So many kisses


「一体、どういうことだ……!?」

 ルークが右の拳をさすりながら呻きを漏らしていた。

 目の前には扉がある。一見、何の変哲もない、ただの木の扉である。扉にはよくある丸い取っ手がついていて、それさえ回せば扉は開くはずなのだ。それなのに、ルークが開けようとして取っ手を回してもびくともしない。右にも左にも何度繰り返しても同じであるのに業を煮やし、それならいっそのことぶち破ろうと、扉を拳で思いっきり殴りつけたところだった。

 しかし、扉は無傷のままだったのだ。ルークの拳の威力は半端なものではない。誰もが同じ人間とは思えない馬鹿力の持ち主だと口を揃えるルークが、万全の体勢で放った一撃である。普通であれば、扉はおろか、周りの壁ごと吹っ飛ぶはずなのに、扉は何事もなかったかのように、まだそこにあるのだ。

 今、ルークとリエナはちいさな部屋の中にいる。調度も何もない、ただのがらんとした空間である。窓はおろか照明すらないのに、内部は柔らかな光で満たされている。おそらくは灯火の呪文で作られた光だろうが、それにしても何故こんなところにこんな部屋が存在するのか、存在の目的は何なのか、まったくわからない。

 わかっていることはただ一つ。自分達が閉じ込められて出られないという事実だけだった。

 そもそも、何故二人がこんな部屋にいるのか。

 旅の途中、アーサーを含めた彼ら三人は無事に目的地の町に到着した。例によって、アーサーが情報収集に出かけ、ルークとリエナは次回攻略のためにある洞窟の下調べに訪れたのだ。しかし洞窟に足を踏み入れた瞬間いきなり闇に飲み込まれ、気がついた時には二人ともがこの部屋の中で倒れていた。

 しばらく気を失っていたらしいのだが、先にルークが意識を取り戻した。痛みなどもなく特に怪我をした様子はなかった。慌てて周囲を確認すると、リエナも倒れ伏している。外から見る限り彼女にも外傷はないようだが、急いで抱き起し、名前を呼ぶ。

 ルークの腕の中で、リエナはゆっくりと眼を開けた。ルークがほっとしたのも束の間、すぐに困った事態の陥ったことに気がついたのである。

 ルークの拳はまだ痺れている。丈夫さにかけても人間離れしていると評される彼のことだから骨折するようなことはないが、それでも放っておいたら多少は腫れるかもしれない。

「大丈夫?」

 リエナがルークを見上げて言った。同時に回復の呪文の詠唱に入る。リエナの薄紅の光がルークの拳を優しく包み込んだ。

「ああ、もう痛みもないぜ。ありがとうよ」

「次は、わたくしが開錠の呪文を唱えてみるわ」

「そうだな。お前の呪文の方が確実だ。頼んだぜ」

 リエナは頷くと、魔導士の杖を両手で胸の前で掲げ、瞳を閉じた。詠唱が進むにつれ、薄紅の光が彼女を包み、やがて杖に仕込まれた紅色の石に集まってくる。

「……アバカム」

 魔導士の杖から放たれた薄紅の光は、扉の取っ手を包み込み、ゆっくりと回そうとする。リエナは瞳を開くと、光をじっと見つめた。更に精神の集中を高めていく。しかし光は、何度か上滑りしたような動きを繰り返した後、ふっと消え去ってしまった。

「……駄目だわ」

「お前の呪文すら効かないのか。わけがわからねえな。疲れただろ、そこで休んでろ」

 ルークはリエナに労りの言葉をかけた。

「俺がもう一度やる」

「気をつけて。間違いなく、何らかの魔法で強化されているわ」

「だろうな。俺の拳はともかく、お前の魔法が効かないなんてありえないぜ」

 ルークは扉に向かい合った。

「だが、やるしかない」

 言った直後、裂帛の気合いとともに、再びルークの拳が扉の中央に炸裂した。部屋全体が震え、地面を揺るがすような轟音が響き渡った。

 ルークが息を整えながら、力なく呟きを漏らす。

「これでもまだ、駄目だってのか……」

 扉はまだそこにあったのだ。しかも、無傷のままで。

 ルークとリエナは半ば呆然と扉を前にして立ち尽くしていた。しかし扉の方は平然としている。まるで、扉それ自身が意思を持っているかのようだった。こうして見ていると、無機物であるはずなのに、ふてぶてしさすら感じられてくるから、余計に腹立たしい。

 それなりの時間が経過した。すると、なんと扉に変化が現れたのだ。開いたわけではない。知らない間に、貼り紙が忽然と出現していた。ただし紙には文字がなく、白いままである。

「いつの間に……。リエナ、お前気づいたか?」

「いいえ。わたくしは扉からは目を離していないはずなのに。あなたも気づかなかったの?」

「ああ。わけわからんが、魔法が関係してるのだけは間違いなさそうだぜ」

「……見て!」

 リエナがちいさく叫んだ。二人が貼り紙に目を向けると、今まで白かった紙に何やら文字らしきものが浮かび上がってきたのだ。瞬く間に、それははっきりとした文章になっていた。

『この部屋から出るために必要なもの。それは、二人の接吻である』

 部屋から出るための方法が見つかったのだ。それも、扉自身からの指示によって。

 再び、長い時が過ぎた。予想だにしない、あまりと言えばあまりの条件に二人ともが言葉を失っていたからだ。

「……冗談も大概にしてくれ」

 ルークが何度目かの呻きを漏らす。

 ルークは『部屋から出る条件』自体が嫌なわけではない。ルークはリエナに心の底から惚れぬいている。全身全霊で愛していると自信を持って言えるし、何なら世界中に向かって宣言したって構わない。だから、思いっきり正直なことを言えば、条件を実行するのは大歓迎なのである。しかし、いくらルークが大歓迎ですぐにでもしたいと思っていても、それにたどり着くためには大きな難問が立ちはだかっていた。

 ルークはリエナに告白していないのだ。世界中に宣言する前に、まず本人に言わなければいけないのは自明の理である。要するに、二人はまだ恋人同士ではなかったのである。

 一方、リエナも何も言えずに立ち尽くしたままだった。けれど、ルークの「冗談も大概に……」の呻きを耳にして、呆然としたままの表情にほんのわずかの変化が見られた。

 憂いを帯びた、どこか寂しそうな悲しそうな……そんな表情になる。

 リエナもルークを心から愛している。けれど、様々な事情から、自分がルークと結ばれることはありえないこともわかっている。ましてや、ルークからは何もそれらしき言葉をもらったことがない。いつも大切に守ってくれているのは間違いなくても、ルークの本心はわからないのだ。

 そこに、この言葉である。ルークはわたくしと……するのは嫌なのだわ……と考えて、思わず俯いてしまった。こんなはしたないことを考えてしまって、恥ずかしさのあまり、どこかに隠れてしまいたいくらいだったが、この部屋には身を隠す場所などないのだ。

「おい、リエナ」

「……な、なにかしら」

 恥ずかしさに居たたまれなくなっているところに、突然ルークから呼ばれたのだ。どうしても返事がぎこちなくなってしまう。

 ルークはリエナの俯き加減の姿に、また言葉を失っていた。白い頬が染まった彼女は、いつも以上に自分の目に美しく可愛く映ったのだ。

「いや、その……」

 口ごもってしまうが、これではいけないと勇気を奮い起こした。

 「リエナ。こっち向いてくれ」

 もう一度声をかけた。さっきとは打って変わって、今度はきっぱりとした声だった。

「……はい」

 リエナはまだおずおずと、それでも素直にルークの方に向き直った。

 まだ二人の距離は遠い。ルークは思い切って、もう一歩大きく踏み出した。

「リエナ。愛している」

 いきなりの告白だった。心の準備などまるでできていないところにこう言われたのだ。リエナは瞬間、頭の中が真っ白になった気がした。

「……その、お前の気持ち……聞かせてくれないか。俺のこと嫌いなら嫌いで構わないから」

 リエナはまだ言葉が出ない。驚きや歓びや色々な想いで胸がいっぱいになってしまったから。

 ルークはリエナからの返答を辛抱強く待っていた。ルークも止むに止まれぬ事情と勢いで告白したものの、リエナが自分をどう思ってくれているのかはわからない。緊張で爆発しそうな心臓を必死になだめていた。

「ルーク」

 リエナが思い切ったように、ルークを見上げてきた。ルークの心臓が早鐘を打った。夢見る菫色の瞳はきらきらと輝いている。その美しさに引き込まれそうだった。

「わたくしも……あなたのことを……愛しているわ」

 薄く染まったリエナの頬が、一気に赤くなった。

「……リエナ!」

 ルークはリエナを抱き寄せた。そのまましっかりと抱きしめる。愛おしくてたまらないリエナが今こうして、自分の腕の中にいる。

 リエナも幸せだった。ずっとずっと待っていた言葉。それをようやくルークの口から聞くことができたのだから。

 ルークの指が、リエナの頬にこぼれかかった巻き毛に触れた。そっとかきやって、大きな手で頬を包み込んだ。

 気がついた時には、ルークの唇がリエナの唇のすぐ前まで迫っていた。リエナは目を閉じ、ルークのくちづけを受けた。

***

 二人の唇が触れていたのは、ほんのわずかな時間だった。けれど、夢のように幸せなひとときである。

「……これで、出られるな」

 リエナを腕に抱いたまま、照れ隠しのように、ルークが呟いた。

「そうね」

 ルークは名残惜しげにリエナから腕を離した。代わりに手を繋ぐ。

「じゃ、帰るぞ」

 ルークが開いた方の手で、扉の取っ手に手をかけた。今度は問題なく扉は開くはずだった――しかし。

 確かに取っ手は動いた。ただし、ほんのわずか、だったのだ。当然のことながら、取っ手が完全に回り切らないと扉は開かない。

「一体、何なんだ!?」

 ルークが叫んだ。ちゃんとくちづけした。そのために勇気を振り絞って、旅が終わってからする予定だった告白までしたのだ。扉を開ける条件は揃ったはずなのに、開かないとは。

 その時、ルークに天啓がひらめいた。扉を完全に開けるための条件はこれだけでは足りないのだと。

「リエナ」

「……あ、はい」

「もう一度、頼む」

 リエナが何をと問う間もなく、再び抱きしめて唇を重ねる。今度はもうすこし長い時間をかけてみた。柔らかな唇にルークは陶然とした。

「今度こそ……」

 ルークは長くし過ぎたかと反省しつつ、でも何度でもしたいからいいのだと満足しつつ、取っ手に手をかける。

 扉は確かにさっきよりは回った。けれど、まだ完全ではない。せいぜい、半分といったところだったのだ。

 ルークは呆然とした。その横で、リエナが心配そうに声をかける。

「……まだ、開かないの?」

「ああ。お前も開けてみてくれ」

 リエナは頷いて、取っ手を回してみる。ルークの言う通りだった。動くことは動くのだが、途中でぴたりと止まってしまい、そこから先はどうしても動かない。

「……どういうことなのかしら」

 そう呟きを漏らしたが、ふと何かに気づいたようだ。染まった頬に、恥ずかしそうな表情が浮かぶ。

「どうやら、そういうことらしいな」

 ルークは諦めの境地半分、これでまたリエナとくちづけできるという歓び半分である。

「リエナ、いいな」

 今度は有無を言わせず唇を重ねた。ルークも腹が据わったのか、だんだん遠慮がなくなっている。何度か角度を変えながら、時には優しく触れ、時には大胆に、時間をかけて甘い唇を味わった。

 ルークがようやく唇を離した。目の前のリエナの美しさに、思わず見とれていた。ルークはずっと見つめていたい衝動に駆られたが、かろうじてこらえた。まずはこの部屋から出なくてはならないのだ。

 ルークが取っ手を回すと、さっきはびくともしなかった場所をあっさりと過ぎた。これでようやく開くだろうとほっとしたのも束の間、残り僅かなところでまた止まってしまったのだ。ルークが如何に力を籠めても、どうしても動かない。これ以上は駄目だと扉に拒否された。またもや期待は裏切られたのだ。

 ルークが取っ手に手をかけたまま硬直しているのを見て、リエナも事情を悟っていた。何も言えず、ただルークと並んでいるだけで精一杯である。

 ルークは心の中で絶叫した。

 まだ足らないって言うのか! あれ以上のくちづけってことは、あれをああするしかないじゃねえか……!

 当然ながら男の自分はどうすればあれ以上のくちづけになるのかは知っている。しかし深窓の姫君だったリエナがそれを知っているとはとても思えない。もしかしたら教育係から知識として教えられているかもしれないが話だけ聞くのと実際にするのとでは大違いだ。第一告白したばかりでそこまでのくちづけをしてしまうのはいくら何でも早すぎるのではないか。あれは恋人として長い時を過ごして普通のくちづけに慣れてからするもの場合によっては婚儀を挙げたその夜にようやく許される……。

 ルークの頭の中で、これらの言葉がぐるぐると回る。

 眩暈がしてきた。座り込みそうになるのを必死にこらえた。リエナを見下ろすと、彼女も事情を悟っているのか、華奢な肩が細かく震えている。

 リエナは驚くだろう。場合によっては嫌われる可能性すらある。しかし、そうしなければ、この部屋からは出ることができないのだ。今までの経緯からそれははっきりとしている。

 ルークは覚悟を決めた。

「リエナ」

 そっとリエナを包み込むように抱きしめる。リエナの柔らかな身体がすっぽりと自分の腕の中におさまったのがわかる。

 最初は初めての時と同様、優しく唇に触れた。ついばむように何度かそれを繰り返す。すこしずつ動きが大きく、触れ方も大胆なものに変わっていく。やがてルークの熱い舌がリエナの唇をそっと割る。リエナの唇が躊躇いがちに開かれた。ルークは思い切って次の段階へ進んだ。

 リエナの身体がちいさく震えた。やはり初めてのことで驚いたらしいが、今更ルークは止まれない。

 今、二人の距離は、これ以上ないほどに近い。

 リエナの唇も舌も限りなく甘くかぐわしい。ルークは夢中で貪っていた。リエナも恥じらう様子は変わらないけれど、決して拒否することはなかったのである。おまけに腕の中の柔らかな身体の感触は、想像以上の豊かさだった。ルークは我を忘れそうになったが、必死に思いとどまった。まさか、この場でそれ以上の行為に及ぶわけにはいかないのだ。

 今こそ自慢の鋼の自制心を発揮する時である。最後の一線だけは、絶対に死守しなければいけない。

 長い時が過ぎた。

 名残惜しげに、ようやく二人の唇が離れた時、今度こそルークはリエナから目が離せなくなっていた。リエナはまだ夢から醒めきってはいないらしい。陶然とした表情で、たった今まで触れていた唇は濡れ濡れとつやめき、ゆっくりと開かれた菫色の瞳はうるみを帯びて、たまらなくなまめかしい。

 堪らず、またルークはリエナの唇に自分のそれを重ねていた。もう何度目になるのか、考える余裕などどこにもない。

***

 ようやく扉が開いた。

 今まで苦労は何だったのかと拍子抜けするほど、あっさりと取っ手は回ったのだ。

 かちりと軽い音を立てて扉が開いた瞬間、眩しい光が目に飛び込んでくる。二人はほっと胸を撫で下ろした。

 扉から一歩出ると、そこは草原だった。見覚えのある風景である。不思議なことに、太陽の高さが変わっていない。ずいぶんと長い間、あの部屋に閉じ込められていたはずなのだが、外では時間が過ぎていないらしい。奇妙な部屋だったから、内部の空間も時間も、今いる現実の世界とは違う場所にあるのかもしれない。

 振り返ると、予想通り、二人が闇に飲み込まれた洞窟の入り口がある。どうやら、洞窟の入り口からあの部屋の扉に繋がっている――もしくは、あの部屋そのものが洞窟だったのだろうか。

 思わず二人で顔を見合わせるが、同時に、何とも言えない気恥ずかしさで、目を逸らしてしまう。

「じゃ、帰る……か」

「そう……ね」

 二人はゆっくりと歩き出した。これまではルークが先を歩き、リエナは後からついていっていたのだが、今は二人、手を繋いで並んで歩いていく。意識したわけではなく、ごく自然にそうなったことにはどちらも気づいていない。

「リエナ」

 ルークの問い掛けに、リエナははっとした表情を見せた。まだ緊張は解けていないのも無理はないとルークは思った。

「その、すまなかったな。……驚いただろ?」

 リエナが立ち止った。ルークを見上げる菫色の瞳に、涙が滲む。

「ルーク、何故、謝るの……?」

 普段は朴念仁極まりないルークも、この時ばかりはリエナの涙の意味が理解できていた。慌てて、否定する。

「あ、そういう意味じゃない。ただ、驚かせて悪かったって思っただけだから」

 ルークは照れくさそうに頭をかくと、言葉を継いだ。

「いや、その……。俺はお前と最初に会った時から、惚れてたんだ。だから俺は、お前とずっと前から……くちづけ、したかったぜ。だから本音を言えば、あの条件は大歓迎だったんだ。でもな、まさか恋人になってないお前にするわけにはいかないだろ? ……しかもだ、最後は……あんな……くちづけ、になっちまったし。いくらそれが部屋を出る条件とはいえ、お前には驚き以外の何物でもないだろうしな」

 リエナが恥ずかしそうに顔を伏せた。

「でもな、お前がそれを受け入れてくれて……その、うれしかった。本当は告白だって、旅が終わってからするつもりだったけど、結果はこれでよかったと思ってる」

 そう言ってリエナの顔を見ると、そっと目尻に滲んだ涙を拭っている。また余分なことを言って泣かせてしまったかと慌てたが、リエナの表情を見る限り、そうではないらしい。

「……わたくしだって、うれしかった……わ」

 リエナの精一杯の告白である。ルークは恋人になったばかりのリエナが愛しくてたまらなかった。

「それなら、また……くちづけ、してもいいか? これからは、扉を開けるためとかじゃなくて、その……」

 ルークは照れ隠しのように、リエナを抱きしめる。

「お前と、したいから」

 リエナはルークの腕の中で真っ赤になったまま、今度こそ何も言えなくなっていた。それでも、かすかに頷きを返す。ルークの、リエナを抱きしめる腕がわずかに緩む。リエナがはっとして見上げると、目の前には心の底からうれしそうなルークの笑顔があった。

「リエナ、これからもずっと一緒だ」

 ルークの唇がほんの一瞬、リエナのそれに触れた。

 それはそれはあまくて優しい、恋人として初めてのくちづけ、だった。

(終)

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