旅の終わり
第1章 生還 2
リエナが意識を取り戻した三日後の午後のことである。
台所から修道女が湯気の上がる茶碗を乗せた盆を持って現れた。ルークは立ち上がると、修道女に声をかけた。
「リエナの薬湯か? それなら俺が持っていく」
「いけません、ルーク殿下。これは殿下のような高貴な殿方のなさるような仕事ではございません。私がリエナ姫様にお持ちします」
そう言って、病室に向かう修道女の後を、ルークもついていった。
「いいって、言ってるじゃねえか!」
「なりません!」
彼らは病室の前に着いても、まだ押し問答を繰り返していたが、これ以上騒ぐとリエナの病状が悪化しかねない。修道女はルークに軽く一礼すると、病室の扉を開けた。
「姫様、ご気分はいかがでいらっしゃいますか? 薬湯をお持ちいたしましたよ」
修道女は、部屋の入口に立ったまま、まだ不服そうな顔をしているルークを見上げた。
「ルーク殿下、どうしても殿下のお手を借りたい時にはお願いいたしますから、ここは私におまかせくださいまし」
「……仕方ねえな。いいか、リエナ。何かあったら、遠慮なく俺を呼ぶよう、修道女殿に頼むんだぞ」
リエナは寝台に横たわったままちいさく頷き、ルークはそれを確認すると、思い切り仏頂面のまま背を向けて、部屋の扉を閉めた。
ルークの広い背中を見送るリエナの表情は明らかに寂しげだったが、修道女にそれを気づかれるわけにはいかない。すぐに修道女に笑みを向けて礼を言い、手を借りて身体を起こすと薬湯を受け取り、ゆっくりと飲み干した。
「ルーク殿下は、よほど姫様のことがご心配のようですわ。いつも自分でするとおっしゃってばかり」
リエナから空になった茶碗を受け取りながら、修道女はこぼしていた。
「旅の間はずっと、わたくしが心配をかけてばかりいましたから……」
リエナはそっと眼を伏せた。長い睫毛がわずかに震えている。
「ルーク殿下がお優しいのはわかりますが、まさか、殿下のような身分ある殿方に、侍女と同じ仕事をおさせするわけには参りませんのに。……どうもそこのところをおわかりくださらなくて」
寂しげなリエナの様子には気づかず、修道女は話し続けている。
「姫様がお気を失われている間なんて、私が近づくこともお許しくださらなかったんですよ。しかも、アーサー殿下まで、そうして欲しいとおっしゃって……」
「わたくしが意識を失っている間、ルークはずっとそばについてくれていたそうですわね」
「ええ。姫様に絶対に近づくなとおっしゃって。せめてお召し替えだけでもと申し上げたのですが、それすら不要だと、今の殿下からは考えられないくらいの鋭い視線を向けられました。――正直、怖いくらいでしたわ」
その時のルークの斬り殺されそうなほどの視線を思い出したのか、修道女の顔がわずかに蒼ざめている。
「申し訳ありません。ルークは、わたくしが意識を失ったり、傷を負ったりするのは自分の力が足りないせいだから、と考えてしまうようですの。――無茶をしているのはわたくしの方ですのに……」
軽く頭を下げたリエナに、修道女は慌てて謝罪した。
「申し訳ございません。私こそ、失言をお許しくださいませ」
リエナはゆっくりとかぶりを振った。
「わたくしがこうして起きられるようになったのも、修道女様の看病のおかげですわ。感謝しております」
礼を言うリエナに、修道女は恐縮しつつも、穏やかな笑みを向けてくれた。
「もったいないお言葉でございます。私は当たり前のことをさせていただいているにすぎませんから」
修道女が薬湯の椀を片づけに出ていった後、リエナは再び身体を横たえ、じっと天井を見つめていた。ルークのそばにいたい、その想いは強くなる一方だったけれど、今のままでは難しい。それどころか、旅の目的を果たしたらルークに想いを伝える、ということができるかどうかすらわからない。
あらためてその事実に気づかされたリエナは、急に焦りを覚えてきた。
***
「しっかし、まいったぜ」
アーサーと二人で寂しく夕食をかこみつつ、ルークがぼやいていた。
「まいったって、修道女殿のこと?」
「ああ、そうだ」
「確かにね。あれだけ献身的にリエナの世話をしてくれれば、お前の出番はないか」
「リエナの看病については、俺だって感謝してる。でもな……」
「早くリエナに告白したいのに、できない?」
図星を刺されて、ルークは嫌な顔になった。
「そうだ。……悪いか」
「別に悪いなんて思ってないよ。お前の気持ちはよくわかる。でも、何とか、うまく立ち回るしかないだろう?」
「だけど、ほとんどべったりリエナにくっついてんだぜ? しかも今は、リエナは修道女殿の部屋を借りてるから、そうそう無断で入り込むわけにもいかないしな」
「まあね。食事も全部、部屋に運んでるんだろう?」
「ああ。たまには俺達と一緒にここで、って言っても聞いてくれやしない。じゃあ俺が病室で一緒に食うって頼んでみたら、いいとは言ってくれたんだが、しっかり控えて給仕してくれた。必要ないって言っても、また例の『とんでもございません』だ。結局、俺が部屋から出るまでずっといてくれたぜ」
「あの修道女殿は、純粋にお前に侍女仕事をさせるわけにはいかない、と信じ込んでいるんだろうね。いくら僕達が旅の間にそういうことには慣れてるって言っても、目的を果たした今、彼女にとって僕達はあくまで王族だ。仕方ない部分もあると思うよ」
例によって、アーサーにだけは、現在の状況の全体が見えていた。
アーサーの見たところ、修道女は貴族階級の女性ではなさそうだったが、言葉遣いや物腰から判断すると、どうやら王族や貴族の暮らしがどういうものかは知っている階級の出身らしい。
それだから、リエナの看病や身の回りの世話といった、言わば侍女のする仕事はすべて自分がやるべきであり、リエナと同じ王族であり、かつ男性であるルークがそれをするなど、とんでもないと考えているのである。これについては、アーサーだけでなく、もちろんルークとリエナも理解できていた。
修道女が何故こんな僻地の祠で暮らすようになったかの経緯などは、まったくわからないままだったが、ここに来てから、かなりの年月が経っているのは確かなようだった。ごく若い頃にルビス神殿の修道女になったらしく、いわゆる男女の機微といったことに関しては、ルークに負けず劣らず疎いらしい。
だから、ルークとリエナが相思相愛であるのには気づいていても、こういう時こそ、お互いにそばにいたいという気持ちまでは理解できないのかもしれない。特に、二人を取り巻く状況は特殊であるから、まさか二人の別れが目前に迫っていることなど、思いもよらないのであろう。
それでも修道女は、ルークとリエナそれぞれに一切余分なことを言わず、リエナの看病に専念してくれている。恐らく、自分の身分で、王族のルークとリエナに何かを言うことなど恐れ多いと思っているからだろうと、アーサーは推測していた。
そのこと自体はアーサーにとっては、非常にありがたいことだった。二人はまだ想いを伝え合っていないのに、まったくの部外者がそれをしてしまうことだけは――無意識で、悪気がないからこそ、余計に――避けたいからである。
最初は、アーサーもそれを心配し、それとなく修道女に釘を刺しておこうか、とも思ったが、彼女を刺激したらかえってややこしい事態になる可能性もある。いろいろと考えた末、敢えて何もしないのが一番よさそうだと判断した。
それならと、アーサーは秘かに策略を巡らせて、ルークとリエナが二人きりになれる時間を作れるようにしようかとも考えたことはある。けれど、ルークにとっては、一世一代の告白である。ルークの方も、こういう自分にとって重要なことで、安易に他人の手を借りることを潔しとしない性格でもあるのもわかっている。だから、いくら自分が幼い頃からの親友であったとしても、独断で手を出すのはご法度だと考え直し、今は静観するだけに留めておいたのだった。
そんな親友の気苦労を知ってか知らずか、ルークは食事を続けながら、話している。
「お前の言う、俺に侍女仕事をさせられないってことは、俺だってわかってるつもりだ。まあいい。もうしばらくここで厄介になるから、なんとか自分で機会を作ってみる」
このルークの、どこまでも前向きである言葉を聞いて、アーサーはやはり見守る方がいいという自分の判断が正しかったことを感じていた。
「そうだね。いくら修道女殿がリエナにべったりといっても、彼女にもいろいろと仕事がある。勝手に部屋に入るのだけは止めておいた方がいいかもしれないけど、あらかじめ伝えてさえおけば、見舞いくらいは大丈夫だろうと僕も思うよ」
「わかった。善は急げ、だ。明日にでも、また見舞いに行ってくる」
「がんばれよ」
「ああ」
ルークにも、やっといつもの表情が戻っていた。
***
ちょうど同じ時、別室で祠守と食事をしていた修道女は、うっとりと溜め息をついていた。
「ルーク殿下とリエナ姫様は本当にお似合いでいらっしゃいますわ。殿下はとてもお優しくて、姫様を心から大切になさっていて……」
楽しそうに話し続ける修道女とは反対に、祠守は複雑な気分だった。修道女も若いとは言えないが、祠守は既に老境に入る年齢である。
ある事情で、自ら志願してここに来る前には、様々な経験を積んできている。昔の伝手を使って、世情もある程度は把握しているし、ムーンブルクの現状――リエナが王家最後の王女であり、祖国復興のために、近い将来自らが女王として即位するはずであることも理解している。
そのため、いくらルークとリエナが相思相愛であっても、実際の結婚となると、そう簡単にはできないであろうとは推測できていた。祠守はさりげなく修道女に意見した。
「のう、もうすこしリエナ姫様のお世話を、ルーク殿下にお願いしてもよいのではないか?」
それを聞いた修道女の眼が驚きに見開かれた。
「とんでもございません! ルーク殿下にそんな侍女仕事をおさせするわけには参りませんもの」
「お主はそう言うが、こういう時だからこそ、殿下も姫様もご一緒にいたいのではないかと、わしは思うんじゃが」
「あら、お二方はご帰国なさったら、すぐにでもご結婚なさるでしょう? そうしたら、いくらでもご一緒にいられるではありませんか」
修道女は心底不思議そうな表情を見せると、またうっとりと遠くを見つめて言葉を継いだ。
「お二方の婚礼の儀を拝見できないのが、残念でたまりませんよ。リエナ姫様の輝くようなお姿が眼に浮かびますわ。今のように、質素なローブ姿でさえ、あんなにも気高くて、お美しくていらっしゃるのですもの。婚礼衣装をお召しになったら、どれだけ……」
この修道女の言葉を聞いて、祠守は心の中でそっと溜め息をついた。祠守の予想通り、修道女にはルークとリエナを取り巻く状況がまったく見えていないらしい。
それも無理はないのかもしれない、祠守はそう思った。
修道女は昔、旅の扉の事故でここに飛ばされてきたのだった。その後、事故の後遺症か、それとも他に原因があるのか、修道女は旅の扉を使うことができなくなってしまった。そのため元いた町に帰ることがかなわず、それ以来この祠でずっと暮らしている。
祠での生活は単調である。毎日の礼拝の他は、家事以外に特にすることもない。祠の外に一歩足を踏み出せば、そこは凶悪極まる魔物が跳梁跋扈する雪原である。祠そのものは、強力な結界に守られ、魔物に襲われる心配はないものの、祠から外に出ることは絶対にない。
ましてや、ここまでやってくる旅人など今までいるはずもなく、初めて迎えた客人の一人が、若く美しい貴婦人であれば、夢中になって世話をしたがる気持ちもわからなくはないのである。
この状況でただ一つだけ救いなのは、修道女は思い込みは激しくとも、高貴な身分の人々に余分な口を聞くことはない。だから、ルークとリエナの二人の結婚について、直接二人に何か言うことはないだろうとは確信できていた。それこそ、彼女の身分で、王族の結婚の話題を、それも当の本人達に振るなど、『とんでもない』ことだからだ。
それでも、念の為に、この気持ちは優しいが、おせっかいなところもある修道女にはひとこと言っておいた方がいいだろうと考えた。
「お主に一つだけ忠告しておく。ルーク殿下とリエナ姫様に、ご結婚云々などとは、決して話してはならぬ」
祠守はすこしきつめの口調で、修道女に釘を刺した。修道女の方は、また眼を丸くしている。
「まあ、そんなとんでもないことはいたしません。王族のご結婚となれば、国家の一大事ですわ。私の身分で、その様な出過ぎたことなど、申し上げるわけには参りませんもの」
やはりそうかと、それを聞いて、祠守も安心していた。この修道女は、自分で言ったことはきちんと守ってくれるはずである。
「それならよい。お主の今の仕事は、心を籠めて、姫様のお世話をして差し上げることじゃ。――じゃが、遠慮なくルーク殿下のお手も借りればよい」
「もちろん今でも、私の手に負えないときにはお願いしておりますよ」
修道女はにこやかに答えたが、どうやら祠守の言いたいことは伝わっていないようだった。けれどこれ以上何か言ったら、ルークとリエナの前で余分なことを口走らせかねない。そう判断した祠守は、これ以上忠告することは諦めていた。
***
翌日の早朝、ルークは修道女に尋ねていた。
「修道女殿、リエナの様子はどうだ?」
修道女は食堂の食卓にルーク達の朝食を並べながら、笑顔で答えた。
「今朝はまだお休みになっていらっしゃいますが、昨夜はずいぶんとご気分もよろしいようにお見受けいたしました」
「そうか。じゃあ、昼前にでも見舞いに行きたい。リエナにそう伝えておいてくれ」
「かしこまりました。間違いなく、姫様にお伝えしておきます」
そして、昼前になってルークはリエナの病室の扉をノックした。修道女が姿を現し、ルークを部屋に招き入れる。
「殿下、姫様は今は、お顔の色もよろしいようでいらっしゃいますよ」
リエナはルークの姿を認めると、いつもの花がほころぶような笑顔を見せてくれた。リエナは意識を取り戻した後もまだ、寝たり起きたりが続いていたが、修道女が言った通り、今日になってやっと顔色もよくなってきている。
そろそろ修道女は昼食の支度のために台所に行く時間のはずだった。ルークはその隙を狙ってやってきたのである。案の定、修道女はルークを見上げて申し訳なさそうに言った。
「私はこれから昼食の支度をして参ります。申し訳ありませんが、しばらく席を外しますので」
ルークは内心でほくそ笑んだが、何とかそれを表情に出さずに済んだ。
「ああ、俺なら構わない。久し振りだからリエナともゆっくり話したいし、リエナの昼飯も後から俺が取りに行くから、気にしなくていい」
「いえ、それは……。なるべく早く戻って参ります」
「別に急がなくて構わんぞ」
ルークの言うことをまともに聞いているのかいないのか、修道女はあたふたと部屋を出ていった。ルークはまだ寝台に横になっているリエナに笑顔を向けた。
「今日は、だいぶ調子がよさそうだな」
「ええ、おかげさまでずいぶん気分がいいのよ。もうすこしで床上げできると思うわ」
そう言うと、ルークの手を借りて起き上がり、寝台の背もたれにゆったりともたれかかった。ルークも寝台のすぐ横に椅子を持って来て座る。
「そうみたいだな。――献身的に看病してくれた、修道女殿のおかげだ」
「わたくしも感謝しなければいけないわ。本当によくしてくださっているもの」
二人ともそうは言いながらも、内心は少々複雑である。その献身的な看病のおかげで、ルークはなかなかリエナのそばにいられず、落ち着いた会話をすることができなくなっている。ルークもリエナも決して口に出すことはなくとも、お互いにとても寂しく思っていたから。それでも、今日は久し振りに二人きりで話ができるせいか、リエナにも明るい表情が戻っている。それが、ルークには何よりも喜ばしかった。
「ねえ、ルーク」
「なんだ?」
「もうしばらくしたら、三人揃って、帰国できるわね」
「ああ、そうだな。……リエナ」
深い青の瞳が、何かを訴えかけるように、菫色の瞳を捉えた。リエナの心臓が跳ね上がる。
「俺、リエナを……」
ルークが続きの言葉を紡ごうとした、まさにその時、部屋の扉がノックされた。続いて、扉を開ける音がする。
ルークが振り返ると、修道女が湯気の上がる皿を乗せた盆を手に、いそいそと病室に入ってくるところだった。
「さあさ、姫様。お食事の支度が整いました。お口に合えばようございますが」
絶好の機会を逃したルークは、不機嫌さを隠そうともせず、盛大に文句を言った。
「昼飯なら俺が後から取りに行くって、さっきも言っただろうが」
しかし、修道女の方も負けてはいない。
「殿下、何度も申し上げましたように、これは私の仕事でございます。さ、殿下の分も食堂に支度が整っておりますから、どうぞお召し上がりになってくださいまし」
ルークは思い切り仏頂面のまま立ち上がると、リエナにだけ、声をかけた。
「リエナ、また来る。大事にしろよ」
「……お見舞い、ありがとう」
見送るリエナも、さっきのルークの言葉の続きが気になって仕方がないが、今はもうどうしようもない。寂しげに、部屋を出て行く広い背中を見つめるしかなかった。
食堂への廊下を歩く間も、ルークは残念で仕方なかった。
(もう少しだったのに……)
修道女が献身的にリエナの看病をしてくれること自体は、ルークも心底ありがたいと感謝している。いくらルークが自分でしたくとも、若い女性が相手であるから、できることとできないことがあるからだ。
(あの修道女殿に見張られてる限り無理だ。――じゃあ、どこでならできる?)
ルークは食堂の扉の前で立ったまま、しばらく考え込んでいた。
(そうだ。もう後何回かがんばってみても無理だったら、いっそのこと、ここを出た後にムーンペタかどこかの宿でにしよう。リエナもまずはムーンブルク城跡に行って亡きディアス9世陛下に報告したいだろうし。でもそれだけ動けば疲れるだろうから、その後、ムーンペタにいったん戻って宿で休ませてやればいい。それなら三人だけだから、邪魔も入らない。――よし、その時を逃さず、告白しよう)
そう思い決めると、食堂の扉を開けた。
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