マリア王女合流
「……マリア、姫?」
声をかけられ、少女がゆっくりと身体を起こした。触れるだけで壊れてしまいそうなほど華奢なその姿は、とても姫と呼ばれるにふさわしいものとは言えなかった。長い髪はもつれて乱れ、もとは美しかったであろうドレスはかぎ裂きだらけで泥や得体の知れない汚れにまみれ、もはや原型をとどめていない。
声をかけたのは、サマルトリアの王子、ヨハンである。彼はマントを外し、マリアと呼ばれた少女の傍らにしゃがみ込んだ。汚れた姿を隠すよう細い肩にマントをかけてやる。もう一人、その様子を苛立たし気に見ている男がいる。ローレシアの王子、アレウス。鋼のような筋肉に覆われた見事な長身の持ち主である。
一匹の仔犬に向けたラーの鏡――真実を映し出すという伝説の鏡――に映し出されたのは、まさに目の前の少女そのものだった。マリアに間違いないとアレウスとヨハンが認識した瞬間、鏡から眩いほど光がほとばしった。その後一気に収束し、光が消え去ると同時に、ラーの鏡は役目を終えた証のような高い音を立てて崩れ去った。
そして仔犬がいたはずの場所にマリアが現れたのである。ムーンブルクの王女マリア――大神官ハーゴンの襲撃により、祖国と家族を失い、そればかりか呪いで犬の姿にされていた。ラーの鏡でようやく元の姿を取り戻したのだった。
乾き切った唇をわずかに開き、呆然と座り込んだまま、マリアはヨハンに顔を向けると首を傾げた。まだ自分がどうしてここに居るのかすら理解できていないらしい。マリアの赤い瞳は虚ろで、感情と呼べるものは一切表れていなかった。
アレウスは砕けた鏡の粉をうっとおしそうに手で払っている。その仕草が目を引いたのか、マリアは今度はゆっくりとアレウスに視線を向けた。けれどやはり彼女の視線は陰鬱なままで、アレウスはそれが不愉快なのか、顔を顰めた。
「貴様がムーンブルクのマリア姫か?」
マリアが身体を震わせた。アレウスの口調は尊大で高圧的である。とても呪いの解けたばかりの姫君に向かって発せられるものとは思えない。
ヨハンがマリアの細い肩をマントごと抱き、アレウスに言う。
「そんな怖い顔したら答えようにも答えられないって」
「…………」
ヨハンの咎めるような視線に、アレウスは二人から顔を背ける。その憮然とした表情と態度に、ヨハンは仕様がないなあ、とため息をつきつつ、マリアの顔を覗き込んだ。
「あの怖い顔の人は気にしなくていいよ。ところで君はムーンブルクのマリア姫、だね?」
ヨハンが尋ねた。彼の人懐こい笑顔に多少は警戒心を解いたのか、マリアはようやく口を開く。
「……ええ」
「やっぱり」
ヨハンが顔をほころばせて、アレウスに声をかける。
「ほら、優しく聞けばいいんだよ」
アレウスの方は居心地が悪いのか、そっぽを向いたまま何も言わない。ヨハンは気にした風もなく、マリアに視線を向ける。マリアも再び口を開いた。
「ムーンブルクの、マリア」
わずかながら受け答えしてくれるようになったとはいえ、口調にはまったく抑揚がない。ヨハンはこれも気にならないのか、笑顔のままいたわるように声をかける。
「良かった。久しぶりだね、ぼくはヨハン。ほら、サマルトリアの。もう大丈夫だよ。大変だったね」
「いえ、別に」
予想外の答えに、ヨハンは目を丸くする。アレウスは眉を顰めた。はっきりと不快感を露わにして、二人の方に視線を移している。
男二人の反応にも、マリアの心は何も動かされなかったらしい。汚れた白い顔に何の表情も浮かべず、淡々と言葉を継いだ。
「もうずっと、あのままでも、よかった」
********
アレウスとヨハンはマリアを連れて、ムーンペタのある宿屋の玄関をくぐった。呪いが解けたばかりのマリアには風呂と新たな衣服に食事、何よりも休息が必要だからである。
宿の主人は一瞬ぎょっとした表情を見せた後、訝し気に三人を見遣った。この客はどういった素性なのかを探ったのである。
屈強で長身の男は憮然としたままむっつりと黙り込んでいる。よほど虫の居所が悪いらしく、長い前髪から覗く眉間には深いしわが刻まれている。その後ろには薄汚れた若い娘。男とは対照的にずいぶんと小柄なせいで、余計にみすぼらしさが強調されている。ただ一人、この娘に寄り添っている緑色の服をつけた若い男だけが、ごく常識的な風体に見えた。
ヨハンには宿の人間の反応は予想されたものである。警戒心を抱かせないよう笑顔で二部屋――マリアに一人部屋とアレウスと自分に二人部屋が空いているかを尋ね、同時に誰かマリアの風呂と着替えを手伝ってくれる女性を寄越してほしいと頼んでいた。
ヨハンの人懐こい笑顔のおかげか、幸い宿泊を拒否されることはなかった。それぞれ、あてがわれた部屋に行く。
宿の女将に連れられて部屋に入ったマリアは相変わらず無表情のまま、呆然と突っ立っている。そんな彼女を見て、女将はどうしても嫌悪の表情を浮かべてしまうのだが、マリアの方はまったく頓着した様子もない。
女将は盛大に溜め息をついた。女将もこんな素性のしれない薄汚い娘の世話など本心では願い下げなのだが、あの緑の服の男に丸め込まれた――今まで見たことがないほど綺麗な顔の若者だったからというのもある――のと、心づけとして渡された現金の重みに、つい引き受けてしまったのだ。
とにかく今は頼まれた厄介事をかたづけるしかない。マリアは放っておいて、部屋についているちいさな湯殿に入っていく。
「風呂、支度できたよ。入んな」
女将が湯殿から部屋に向かってマリアに声をかけた。けれど、返事がない。もう一度繰り返したが同じである。
やれやれとばかりに部屋に戻ると、マリアはあらぬ方向に目をやったまま、今度は床に座り込んでいた。
「あんた、立てないの?」
ようやくマリアが女将に視線を向けた。けれど、なにも言葉も発しない。
「ほら、立って。風呂、入るんだろ? 着替えはあっちに置いといたから」
マリアは返事の代わりにわずかに首を傾げた。何を言われているのか理解できていないらしい。
「まさか、あんた一人で風呂に入ったことないの? 貴族のお姫様じゃあるまいに」
何気ない女将の言葉に、マリアはびくりと身体を震わせたが相変わらずの無言である。女将は再び溜め息をついていた。緑の服を着た綺麗な男は、この娘の風呂と着替えを手伝ってくれと言ったことを思い出したのだ。
「あたしが手伝ってやるから。さ、立って」
マリアの腕をつかんで立たせようとして、女将はぎょっとした。そこにあるはずの柔らかさを感じない。骨と皮ばかりで、まるっきり肉がついていないのではないかと思うほどにか細かったのだ。力を入れたら折れてしまうのではという錯覚に囚われた女将は、こどもを抱かえあげるように立たせ、湯殿に連れていった。
湯殿で盛大に石鹸を泡立てながら、女将はせっせとマリアを洗っている。さっきの腕から予想された通り、彼女はひどく痩せていた。それどころか、ただでさえ細い胴にはあばらが浮き、若い娘らしいまるみと呼べるものすらほとんどないのだ。
それでも湯を使い、簡素ながらも清潔な衣服に身を包んだマリアの姿に、女将に今度は別の意味で目を丸くしていた。
「あんた……、たいした別嬪じゃないの」
病的なほど痩せてはいても、マリアは美しかった。驚くほどに整った顔立ち、長い睫毛に縁どられた赤い瞳。青ざめた白い肌も今は湯上りのおかげでわずかに血の色を取り戻している。何より女将の目を引いたのは、長い金の髪。洗い梳ったおかげで、ひとすじのもつれもなくまっすぐに背を流れている。艶やかな金髪は、女将が今までに見たことがないほど見事なものだったのだ。
「ありがとう……ございました」
表情を動かさないままいきなり声をかけられて、女将はこの日何度目かの驚きをおぼえていた。けれど礼を言われて悪い気がするはずもない。
「あんたもさっぱりしただろ」
湯を使って疲れが出たのか、マリアはそれ以上のことは何も言わなかった。女将も役目は終わったので、ここで長居をする必要もない。男二人を呼びに、部屋を後にした。
********
マリアの着替えが終わったと宿の女将がヨハンに声をかけてきた。部屋を尋ねると、湯を使ったマリアは簡素な衣類ながらも少女らしい姿を取り戻している。ヨハンはよかったねと笑顔を向けると自分達の部屋に連れてきた。卓上には、食事が用意されている。
「どう? 食べれる?」
「……ええ」
マリアは無表情のまま、それでもすこしずつ食事を口に運んでいる。ヨハンはとりあえず安堵していた。
マリアの横で、自分達も食事を終えたアレウスとヨハンがマリアの今後について話し合う。
「じゃあ、ムーンブルクの生き残りにでも身柄を預けよう。それでいいね?」
ヨハンの提案をアレウスが肯定する前に、マリアが二人の横に立った。暗く赤い瞳でじっと見つめた後、抑揚なく呟いた。
「いや、です」
予想だにしないマリアの言葉に、アレウスもヨハンも驚くしかない。マリアの方は男二人の反応には一切頓着せず、まったく変わらない口調で言葉を続ける。
「わたくしを、仲間に、しなさい」
アレウスが呆れ果てたように息をつくとヨハンに視線を向ける。
「……この女、気が触れているのか。おい、ヨハン」
「そんなことぼくに聞かないでよ」
ヨハンもわけがわからないとばかりに、肩をすくめてみせる。
「仲間に、しなさい」
マリアは同じ言葉を繰り返した。男二人の言葉が耳に入っているのかどうかすらわからないほど、彼女の表情も態度も変わらない。
「断る。か弱い女には無理だ」
アレウスがマリアを睨みつける。まるで斬りつけるような鋭い視線にもマリアはひるまない。
「戦え、ます」
「無茶をいうな。その枯れ枝のような腕でか?」
アレウスを取り巻く空気には、明らかに苛立ちが混じってきている。マリアの方はまったくの無表情であるが、華奢な肩や腕がわずかに震えている――しかし、アレウスはそれに気づいていない。
「ぼくもアレウスの言う通りだと思うよ。君には不本意だろうけどね」
ヨハンには珍しく真面目な表情と口調である。それでも、マリアの答えは変わらない。
「共に、戦います」
余りにも頑ななマリアの態度に、ついにアレウスが怒鳴りつけた。
「貴様、無理だというのがわからんのか!」
ヨハンもそれに同調する。
「マリア、ここから先は、魔物との戦闘が続くんだ。どれほど危険なのかはわかるよね? 君を連れて行くわけにはいかないんだよ」
アレウスの恫喝にも、ヨハンがどんなに宥めすかしても無駄だった。
「共に、戦います」
ひたすらに、同じ言葉を繰り返し続けた。無表情のままに。
********
「何だあの女は!?」
アレウスが怒りに任せ、思い切りテーブルに拳を叩きつけた。マリアは彼女のためにとった隣室に押し込められている。あれ以上話し合いを続けても埒が明かないと判断した男二人が、マリア抜きで相談するために、顔を突き合わせているのである。
「い――痛いじゃないか。今度からテーブル殴るなら最初に言ってくれよ。避難するからさ」
ヨハンが不満げに口を尖らせた。テーブルに頬杖をついていたので、肘を強打してしまったのである。それでもアレウスはまだ苛立ちがおさまらないらしく、痛む箇所を押えているヨハンに鋭い視線を送った。
「犬のままでもよかった、だと!? 俺たちはわざわざ毒の沼に入ってまでラーの鏡を探してきたというのにだ! 感謝の言葉すらない、無礼な女がっ!」
「はー、まあ苛立ちはごもっとも――でもね」
ヨハンはまだ痛む肘を擦りつつ続ける。
「彼女は全てを失ったんだ。絶望して、人生に悲観的になっていても仕様がないと思うよ?」
ヨハンの言う通りだった。マリアは、何もかもを失った。祖国も、城も、家族も、そしてムーンブルクの王女という地位までも。
アレウスもこの事実の前には口を噤まざるを得ない。それほどに、ハーゴンによる襲撃は凄惨極まりないものだったのだ。アレウスとヨハンは既に廃墟と化したムーンブルク城を目にしている。
廃墟で蠢く魔物たち、行き場を失くしてさまよう亡霊、あちらこちらに広がる毒の沼は、今も瘴気を吐き続けている。蹂躙しつくされ、往年の輝きの欠片すら残らなかったのだ。
余りの惨状に、アレウスは絶句するしかなかった。同時に、完膚なきまでに破壊しつくしたハーゴンへの激烈な怒りがこみあげた。激しい怒りはさまよう魔物達へ向けられ、哀れな魔物達は次々と屍を晒すしかなかった。
「確かに、な」
アレウスは息を吐いた。彼にも理解はできるのだ。ただし、マリアに対する同情を伴うものではないのだけれど。
「しかし、あんな陰気な女をこれから連れ歩かなくちゃならんのか? 俺は御免だぞ」
渋るアレウスに、ヨハンはああ――困ったねーと、その実、全然困っていない口調で壁の方――マリアがいるはずの隣室――を見遣った。
「昔会ったときはもっと明るい子だったんだけど、随分とあのせいで変わっちゃったみたいだね。可哀想に」
「あの面を被ったような女が、明るい?」
「うん」
頷くヨハンに、アレウスは唸るしかない。
「信じ難い」
ヨハンは肩を竦めてみせると、話を続ける。
「きみは昔の彼女と一度も会ったことないから今の彼女を見て信じられないのも仕方ないけど。でも昔はもっと明るい、表情がくるくる変わる可愛い子だったよ? 笑うと花が咲くみたいだった」
「花――」
――暗い虚ろな赤い瞳。青白い肌。整ってはいるが、無表情な顔。金の髪だけは洗い櫛けずると美しかったがそれ以外は陰のようなあの女が、花?
とても信じられない。何故なら、アレウスが知るマリアは――とはいっても、つい先程が初対面なのであるが――無表情な白い顔にも陰鬱な赤い瞳にも、どこにも花と形容されるにふさわしいものなど皆無だったのだ。
アレウスの表情の意味を悟って、ヨハンは降参とばかりに両手を広げて上げてみせた。
「ま、昔の話さ。でも、どうしようね。置いていこうとしても、無理矢理ついてきちゃいそうだしね」
「うむ……」
ヨハンの言う通りだった。マリアは終始無表情だったが、同時に赤い瞳には思いつめたような光を宿していたのも事実だったからだ。
「……いっそ、連れて行くか」
意外なアレウスの台詞に、ヨハンはおや、と眉を上げる。
「どういう風の吹き回しさ」
「――あの女は、体力が少ない。恐らく魔物の攻撃にそう耐えられん。すぐに音をあげるだろう。止める、と言い出せばサマルトリアかローレシアにでも送ってやればいい。それでもついてくるつもりなら、夜、眠っている内にでも近くの教会の前に置き去りにすれば諦めるだろう」
アレウスは更に淡々と言葉を継いだ。
「その間俺たちは先へ進む」
ヨハンは一瞬ぽかんと口を開けたあと、上半身を反らしていきなり笑いだした。
「きみってやつは本気で人でなしだな! さすが野獣とかいわれてただけはある!」
ヨハンはまだ楽しそうに笑い続けている。アレウスは剣呑な目線を送ったけれど、特に反論もしない。ヨハンの方は笑いながら手を打って言う。
「そしてぼくも人でなしだ。それでいいんじゃない?」
言葉の意味とは裏腹に、ヨハンの口調は奇妙なほどに軽い。そして同じ軽さで続けた。
「きみとの二人旅がまだ続けられるし」
「貴様は足手まといだがな」
対するアレウスはどこが面白いのかとでも思っているのか、憤然としたまま呟いた。
「酷いなー。きみの傷をいつも治してやってるのは誰さ」
「貴様だ。人が頼みもしないのに勝手にな」
「あーんな辛そうな顔してるくせに? あれじゃ治してくださいってぼくに土下座してるのと一緒さ」
「……っ」
ヨハンの物言いは、アレウスにはわざと挑発しているのか、それとも何も考えていないのか即座には判断できない。答えられないアレウスに向かって、ヨハンは実に愉快そうに手を打った。
「はっは、また怒る」
言いながら、椅子から立ち上がった。そのまま部屋の扉へ向かう。
「どこに行く」
「マリアに言ってくるのさ、一緒に来ていいよってね」
部屋の扉を開けると、ヨハンはひょいとアレウスの方に振り向いた。
「そしたら今夜くらいは彼女も安らかに眠れるだろうからね」
相変わらず何を考えているのかわからない笑顔を貼りつけたまま、扉が閉められた。
部屋に一人残されたアレウスは、先ほどテーブルを殴った自分の手に目を落とし、ひとりごちた。
「……人でなし、か」
********
「よろしく」
翌朝、部屋の前でマリアがアレウスとヨハンに頭を下げた。その礼はまるでこどもがするようなもので、王女が持つべき優雅さなどはかけらもない。そんなマリアにアレウスは眉を顰めるしかない。けれど、アレウスの文句よりもヨハンの明るい声の方が早かった。
「こちらこそよろしくマリア! おはよう、昨日はよく眠れた? お腹すいてない? 体調どう?」
立て続けに問いか出てくるヨハンにマリアは無表情のまま、それでも律儀に一つ一つに頷きを返した。と思うと、唐突にアレウスに目を向ける。
「お前、名前は」
「――!」
いきなり誰何され、アレウスは激昂しかけた。ヨハンが二人の間に入る。
「落ち着きなよ。彼女はこういうしゃべり方なだけだってば。なにせムーンブルクの一粒種! それにきみも相当なもんだろ? 貴様、だもん。しかし結局まともに名乗ってなかったなんてねー。気付かなかったよ」
「……貴様だけが喋っていたせいだ」
「そうかもね」
相変わらずの軽い口調にアレウスの怒りはやり場を失い、気勢を殺がれて萎えていく。
「アレウスだ」
「そう」
マリアの返答はそっけない。自分の疑問が解決しさえすれば、もう興味はないとばかりにヨハンに目を向ける。
「お腹、すいた。ヨハン」
「そうだねー。じゃあ食堂に行こうか。何食べたい? 犬の時はロクな物食べれなかったろ?」
マリアもヨハンに対しては普通に口を開くようになっている。彼独特の、他人に警戒されない笑顔のせいだろう――アレウスはそう考えたが、ヨハンの裏に隠された思惑を知っている身としては気分が悪くならざるを得ない。
なにしろ、戦闘に耐えられないであろうマリアが音を上げたところでサマルトリアかローレシアへ送りつけるか、それでもついてこようものなら教会に置き去りにするという自分の提案をあっさりと呑んだのだ。それどころか楽しくてたまらないような笑い声すらあげていた。ヨハンのマリアに対するこれまでの態度は一見、彼女を思いやるものにしか見えなかったから余計に忌々しい。
アレウスは怒りをぶちまけたくなったものの、それでは計画が水の泡となる。ここは黙って耐えるしかない。
そんなアレウスの考えなど二人は気にした風もなく、食堂へ下りる階段へ向かう。ヨハンはマリアに色々と話しかけながら、ほんの一瞬アレウスに目配せをくれる。
綺麗な顔に似つかわしくない笑みに心の中で呟いた。
――悪魔か、貴様。
しかし自分も同じ穴の貉であることを思い出す。複雑な気分で渋面をつくり、部屋を後にした。
********
旅立ちの支度を終えた三人はムーンペタの町を出た。その直後、魔物と遭遇した。魔物は三匹、一人につき一匹ずつ対峙する格好になる。
アレウスとヨハンは互いに目配せした。ひとまず、自分の目の前の敵を片付けるのだ。当然、マリアも同じことを要求されているのである。最初にあがるのが彼女の悲鳴だろうと二人ともが確信していたが、予想はあっさり裏切られた。
「え──」
断末魔が響き渡った。しかし、マリアのものとは明らかに違う。思わず振り返った先には魔物の屍が転がっている。その前に立つのは、杖を手にしたマリア。無表情のまま、唇だけが素早く動いている。彼女の口から言葉が紡ぎ出されるごとに、杖の先端に仕込まれた赤い石が輝きを増していく。
「――バギ」
光の中から真空の刃が飛んだ。刃は容赦なく敵――アレウスの目の前の魔物を屠る。魔物は耳障りな悲鳴とともに落ち、残るはずたずたに切り裂かれた肉片のみという無残な姿を晒していた。
「な……!」
アレウスは動けなかった。予想だにしなかった光景に、見守ることしかできなかったのだ。
「ヨハン、どいて」
マリアはヨハンの方に顔を向けた。同時に彼女の唇から再び呟き――詠唱が紡ぎ出される。そして、ヨハンの敵だったはずの魔物も同じ運命を辿った。
********
「……おい」
マリアは男二人の前を歩いていく。先程驚くような戦闘力を見せつけたにもかかわらず、今の彼女の足取りはどこか頼りない。そんなマリアの背中を睨みながら、アレウスはヨハンの腕を引いた。耳に口を寄せるとヨハンは笑い声をあげた。
「あはは息が当たってくすぐったい」
「そんなことはどうでもいい。あの女――」
「ああ――」
ヨハンは楽しそうに目を輝かせながらマリアに目を向けた。
「強いねー。うーんさすが、魔法大国ムーンブルクの一粒種ってのは伊達じゃないね」
相変わらずの軽さに、アレウスは苛立ちを抑えながら問いかける。
「感心している場合か。……どうする」
「どうするって」
ヨハンは今度は呆れたような顔でアレウスを見る。
「役に立つんならいいんじゃない? 連れて行ってもさ」
「貴様、昨日と言っていることが」
違うと続けるまもなく、ヨハンがアレウスの言葉を遮った。
「やだなあ、人生臨機応変にいかないと。か弱いただのお姫様なら邪魔以外の何者でもないけど才能溢れる魔法使いなら一緒にいても損はないさ。だろ?」
そう言ってにやりと笑う。アレウスには、ヨハンが最初からこうなると予想済みだったとしか思えない。眉間にしわを寄せたアレウスに、ヨハンはあの人の悪い、綺麗な顔に似つかわしくない笑みを浮かべてみせた。
「きみとの二人旅も素敵だけれど、ぼくはマリアも、別に嫌いじゃないんでね」
「ヨハン! 貴様やはり――」
あはは、とヨハンは笑い声を上げる。怒りを露わにするアレウスの腕からするりと逃れた。
「初恋だったんだよ。いいだろ、そんな美しい思い出の欠片くらい残しててもさー」
「はつ、こい?」
いきなりこんな告白をしたヨハンにアレウスはすぐにはついていけない。思わず聞き返していた。
「そー」
ヨハンの方は何でもないことのように軽く返すと、小走りでマリアに向かっていく。追い付くとぽんとマリアの肩を叩いた。マリアはいきなりのことで驚き、一瞬身体を震わせたが笑顔のヨハンに緊張を解いて見上げた。無表情ではあるものの、マリアもヨハンにだけは多少なりとも警戒するのをやめたらしい。彼女のヨハンに対する態度はアレウスへのそれとは明らかに違っていた。
けれど再びマリアは怯えたようにヨハンの陰に隠れてしまう。アレウスの険しい表情――それはまるで今にも噛みつかれそうにマリアには感じられた――を、目に留めてしまったからだった。
ヨハンを盾にしてまで自分とは距離を置こうとするマリアの態度はアレウスは面白かろうはずはない。険しい表情のまま、目をそらす。
視線を外したはずのアレウスの視界に残像が浮かぶ。それは、マリアの長い髪。
華奢な背にさらさらと流れる金色の髪は、文句なしに美しい。
ふとアレウスは昔のマリア――花のように笑っていたと言う時を想像しようとしたが、徒労に終わる。目を閉じても瞼の裏に映るのは、虚ろな赤い瞳、それだけだった。
(終)
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