ローレシアへ
ルーク、アーサー、リエナの三人はルークの祖国であるローレシアへ向けて出立した。今はムーンペタの町の門を目指し、並んで町の目抜き通りを歩いている。
町は今日も早朝から賑わっている。崩壊したムーンブルクの城からかなり距離が離れているとはいえ、町の人々は何事もなかったかのように、平穏な日常が繰り返されている。ルークもアーサーも、その様子を複雑な表情で見遣るが、リエナには特に変わった様子はない。城下町へのお忍びなどもってのほかである深窓育ちの姫君であるから、もともと町の様子などを知らないせいなのか、それとも今は何も考えたくはないのか、彼女の表情からは何も読み取れなかった。
やがて町の門に着いた。ここから一歩出れば、魔物の跳梁する街道である。ルークは何があってもリエナを守る決意も新たに、先頭に立って門を出た。
先頭にルーク、次にリエナ、最後にアーサーの順で三人並んで歩き始める。旅慣れないどころか、徒歩での外出すらしたことがないであろうリエナをルークとアーサーは気遣い、こまめに休憩を入れながら歩き続けた。
しばらくは何事もなく進んだが、昼過ぎになって突然魔物に襲われた。大して強いものではなく、この辺りには珍しくない空を飛ぶ昆虫型の雑魚であるけれど、数が多いのがやっかいだった。ざっと見渡しただけで、5−6匹はいる。ルークはアーサーに目配せし、自分はリエナの前に立ちはだかり、彼女を守るように剣を抜いて構える。アーサーもやや離れた位置で、呪文の詠唱にかかろうとした。その時、ルークの背後で透き通るように美しい声が聞こえた。
「風の精霊よ。我との契約に従い給え。我らの前の邪悪なる存在に、真空の刃を。その力を持ちて、闇に返し給え――バギ!」
次の瞬間、リエナはルークの背後から飛び出した。手にした真新しい魔道士の杖から、彼女の魂の色である薄紅の光が湧き起こる。光は次々と真空の刃に姿を変えると、一気に魔物たちに襲いかかっていった。刃の切れ味は凄まじく、そこにいた魔物達はすべて切り刻まれ、あっさりと地面に落ちた。
リエナの真空の呪文のあまりの威力に、ルークもアーサーも一瞬何が起こったのかわからないくらいだった。リエナは杖を手にしたまま平然と立っている。ほとんど絶句しているルークの隣で、アーサーは彼には珍しくおずおずといった雰囲気でリエナに話しかけた。
「リエナ、今のはいったい……?」
「ご覧のとおり、真空の攻撃呪文ですわ。今のは初級のものですし、この杖を使うのは初めてで大した威力はありませんでしたが、お役に立てたようでよかったですわ」
相変わらず平然としているリエナに、ようやく我に返ったルークがつぶやいた。
「……あれが初級? 大した威力じゃない? 嘘だろ……」
アーサーも大きく頷いて、もう一度リエナに尋ねる。
「リエナ、確かにムーンブルク王家の方々が幼い時から徹底的に呪文を勉強することは知っています。しかし、王位継承権第二位以下の王女が習得するのは、回復や補助のみであったと記憶していますが……」
この言葉にリエナは頷いた。
「ええ、アーサーのおっしゃるとおりですわ。ですけれど、亡き兄が、ムーンブルク王家の人間である以上は王女であっても攻撃呪文も習得すべきだとのお考えで、この呪文を手ほどきしてくださいましたの」
ルークは再び絶句しそうになったが、絞り出すようにつぶやいた。
「ユリウス……、お前なんてものを、自分の妹に教えるんだ……」
アーサーももっともだというように頷く間もなく、リエナは言葉を続ける。
「本当でしたらそろそろ中級も教えてくださるはずでした。この程度ではまだまだですわ。お二方にこれ以上のご迷惑をかけることのないよう、これからもより一層精進しないといけませんわね」
ルークはもう何も言えなかったが、アーサーはリエナの言葉にふと疑問に思うことができた。
「確かに、ユリウスは真空の呪文を得意としていましたが……。もうひとつ爆発の呪文も……」
この問いにも、リエナは優雅に頷いて答えた。
「ええ。これもまだ初級のものだけですが、ほぼ習得しておりますわ。ただ時々うまくいかないことがございますし、今の様な昆虫型の魔物には、真空の呪文の方が有効だと教わりましたので」
「ところで、このことを周りの方々はご存知だったのですか?」
アーサーはこれが一番気になっていたのである。
「もちろん、内緒ですわ。父だけは薄々気づかれていたようでしたけれど、何もおっしゃいませんでした。きっと兄と同じようなお考えでいらっしゃったのでしょうね」
あっさりこう答えられて、アーサーももう何も言えなかった。
それでもこんなところで、無駄に時間を過ごす訳にもいかず、ルークとアーサーは気を取り直して、再びリエナを気遣いながら歩き始める。この後も何度か魔物に襲われたが、リエナが加わったおかげもあり、まったく傷を負うこともなく倒すことができた。ルークもリエナに負けてはならじと、いつも以上に剣を振る腕に力が籠っていたようだ。
リエナも歩くのに慣れてきたのか、足が痛む時には遠慮なく回復の呪文をかけたおかげか、少しずつではあったが速く歩けるようになってきた。夕方になり、野宿の場所を探す。この辺りはあまりいい場所がないが、それでも街道からそれほど距離のないところの大木の影を見つける。男二人が薪を拾い始めると、リエナは最初何をしているのかわからなかったようだが、見よう見まねで手伝い始めた。二人はそんなことをさせる訳にいかないと言ったが、リエナは旅が始まったばかりで、これからまだ先は長いのだからやれるだけはやりたいと、気にした風もなく手伝った。確かにこれなら、力のない彼女でも危険なくできる。火を熾したところで、周りに聖水を撒き、簡単な魔物除けにする。それを見たリエナは、再び二人を絶句させるようなことを言った。
「聖水? 眠っている間の魔物除けですの? それでしたら、わたくし習得しておりますわ。まだ移動中までは無理ですけれど、野宿の間くらいのものでしたら、明日からわたくしが呪文で簡単な結界を張りますわね」
「よ、よろしくお願いします……」
男二人は素直に頼むしかなかった。
その後、三人は携帯食料で簡単な食事をとった。火の晩はルークとアーサーが交代で勤めるので、リエナには先に休むように勧める。リエナは自分一人だけ火の番をしないことに申し訳なさそうな顔をしていたが、やはり疲れていたらしい。長い髪を汚れないように簡単にまとめ、二人から少しだけ離れた所で毛布にくるまると、背を向けて横になった。大国の王女の身で野宿など、本来ありえるわけはないのだけれど、何一つ不平も我が儘も言わない。これにはルークはもちろん、アーサーも正直驚いていた。
(リエナは余程のお覚悟を決めていらっしゃるのだろう。それでなければ、こんな待遇に耐えられる訳もないだろうに……。まだほんの少女と申し上げていい年齢の方が、このような境遇にあることだけでも並大抵ではないのに。たおやかに見えても、芯はお強いのか、それとも今は気が張っているからなのか……)
アーサーはそう考えつつ、先に火の番になったルークに後のことを頼むと、あっさり眠りに落ちた。しばらくして、リエナの方からもかすかに寝息が聞こえてくる。それを聞いてルークはほっとした。
(今夜はうなされないといいが……。かなりの距離を歩いて疲れただろうから、かえってそれがよかったのかもしれないな)
そう考えながら焚火を見つめていたが、昨夜のムーンペタの宿での出来事を思い出して、顔から火が出そうな思いがした。ルークは自分の胸に問いかける。
(俺は……、やっぱり、リエナ……姫のことを……。だが、リエナは……、もう俺の婚約者じゃない。俺はリエナを守りたい。自分の手で幸せに……いや、今はこんなことを考えている場合じゃない。まずは無事にローレシアまでお連れする。それが今は一番重要だ)
ルークはリエナへの気持ちを無理やり振り払った。
***
翌朝ルークが目を覚ました時には、リエナはもう起きていた。水を汲みに行ったのか、アーサーの姿はない。彼女はまとめていた長い髪をほどいて梳いている。ブラシを持った白いちいさな手が動くたび、朝日を浴びて白金の流れが煌めいた。ルークはしばしその光景に見とれていたが、ほどなくしてリエナはルークの視線に気づいたらしい。ちらとルークの方を見ると、恥ずかしそうに面を伏せた。ルークも不躾な視線を送ったことを申し訳なく思いながら、顔をそむける。
やがてアーサーが戻った。ルークとリエナはやはりぎこちないままである。それでも、いつまでも気にしている訳にもいかない。三人は朝食を取り、火の始末をして出発した。
その後も順調に道程を進むことができた。魔物に襲われる回数は多いけれど、リエナの真空の呪文の威力もあって、以前ほど傷を負わずに進めるようになったのがありがたい。もし、負傷しても回復役は二人いる。実際、リエナの回復呪文の効果は攻撃呪文の威力を更に上回っていた。
旅が始まって数日後、戦闘でルークがかなりの傷を負った。よくいる昆虫型の魔物と遭遇したのであるが、不意を打たれたうえに数が多かった。アーサーもリエナも呪文の詠唱に取りかかったが、魔物達は先頭にいたルークを集中的に襲った。これでは、攻撃魔法を使うわけにはいかない。魔物だけでなく、ルークも巻き添えにしてしまうからである。それでもルークは一向に怯むことなく、アーサーの剣の援護も得て、確実に一匹ずつ葬っていく。ほどなくして魔物はすべて倒されたが、今回ばかりは無傷とはいかなかった。ルークの盾を持った左腕に大きな傷があり、それ以外にも数え切れないくらいの小さな傷がある。
ルークは大きく息をつくと、剣を拭って背中の鞘に納めた。さすがの彼も、まだ息が荒い。リエナはルークのもとに駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
ルークはリエナに心配をかけまいと、無理に笑顔を作った。
「平気です、これくらい。痛っ……!」
それでも思っていたよりも傷は深いようで、ルークは痛みに顔をしかめた。
「ご無理をなさってはいけませんわ。今すぐ回復して差し上げますね」
心配そうに見上げ、魔道士の杖をルークの前に掲げると、回復の呪文を唱え始めた。
「大地の精霊よ。傷つきたる戦士の許へ、聖なる癒しの光を捧げ給え――べホイミ」
薄紅の光がルークの傷ついた全身を包み込む。ルークはまるであたたかく柔らかな羽毛にくるまれたような心地よさを感じた。癒しの光が消えた時、ルークの傷は跡形もなく消えていた。リエナはにっこり笑って、もう一度ルークを見上げた。
「終わりましたわ。傷の具合はいかがですか?」
ルークはまたもや驚かされた。アーサーの回復の呪文も凄いと思ったが、リエナのそれは、比べ物にならない程の効果だったからだ。またもや絶句しそうになったが、なんとか礼の言葉だけは絞り出した。
「……ありがとうございます」
アーサーも驚いていた。二人のところまで走り寄るとリエナに確認する。
「今の回復の呪文は、中級のものですね?」
リエナはちょっとはにかんだように微笑むと、ちいさく頷いた。
「おっしゃるとおりですわ。ルークの傷はかなり深いようにお見受けいたしましたから、初級では間に合わないと思いましたの」
「リエナはやはり素晴らしい魔力をお持ちなのですね。いくら幼い時から修業を積んでこられたとしても、リエナの年齢で中級を習得するのは並大抵ではありませんから」
「アーサー、やっぱりそうなのか?」
傷の癒えた左腕を試しに動かしながら、ルークが尋ねた。
「ああ。回復の呪文は初級はそうでもないのだけど、中級になると格段に難しくなるんだ。上級に至っては、数いる魔法使いの中でも習得できるのはごくわずかだよ」
「お役に立ててよかったですわ。いつも、お二人には助けていただいているばかりですもの」
リエナも満足そうに微笑んでいた。
***
その夜、いつもどおりの野宿である。リエナが先に眠り、アーサーが火の番を務める。毛布にくるまり横になったまま、ルークは気になっていたことをアーサーに尋ねてみた。
「なあ、アーサー。俺も魔法理論だけはみっちり講義を受けたけど……、リエナの回復の呪文って、やっぱり凄いもんなんだろうな」
アーサーはゆっくりと頷いた。彼の優雅に整った横顔を、焚火の炎が照らしている。
「凄いなんてものじゃないよ。真空の呪文もそうだけど、回復も初級ですら実際には中級に近いくらいの効果がある」
「そうか……。さすがにムーンブルク王家直系の姫君ってわけか」
「それだけじゃない。リエナは特別な才能をお持ちだと思う。――ユリウスが王家歴代の魔法使いの中でも最強って言われてたのは知ってるよね」
「ああ、そうらしいな」
「リエナは多分すぐに、ユリウスを超えるよ」
「まじかよ!?」
驚いたルークは思わず起き上った。
「こんなことで冗談は言えないよ。一緒に旅を始めてまだ数日なのに、魔力が強くなってきている気がするんだ」
「もしかして、リエナには護衛なんて必要なかったんじゃないか? あれだけ攻撃も回復もできるんだもんな」
夜空を見上げながら、ルークはしみじみとつぶやいた。
「そんなことないよ。若い女性だから体力はないし、魔法が効かない魔物だって多い。……ルーク、もしかして当てが外れたとか?」
アーサーはルークに、意味ありげな視線を送った。
「……守りたいって思ってたけど、おこがましかったかもな」
盛大に溜息をつくと、再びごろりと横になった。
***
更に数日後、ローレシアの城下町の門まで後わずかのところまで来た。
(もうすぐだ。リエナに怪我をさせることもなくて、ここまで来られてよかった)
ルークがそう考えていた矢先に、また魔物に襲われる。その中に、一匹だけ性質の悪いものがいた。もう少しで倒せるというところで、死に物狂いになったのか、なんと閃光の呪文を唱えてきた。しかもそれは後方にいたリエナに向かっている。ルークは咄嗟にリエナを庇おうと走ったが、間に合わない。
悲鳴をあげてリエナが倒れた。アーサーが自分も閃光の呪文を唱えて、魔物を倒す。ルークはリエナを助け起こそうと跪いた。見ればリエナの細い左腕がひどい火傷を負っている。リエナは苦痛をこらえ、気丈にも自分で回復の呪文を唱えた。みるみるうちに傷は癒え、元の美しい白い肌に戻る。ルークはその様子にほっとはしたが、リエナに申し訳なさそうに謝った。
「リエナ、大丈夫ですか? ……申し訳ありませんでした。私がお守りしないといけないのに」
リエナもまだ顔は蒼ざめたまま、かぶりを振った。
「いいえ、こちらこそご心配をおかけして申し訳ありませんでした。避けられると思ったのですが、考えが甘かったようですわね。もう火傷は癒えましたし、大丈夫ですわ」
アーサーも心配そうに見守っている。ルークはリエナの気丈さにあらためて驚かされた。しかし、正直なことを言えば、リエナの火傷を負った左腕を見た瞬間は生きた心地がしなかった。
(リエナが傷つくところを見るのは二度と嫌だ。かと言ってあの細い腕では、重い盾を装備するのは到底無理だろう。リエナの美しい肌に傷跡を残す訳にはいかない。これからは、俺が盾になればいい)
この後、旅が終わるまでずっと、ルークはリエナを庇い続けることになる。
その日の夕方、ようやくローレシア城の城下町に到着した。門の警備兵にルークが顔を見せると、すぐに詰所に案内された。早速極秘の伝令が城へ走り、リエナを迎える為にごく目立たない馬車が用意された。三人はそれに乗り、ローレシア城の城門をくぐった。
(終)
小説おしながきへ
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