いとせめて
いとせめて
恋しきときは
むばたまの
夜の衣を
返してぞ着る
小野小町
ある町の宿屋にて。リエナは久しぶりに一人部屋に泊まることになった。昼過ぎに到着し、買い出しを終えてから宿で夕食も済ませた。今はゆっくりとお風呂にも入って、後はもう眠るだけ。窓の外にぽっかりと浮かぶ満月を眺めながら、リエナは迷っていた。
(いやね、こんなおまじないを本気にするなんて……)
そう思いつつも、どうしても諦めきれない。今夜を逃せば、次に宿屋に泊まれるのはいつか、泊れても一人部屋かどうかはわからないのだから。
(せめて夢の中でだけでも……、あなたに……)
しばらく悩んだ末、やっぱりやってみることにした。別に誰かに迷惑をかけるわけでもないし、朝早く起きて着替えてしまえば、誰にも知られることはない。
カーテンを引き、思い切ったように寝間着のボタンに指をかける。脱いだそれを裏返してから手早く着直すと、恥ずかしさを押し隠すかのようにすぐに寝台にすべりこみ、眼を閉じる。
愛しいひとを想いながら眠ろうとするが、疲れているはずなのに寝つけない。そして、今までのいろいろな出来事が振り払っても振り払っても頭に浮かんでは消えた。
いつも広い背中を見ている。いつの間にかそばにいて、守ってくれている。自分を庇って怪我をしたことは数知れない。抱きしめて泣かせてくれたことすらある。
(ルークはいったいわたくしのことを、どう思っているのかしら……)
暗い天井を見上げ、溜息を一つついた。
(ルークは、いつもわたくしを気遣って、大切に守ってくれている……。でも、それは何故? 白紙に戻ったとはいえ、婚約していたことに責任を感じているから? それとも、すべてを失ったわたくしへの同情? もしかしたら、亡きお兄様の言葉を遺言と思っているの? 彼の気持ちが、わからない……。どうして、いつもあんなに優しくしてくれるの? どうして……?)
考えれば考えるほど眠れない。それどころか、逆に頭が冴えてきてしまった。リエナはよほど寝間着を元通りに着直そうかと思ったが、踏ん切りがつかず寝返りばかり打っていた。
***
窓辺から朝日が差し込み、リエナは目を覚ました。いつの間にか眠っていたのはいいが、寝過してしまったらしい。慌てて着替えようとしたところで扉をノックする音がした。咄嗟にショールを肩に掛けると、扉を少しだけそっと開ける。
扉の外には予想通りルークとアーサーが立っていた。ルークの充分寝足りたらしいさっぱりとした顔を見て、リエナはほんの少し複雑な思いがした。
「よお、おはよう。今から朝飯食いに行こうぜ」
リエナは寝間着姿をなるべく隠すよう、扉の影に隠れるように立って答えた。
「ごめんなさい、まだ着替えていないのよ。もう少しだけ待っていてくれる? すぐに支度して、あなた達のお部屋に行くわ」
「あ、そうなんだ。じゃあ、待ってるから……」
そう言いかけて、ルークはリエナの様子がいつもと違って、何となくぎこちないのに気がついた。不思議に思ったルークが何気なくリエナの襟元に眼を向けると、寝間着のボタンのつき方がどこかおかしい。ついつい視線がリエナの襟元に集中した。
(ルークに、気づかれた……!)
かっと顔に血が上ったリエナは慌ててショールの前をかき合せた。
「ごめんなさい、すぐに支度するから……!」
リエナは恥ずかしさのあまり、少し乱暴に扉を閉めてしまった。ルークは日頃の彼女らしくない振る舞いにちょっと面食らったが、アーサーに腕をつかまれて、そのまま自分達の部屋に戻っていった。
リエナは駆け込むように寝台の端に腰を下ろした。いつの間にか涙があふれてくる。
(やっぱりやめておけばよかったわ……)
でもいくら後悔しても、もう遅い。しばらくそのまま座っていたが、いつまでもこうしているわけにもいかない。無理に気持ちを切り替え、涙に濡れた顔を洗いに行った。
***
一方、半ば引き摺られるように部屋に戻ったルークは、無理やり引っ張られた腕をさすりながら、アーサーに文句を言っていた。
「いきなり、何だよ。――痛いじゃないか」
「お前がその程度で『痛い』なんて、僕が信じるとでも思ってるわけ?」
アーサーの反応は冷たい。
「ルーク」
「な、何だよ」
アーサーの真剣な様子に、ルークはたじたじになっている。
「もう少し気をつけろ。ただでさえ、お前は考えてることがすぐ顔に出るんだから」
「顔に出る?」
「不思議そうな顔をして、リエナを見てたじゃないか」
「もしかして、リエナの寝間着のことか? お前も気づいてたんだ。それにしても、なんであいつ……」
純粋に疑問にしか思っていないルークの言葉を、アーサーが遮った。
「リエナのような貴婦人を、あんなふうに無神経に見つめるもんじゃない」
「わ……、わかったよ。後からちゃんと謝っとけばいいんだろ?」
このルークの台詞に、アーサーは頭痛がしてきた。思わずこめかみを押さえ、ルークに、まるでこどもに教えるように、ゆっくりと言い聞かせた。
「だから……! それが余分だっていうんだ。ああいうときは、気がついてもそうじゃない振りをするのが、貴婦人へ対する騎士としての嗜みというものだ。――よく覚えておけ」
「俺も、一応、気づかない振りしてたつもりなんだけど……」
「あれでか?」
「あ! だから、乱暴に扉閉めたわけか! リエナに悪いことしちまった……」
今頃になって頭を抱えて唸っているルークに、アーサーはますます痛くなるこめかみを押さえながら、小声でつぶやいていた。
「お前に秘かな想いを寄せているローレシアの貴婦人達に、心から同情するよ……」
***
支度を終えたリエナは、ルークとアーサーの二人部屋に行き、そのまま三人で宿の食堂に出かけた。朝食を取っている間も、リエナはずっと無言だった。ルークは彼女に話しかけようとはするのだが、うまくいかず言葉を飲み込んでしまっている。
どことなくぎこちないまま、朝食を終えた三人は食堂を出ると、ルークはそのまま剣の稽古に行ってしまった。いつもなら朝食前に済ませているはずなのにと、リエナは不思議に思ってアーサーに尋ねた。
「多分、もやもやしてるんじゃない? もう一度精神を集中させるために稽古に行ったんだよ。あいつらしいね」
アーサーは苦笑して答え、そして久しぶりに話をしようか、とリエナを自分達の部屋に誘った。部屋の扉は半分開けたまま、アーサーはリエナに椅子を勧め、自分は寝台の端に腰かける。
「リエナ、『いとせめて』をやってたんでしょ? それをあいつに気づかれたのは運が悪かったとしか言いようがないよ。でも、相変わらず鈍いやつのせいでリエナも苦労するよね」
そう言うとにっこりと笑った。リエナはそれを聞いてまた赤くなった。
「アーサー、あなた知ってたの?」
「ああ、妹のルディアに聞いたことがあるんだ。女の子達の間では有名なおまじないなんだってね」
「それもだけれど、あの……、わたくしの……」
「リエナのルークに対する気持ちなら、とっくにわかってたよ。それこそ、最初の出会いの時からね。僕から見れば、あいつがなんで君の想いに気づかないのか、そっちの方が不思議だよ」
アーサーのこの言葉に、リエナは心を見透かされた気がして、真っ赤になったままおずおずと尋ねた。
「……わたくし、そんなにわかりやすいかしら?」
アーサーは穏やかな表情のまま、ゆっくりと首を横に振った。
「そんなことないよ。ただ、ときどき、ふっと出てることはある。でも女の子なら、みんなそうだと思うけど?」
リエナは急に、アーサーに自分の悩みを聞いて欲しくなった。アーサーもそれを察したらしい。無言で、リエナに話すよう促した。
「わたくし、ルークの……彼の気持ちがわからないのよ。大切にしてもらっているのはわかるわ。いつも守ってくれて、わたくしを庇って怪我ばかりして……、でも……」
リエナが続きの言葉を言い淀んでしまっている様子に、アーサーはちいさく溜息をついた。
「あいつが君を大切にしているのは、間違いないよね。でも残念だけど、僕も何故あそこまでそうしているのかまでは、わからないんだ」
もちろん、アーサーはルークの気持ちなど最初からお見通しである。けれど、今のこの時点で、自分がルークの代わりにそれを言ってしまうわけにはいかないから、わざとわからない振りをしているのである。
それを聞いて、リエナはちょっと寂しそうな表情でうつむいてしまった。アーサーはそんなリエナが気の毒になり、力づけるように微笑んだ。
「あいつは今、ハーゴンを倒すことしか頭にないよ。それは君も同じだと思うけれど」
「ごめんなさい。――そうよね。今はそんなことを言っている場合じゃなかったわよね」
「何も謝ることじゃない。思わせぶりな態度をとってるあいつが悪いんだから。――今は、大切にしてくれている、その気持ちを素直に受け取っておけばいいんじゃないかな」
「気持ちを、素直に受け取る……?」
リエナははっとしたように、顔を上げた。
「そう。少なくとも、あいつがリエナのことを嫌いなら、あんなふうにはしないはずだから」
アーサーの優しい言葉に、リエナは少し心が軽くなった気がして、ようやく笑顔が戻った。
「あなたの言う通りね。ありがとう、アーサー」
席を立って部屋を出ようとしたとき、そこへちょうどルークが剣を片手に戻って来た。リエナはいつもどおり、にっこりと微笑んだ。
「終わったのね。じゃあ、支度が済んだら出発しましょう」
「あ……、ああ。そうだな」
ルークは急に明るさを取り戻したリエナの様子に、少し驚いていた。しかし、ルークもまだぎくしゃくしているものの、無心で剣を振るったおかげで、だいぶ吹っ切れている。
リエナは軽い足取りで自分の部屋の扉を開けた。
支度を終えて宿を出発するときには、いつもと変わらない三人に戻っていた。
***
その夜、リエナは毛布にくるまったまま、月を見つめていた。今宵は十六夜である。わずかに欠けた月が、辺りを明るく照らしていた。
幸い、今日の旅は順調にいった。もちろん、魔物に遭遇することはあったが、誰も怪我を負うこともなく、こうして無事に野宿の場所も見つかった。
今夜はアーサーが先に火の番である。寝る前にリエナが淹れておいた珈琲を飲みながら、灯火の呪文で作った灯りの下で、日課の旅の記録をつけている。
ルークはいつも通り、リエナから少しだけ離れた場所に横になっていた。広い背中をこちらに向けているが、既に寝入っているらしい。
リエナは十六夜の月とルークの背中を交互に見ながら、もう一度、自分の気持ちを確かめていた。
***
自分の気持ちに気づいたのは、旅の最初の夜、ムーンペタの宿。
でもそのときには、もうルークを愛することは許されていなかった。
それでも、自分の本当の気持ちに気づきたくなかった、とは思わない。
気づきさえしなければ、今のこの苦しみはないとわかっていても。
ルークを愛したことを、後悔していない。
後悔したくない。
もし、無事に旅を終えることができたときには
わたくしは、この想いをルークに伝えたい。
成就するはずがないのはわかっているけれど、
自分の気持ちに決着をつけたい。
ムーンブルク復興の
最初の一歩を踏み出すために。
***
――夢で逢うことはかなわなかったけれど、おまじないの効果はあったのかもしれないわ。
リエナはようやく自分の正直な気持ちに向き合え、決心がついた。秘かに安堵の溜め息を一つ漏らすと、間もなく安らかな眠りについた。
(終)
<補足>
「しのぶれど」と対になったお話で、同じエピソードでリエナ視点の作品です。
冒頭に引用した和歌は、『古今和歌集』所収の小野小町の恋の歌です。
夜の衣(パジャマ)を裏返して着ると、夢のなかで恋しいひとに逢える、そういうおまじないの歌。
ムーンブルクは魔法の国ですから、女の子達の間で、こういったおまじないが秘かに囁かれていたら楽しいかもしれない、と思いました。
管理人は平安時代の物語や和歌も大好きなので、ちょっといつもと趣向を変えて書いてみた作品です。
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