せると、踵を返した。

********

「待たせたな」

「ありがとうよ。――珍しい果物だな。これは桃、なのか?」

 ジェイクの持つ籠を覗き込んで、ルークが言った。蟠桃は普通の桃と違い、平たい形をしている。各地を旅してきたルークも、見るのは初めてだった。

「ああ、そうだ。蟠桃、っていってな。この裏山にも一本しかないんだ。この時期、ほんの一時だけ実をつける。ちょうど盛りだからよ、今回の儀式はこれにしたんだ」

「そうか。貴重品だな」

「おうよ、坊主の祝いに、ルビス様がお恵みくださったに違いない」

「確かにな。――ルビス様に感謝しないといけない」

「じゃあ、戻るぜ。エイミが支度して待ってるはずだ」

 ジェイクとルークは、二人でルークの家に帰った。

********

「お帰り」

 玄関で、エイミが男二人を出迎えた。エイミもジェイクと同じく、助祭のようなローブを羽織っている。

「お疲れさん。蟠桃、あったんだね」

 エイミが籠を覗き込んで笑顔になった。

「おうよ。後は頼んだぜ」

「エイミ、俺からも頼む」

「あいよ、任せておいて。久しぶりだから、あたしも楽しみにしてたんだ」

 エイミは頷いて蟠桃の籠を受け取ると、台所へ向かう。いつもなら、村の女数人が手伝いに来るのであるが、儀式であるから今日は一人きりだった。出産を終えたばかりのリエナは、床上げするまで産屋で赤ちゃんと過ごしている。今もラビばあさんが付き添ってくれていて、そちらは心配ない。男二人は居間で待機である。

 エイミは、これまでも何度も手伝いに来ているから、リエナの台所も勝手はわかっている。籠を流しの横の台に置くと、両手を組んで、ルビスの祈りの言葉を唱え始めた。

「新たに迎えた愛し子(めぐしご)に、祝福を賜りますよう」

 エイミはこれから、儀式用の蟠桃の砂糖煮を作るのである。

 儀式は通常、生後7日目に行われる。トランとその近郊の村に古くから伝わる風習で、村に新しく子が誕生すると、裏山からその季節の恵みを収穫し、産まれた子の家のかまどの火で調理する。ただし、産まれた子の母はまだ台所に立てないので、村のまとめ役の妻が引き受けるのである。

 エイミは布に包まれた蟠桃を手に取った。今から調理するのは、この一つだけである。水でよく洗い、慎重に包丁を入れる。丁寧に皮を剥いて刻むと、小鍋に移した。上から砂糖を振りかけ、火にかける。

 やがてふつふつと煮立ち始める。さほど大きくない蟠桃一つぶんだけであるから、焦がさないよう火加減に気をつけてゆっくりと混ぜていく。柔らかく煮えたところで火から下ろした。

 蟠桃の砂糖煮ができあがった。鍋から白磁の小皿にほんのすこし盛り、銀の匙――村に昔から伝わる儀式用である――を添える。

「……できた。ルビス様、ありがとうございます」

 エイミはゆったりと微笑むと、小皿を盆にのせて台所から出てきた。ルークが長椅子から立ち上がって出迎える。

「エイミ、ありがとうよ」

「どういたしまして。じゃあ、はじめるからね。ルーク、リエナちゃんの準備ができてるかどうか、確認してきて」

「わかった」

 ルークが産屋に入っていく。リエナは寝台の上で、背もたれにゆったりと身体を預けていた。今日は質素ながら、白い衣服できちんと身じまいしている。赤ちゃんも同じく白い産着にくるまり、リエナに抱っこされていた。今は目を覚ましているらしく、時々可愛らしく手や足を動かしていた。傍らには、ラビばあさんが満面の笑みで立っている。

「リエナ、準備はいいか?」

「ええ、大丈夫よ」

「じゃあ、ジェイクとエイミを呼んでくる」

 ジェイクとエイミが揃って産屋に顔を出した。エイミは産後の手伝いで毎日赤ちゃんを見ているが、ジェイクはこれが初めてだった。ちいさな顔を覗き込むと、破顔する。

「元気そうな坊主だ。リエナちゃん、おめでとう」

「ありがとうございます」

「ほんとうに、よかったな」

 リエナの眼尻に、わずかに光るものがある。ジェイクも柄にもなくもらい泣きしそうになりながら、何度も頷いた。

「じゃあ、はじめようね」

 エイミが、蟠桃の砂糖煮がのった盆をルークに渡した。ルークは盆を持ったまま、リエナの傍らに跪く。リエナが銀の匙でほんのすこしすくい、その白い手に、ルークが大きな手を添える。

 父と母になったばかりの二人が、声を合わせる。

「私たちの愛し子に、ルビス様の祝福を」

 そして、銀の匙をリエナに抱かれた赤ちゃんの口元に持っていく。

 丈夫に育つようルビスの恵みを賜る、この村に古くから伝わる儀式だった。

 産まれたばかりの赤ちゃんであるから、もちろん砂糖煮を食べさせるようなことはせず、形だけである。赤ちゃんの方は自分に何をされているのかはわからないものの、機嫌は悪くなさそうだった。

 つつがなく儀式を終えて、エイミがリエナに声をかけた。

「さ、こっちは済んだ。リエナちゃん、疲れたでしょ。ゆっくり休んでね。あたしはもうひと頑張りしてくるから」

「エイミさん、ありがとうございます」

 エイミがジェイクと一緒に産屋を出て行った。ジェイクがエイミに声をかける。

「じゃ、俺は集会所に向かうから、あとは頼んだぜ」

「うん、そっちもよろしくね」

 エイミは台所に戻った。これから、再び蟠桃の砂糖煮を作るのである。ただし、今度は量が多い。何しろ、村の人数分と同じだけの蟠桃を使うのだから。

 エイミはせっせと作業を進めて行く。熟練の主婦である彼女は、料理や菓子作りはもちろん、保存食もお手のものである。それでも、これほど一度に大量の砂糖煮をつくることはまずない。けれど、村で新しい赤ちゃんを迎えた喜びの方が大きいから、エイミにとっても楽しい作業になるのである。

 時折、ルビスの祈りの言葉を唱えつつ、大鍋をかき混ぜる。やがて、台所に甘く芳醇な香りが満ちて、砂糖煮ができあがった。

 エイミがほっと一つ息をついた。そして、大鍋の傍らの小鍋を慎重に持ちあげる。その中の、さきほど赤ちゃんの儀式用の残りの砂糖煮を大鍋に移した。

 最後にもう一度ルビスへ祈りを捧げながら、ゆっくりとかきまぜていく。赤ちゃんが、新たに村の一員となる――だから、村の人数と同じ数だけの蟠桃を使うのである。

 蟠桃の砂糖煮は、これから集会所で村人全員に振る舞われる。その場にはルークも参加し、無事に出産を終えたことを報告して、村人から祝福を受けるのである。

********

「できたよ」

 エイミが産屋に入ってきた。手にした盆には、今度は皿が3つのっている。ルークとリエナ、そして、付き添いのために集会所へは行かないラビばあさんの分だった。

 それぞれ、礼を言って受け取った。

「ルビス様、いただきます」

 声を揃えて祈りを捧げた後、それぞれが口にする。甘く芳醇な味が広がった。

「これで、赤子は正式に村の一員じゃ。――ほんによかったの」

 満面の笑みのばあさんに、ルークとリエナもあらためて喜びをかみしめていた。

「こんなに素晴らしい儀式をしていただけて――本当に感謝しています」

「俺からも礼を言わせてくれ。皆のおかげで、俺達はこうして子を授かれた」

「なんの。みんな、二人でがんばったからじゃよ」

「ほんと、よかったよねえ」

 エイミも嬉しくて仕方がない。エイミは、リエナが人知れず悩んできたことも知っている。それがこうして、母となれたのだから。

「じゃあ、ルーク。そろそろ行こうか。集会所で、みんな首を長くして待ってるよ」

 エイミがルークに声を掛けた。ジェイクは一足先に集会所で、村人を集めて準備をしているのである。

「わかった。ばあさん、リエナを頼む」

「任せておけ」

「いってらっしゃい。みなさんによろしく伝えてね」

「ああ、いってくる」

 その時、赤ちゃんが可愛らしい声をあげた。まるで母と一緒に父を見送るかのようだった。

********

 ルークが集会所の玄関扉をかけた瞬間、村人に囲まれた。口々に、祝いの言葉をかけられる。そこへジェイクが割って入ってきた。

「よう、来たな。さっそく始めるぜ」

 集会所の中央に大きな食卓が置かれている。そこには村の女達が腕を振るったたくさんのご馳走と地酒の葡萄酒が所狭しと並んでいた。そして、傍らの小卓には、エイミが作った蟠桃の砂糖煮が置かれている。

「じゃ、並んでくれ」

 ジェイクがみなに声をかけた。これから村人みなに、砂糖煮が振る舞われるのである。村人は歓声をあげた。それぞれ、自宅から持参した小皿と匙を手に、次々と並ぶ。エイミが手際よく、みなの小皿に砂糖煮を盛っていく。

「よし、みんな行き渡ったな?」

 ジェイクが確認した。自分も手に、砂糖煮の小皿と匙を持っている。

「じゃ、ルーク。坊主の名前を教えてくれ」

 ここで、父親の口から、初めて村人に名前を披露するのである。

「アレン、だ」

 つつがなく名披露目を終えて、再び皆から歓声があがる。ジェイクが大きく頷くと、ルークの隣に立ち、みなの方に向かって高らかに宣言する。

「アレン、誕生おめでとう。トランの村に新しい仲間が増えた。ルビス様、ルークとリエナちゃんの息子のアレンが、元気に育ちますよう、これからもお見守りください」

 ジェイクは蟠桃の砂糖煮を口に運んだ。村人も次々とそれに倣う。ルビスの恵みを皆で分け合い、これで儀式は修了した。

 アレンは無事、トランの村の一員となった。

********

 この後は、お決まりの宴会である。男達はさっそく、葡萄酒の杯を手にしている。女達もそれぞれ甘い果実酒や好みのお茶を片手に、料理を楽しみはじめた。

 ルークは一杯だけつきあい、すぐに集会所を後にした。普段は引き止める村人も、今日ばかりは野暮なことはしない。

********

「さて、リエナちゃん。そろそろ集会所で赤子の名披露目も済んだころじゃの。わしにも、名を聞かせてくれんかの」

 頃合いを見計らって、ラビばあさんがリエナに尋ねた。母親に付き添う産婆は名披露目の席には参加できない。代わりに、母から名を聞くのである。

 リエナも頷いて答えた。

「はい、おばあちゃん。この子の名は、アレンです」

 ばあさんは、ゆったりとした笑みを見せ、その後大きく頷いた。

「アレン……良い名じゃ」

「ありがとうございます」

 リエナは微笑んで、赤ちゃんに視線を落とした。その神々しいほどの姿に、ばあさんの脳裏に、ある光景がありありと浮かびあがった。

 他でもない、自分がアレンの前に取り上げた赤子――ルークと、その亡き母、王太子妃テレサの姿である。

(同じ、じゃの……)

 難産の末、テレサはルークを産み落とした。衰弱し切った姿でありながら、たとえようもないほどに美しかった。そして、ばあさんの助けを借りて、か細い腕に我が子を抱いた姿は、母となった喜びに満ちあふれていた。

 その時のテレサの姿を、忘れることなどできはしない。

(テレサ様も、きっとお喜びになっておられるに違いない……。わしはこの場に立ち会えて、果報者じゃ)

 ばあさんは、リエナに気づかれないよう、そっと眼尻を拭った。




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