「お母さま、あちらに綺麗なお花が咲いているわ」
リエナは母王妃と手を繋いだまま、指差した。その方向にあったのは、一本の大きな古木である。淡い桃色のちいさな花がびっしりと咲き誇り、重たげに枝を揺らしている。
「あら、本当ね。あそこまで行ってみましょうか」
王妃はゆったりと微笑んだ。リエナとよく似た面ざしに、透きとおるほど白い肌、粉雪を振りかけたような淡い金色の髪を持つ、臈たけた佳人である。
「ねえ、お母さま、早く参りましょう!」
リエナは今にも走り出さんばかりの勢いである。
「姫様、そんなにお急ぎになってはいけませんよ」
乳母が止める間もなく、リエナはもう小走りで駆けだしてしまっている。
「王后陛下、御足もとにお気をつけ遊ばしませ」
別の侍女が、王妃を気遣った。
「ありがとう、大丈夫よ」
ゆっくりと歩みを進め、王妃は花の木の下に立った。リエナは母王妃に抱きついて愛らしい笑顔を見せると、こころから楽しげに、咲き誇る花を見上げた。かぐわしい芳香が辺り一面に漂い、淡い桃色の花弁が穏やかな春の風に乗って舞い落ちる。
リエナはまるで花びらとダンスを踊っているように、その場でくるくると回ってみせた。
「お母さま、まるで花の香りのドレスを纏っているみたいね」
王妃も眼を細めて、花と戯れる愛娘を見つめている。
「本当に。ここにいるだけで、気分が清々しくなるわ」
リエナはうれしくてたまらなかった。大好きな母王妃と、こうして散歩にこられたのだから。
王妃はもともと決して丈夫な性質ではなかった。しかも、リエナの出産以来ずっと体調がすぐれず、外出をすることはおろか、リエナと過ごす時間すら、ほとんどない日が続いている。それが今日はあたたかく、王妃の体調もよいことから、久し振りに城内を散歩することになったのである。いつもはおとなしいリエナが、ついはしゃいでしまうのも無理からぬことだった。
しばらく母子は爛漫の花のもとで、並んで腰を下ろし、ゆったりとした時をすごしていた。穏やかな木漏れ日が、王妃の華奢な肢体を包み込む。
その瞬間、リエナの眼には、母王妃が陽光に溶けてしまうように映った。
「お母さま、行かないで……!」
いきなりリエナは、母王妃にぎゅっとしがみついた。
「姫様、如何なさいましたか?」
リエナの突然の行動に、侍女が不思議そうに尋ねた。
「だって、お母さまが……」
リエナはもうそれ以上言葉にはならなかった。大きな菫色の瞳から、涙が零れ落ちる。王妃はリエナのちいさな身体を抱きしめて、ゆっくりとなだめるように髪を撫でた。
「リエナ」
王妃は抱きしめる腕を緩めると、リエナを慈愛のこもった眼で見つめた。
「お母さまは、いつまでもあなたを見守っていますよ」
その時母王妃の顔に浮かんでいた、儚くも美しい微笑み。リエナは母王妃から眼を離すことができなかった。
( 終 )
***
リエナの思い出せない記憶のお話でした。当時、リエナ4歳。そして、この出来事のあと間もなく母王妃は亡くなり、またこの思い出の花の木も、ムーンブルク城崩壊のときに失われました。
このうえもなく懐かしい思い出でありながら、リエナが思い出せないでいるのは、悲しい記憶とセットになっているからです。リエナがこの思い出を取り戻す時にはきっと、こころからの笑顔で幸せだと言えるようになっているに違いない、管理人はそう信じています。
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