旅路の果てに
第11章 6
トランの村にも本格的な夏がやって来ていた。空は高く晴れあがり、むくむくとした入道雲が浮かんでいる。木々はますますその緑を濃くし、木陰を吹きぬける風が心地よい。小川の水も光を反射して、きらきらと輝いていた。
「ただいま、ルーク」
外で洗濯ものを干し終わったリエナが戻ってきた。手には、野の花を持っている。家の周りに咲いているのを摘んできたらしい。
「お帰り」
「今日もいいお天気ね。風が気持ちいいわ」
リエナはにっこりと微笑むと、さっそく摘んできた花を窓辺と食卓の上に活けはじめた。花があると、部屋の中がそれだけでぱっと明るくなった気がする。
移り住んだときには必要最低限の物しかなかったこの家も、今ではリエナの手で居心地よく整えられている。
カーテンもリエナが村の女達に教わって縫ったものだった。それ以外にも、ラビばあさんから香草を干したものをもらってきてちょっとした飾り物を作ったりと、いろいろと工夫するのが楽しいらしい。
日々の穏やかな暮らしの中で、ルークとリエナも、すっかりこの村の住人として落ち着いていた。
***
その日の午後、昼食と後片付けを終えたリエナは、食卓の椅子に腰かけると分厚い書物を広げた。リエナは最近になって、魔法の研究も再開していたのだ。
ルークは熱心に書物を読むリエナを眺めながら、家事をしたりする姿もいいけれど、こういう姿はやっぱりリエナらしい、そう思って見とれていた。
「今度はどんな呪文の研究してるんだ?」
ルークが書物を覗き込んで尋ねた。細かい文字でびっしりと古代魔法の種類や、詠唱の言葉などが載っている。リエナはムーンペタの離宮から出奔した時にも、最低限の荷物の他に、魔法の専門書だけは数冊持ち出していたのである。
「研究というよりは、復習に近いわね。わたくし、ほとんどの呪文を封印しているから、時々はこうしてきちんと勉強し直しておかないといけないと思ったのよ」
言うまでもなく、リエナは当代最強の魔法使いである。しかし、トランの村人の前で本来の力を見せるわけにはいかない。特に、攻撃魔法を操る女性の魔法使いはごくわずかである。素性を疑われないためにもルークが最低限の呪文のみを発動した方がいいと忠告し、リエナもそれを受け入れてのことだった。
そのため、今の生活でリエナが発動する呪文は、当初は初級の回復と解毒のみだった。それに、しばらく経ってからもう一つ結界の呪文が加わった。これは村への魔物の侵入を防ぐため、ロチェスの町に住む結界の呪文専門の魔法使いに多額の礼金を支払って依頼してしていると聞いたからだった。
これらの呪文は、リエナの本来の力からいえば、ほんの一部でしかない。けれど、これだけでも市井の魔法使いなどとは比べ物にならないほどである。だから、自分達の身分を隠す目的からいえば決して上策とは言えないのであるが、幸い、トランの村人達は、まとめ役のジェイクであっても魔法に関する知識をほとんど持ち合わせていない。今のところは疑いを持たれたことはなかった。
仮に、何か不審に思ったとしても、リエナの呪文が自分達に大きな利益をもたらしこそすれ、害を為すことはありえない。そもそも、二人がこの村に来ることを決めたのは、ルークの剣の腕を見込んでジェイクが頼み込んだからだった。ジェイクの話を信用できると判断したルークは、村に素性を詮索しないこと、たとえ身内であっても二人が隠れ住んでいることを口外しないという条件を提示し、ジェイクもそれを了承した。村人が条件を破っても、自分達に利益が無いどころか、とんでもない損失である。だから、ルークとジェイクが取り交わした契約は村全体できちんと守られているのだ。
リエナは書物から顔を上げて微笑むと、言葉を継いだ。
「それにね、今わたくしの使える最高の攻撃呪文は、最上級の爆発の呪文よね。何かそれを超えるものはないかしらと思って」
それを聞いて、ルークは眼を丸くした。
「あれ以上って……本気か?」
「あら、もちろん本気よ。今わたくしが知る限りでは、あの爆発の呪文以上に威力のあるものはないわ。けれど、古には存在した可能性は充分に残っているのよ」
「そんなものがあるのか? 想像もつかないぜ」
「ええ。まだ確信はできないけれど、可能性は否定できないわ。勇者ロトの時代には今よりももっと数多くの呪文が存在したことだけは、文献で明らかにされているもの」
「なるほどな」
「せっかく今は時間があるのだから、すこしでも考えをまとめておきたいのよ。必要あるかないかは関係なく、純粋に魔法使いとしての探求心ね」
リエナの言いたいことはルークにも理解できる。実際、ムーンブルク崩壊以前には、亡き兄ユリウスと二人で、古の魔法の復活や現代の魔法の改良などの研究に勤しんでいたからだ。
このように研究を再開したということは、それだけリエナの心身に余裕が生まれてきた証拠でもある。それ自体は、ルークにとっても喜ばしいことに違いない。
「それにしてもお前、まだこれ以上強くなる気か? もう俺敵わないんじゃねえか?」
ルークにとっては掛け値なしの本音だったが、リエナはあっさりかぶりを振った。
「そんなことありえないわ。だってあなた、最上級の爆発の呪文を受けても立っていられるじゃないの」
「簡単に言ってくれるがな。俺だって、すげーきついぞ」
実際、ルークは何度も、魔物の発動する最上級の爆発の呪文に耐えてきている。しかし内心では、リエナが本気で同じ呪文を発動したら、自分でも耐え切れるかどうかは、ぎりぎりだとは思っていた。
「逆にわたくしがあなたの攻撃を受けたら、ひとたまりもないわ。違って?」
「確かにそうだが……。あんまり強くなられると俺の立場がなくならないか? 一応、俺はお前を守る役目なんだし……」
「わたくしはいつもあなたに守ってもらっているわ。それは今でも同じよ」
リエナはそう言うと、また書物を熱心に読み始めた。
***
一方、ラビばあさんはトランの村に戻ると、すぐさま薬屋から依頼を受けた薬草の調合を始めていた。
薬屋から聞いた衝撃的な情報については、ばあさん自身、まだ自分でもどう折り合いをつけていいのかわからないのだ。ただ一つ言えることは、この件についてこれ以上考えても何も生まないということだった。
ばあさんは以前にも一度決めた通り、この件についてこれ以上考えるのをやめていた――否、やめるよう努力していた。忘れること自体は無理だった。何故なら調合しているのは、他ならぬルークのための薬なのだから。けれど今はただひたすら、薬草の調合に専念するのみである。
自分の薬師としてのすべてをかけて、最高の薬を調合する。
しかし、いくら懸命に調合しても、この薬を実際にルークが使うことはないのだ。何故なら……ルークは古傷悪化になど悩まされていないからだ。この、トランの村で息災に暮らしている――心から愛するリエナと二人で。
頭のどこかにこの考えがこびりついて離れない。無駄かもしれない――時折、その思いがよぎる。
ばあさんは目を閉じて意識から振り払った。邪念があっては、良い薬はできない。
その後は、寝食を忘れるほどに薬の調合に没頭した。
***
リエナの体調は順調に回復に向かっていた。ばあさんの薬草が効いたのはもちろんのこと、夏になったおかげもあり、リエナの身体をずっと蝕んでいた冷えはかなりやわらいでいる。今も薬草を使ってはいるが、以前ほど種類も多くは必要なく、ばあさんの家へ通うのも週に一度程度で充分なほどになっている。
それでも、リエナは時々手作りの焼き菓子を手に、ばあさんを訪ねてくる。
この日も、午後になってからルークとリエナはラビばあさんの家を訪ねた。
「おばあちゃん、こんにちは」
「ばあさん、邪魔するぜ」
「リエナちゃんか、よう来たの。ルークもお入り」
出迎えたラビばあさんの顔には疲労の色が濃い。また珍しいことに、玄関先でのルークとの一連の遣り取り――リエナだけ置いていけば良いとばあさんが主張し、ルークが反論する。結局は二人揃って招き入れられるのが恒例行事となっている――がなかった。
リエナが心配そうに声をかける。
「おばあちゃん、どうしたの?」
「何でもない。ちょいと疲れただけじゃよ」
「でも、顔色が悪いわ。わたくしたち、また出直しましょうか? それとも、何かお手伝いすることあるかしら?」
「ばあさん、薬師の不養生ってやつか? らしくねえな」
「ふん。相変わらず憎まれ口だけは一人前じゃの」
玄関先でこれ以上遣り取りしても仕方ないので、二人はとりあえず家に入った。ばあさんは調合の研究をしていたらしい。居間にまで薬草の強い匂いが立ち込めている。
「ごめんなさい、お仕事中だったのね。また今度お邪魔するわ」
「いや、ちょうど一段落したところじゃよ。わしも休憩しようと思っとった。じゃから、一緒にお茶を飲んでいくがええ」
「そう……? わかったわ。それなら、今日はわたくしがお茶を淹れるわね」
ばあさんは目をしょぼしょぼさせながらも、笑顔になった。
「ほうか。じゃあ、今日は頼むとしようかの」
「ええ、ちょっと待っていてね」
リエナは立ち上がると、焼いてきたお茶菓子を手に台所に入っていった。
***
ラビばあさん特製の香草茶とリエナの焼き菓子とで午後のお茶を楽しんだ後、ばあさんは、念のため診察しておこうと言ってくれた。
終わってから、ルークの待つ居間に戻ると、ばあさんは長椅子によっこらしょと座って、穏やかな笑みを見せた。
「リエナちゃん、ずいぶんと良くなっとる。きちんと薬湯を飲んで養生したからじゃ。今の暑さもいい影響があったのじゃろ」
「ありがとうございます。おばあちゃんのおかげよ」
リエナもほっとした表情になる。自分でもここのところ体調がよいと感じていたが、ばあさんにそう言ってもらうことで、さらに安心できるのである。
「この分なら、寒くなるまでに完治できるかもしれん。ただし、よくなったとはいえまだ無理はせん方がええ。引き続き、ちゃんと養生するんじゃよ」
「はい、わかりました」
「ばあさん、感謝する」
「なんじゃ、ルーク。珍しく殊勝なことじゃの。褒めてもこれ以上は何も出んぞ」
「たまには人の言うことを素直に聞いたらどうだ?」
ばあさんも二人とゆったりとお茶を楽しんだおかげか、いつもの調子に戻っている。リエナは内心、ばあさんが体調を崩しているのではと心配していたので、胸を撫で下ろしていた。
夕日が窓から差し込むころ、ルークとリエナは揃って、自分たちの家に帰った。
ばあさんは見送った後、再び仕事部屋に戻り、薬草の調合をはじめた。
***
この夏は何事もなく過ぎた。村人たちも毎日、作業や家事やそれぞれに過ごしている。ルークとリエナも同じように、平凡ではあるけれど、穏やかな日々を過ごしていた。
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