旅路の果てに
第15章 2
「ねえ、ルーク」
リエナが生まれたばかりの娘をあやしながら、ルークに声をかけた。
「うん? おい、アレン!」
夕食を終えたアレンが、ちいさな家の中を所狭しと走り回っている。昼間も外で泥だらけになって遊ぶのが常なのであるが、まだ体力があり余っているらしい。ルークは溜め息をつきつつ、視線をアレンに向ける。そしておもむろに立ち上がると、一歩踏み出した。
「……え?」
アレンが急停止した……つもりが、思いっきり父親にぶつかった。ルークはアレンの動きを先読みして、進路に立ち塞がったのである。アレンがおずおずと顔をあげると、そこにはルークの顔が迫っている。
「お前、何故そんなにあっちこっち駆けずり回ってるんだ?」
アレンがびくりと震えた。ルークは決して声を荒げているわけではない。むしろ口調そのものは穏やかとすらいえる。けれど、それだけに父親が本気で怒っているのが伝わっているらしい。目をつぶって身体をすくませている。
「ぶつかったのが俺ならいいが、リエナか妹だったら、怪我するかもしれんぞ。それ、わかってるか?」
「ごめん……なさい」
「妹は大事だろ?」
「うん、いもうとだいじ。いもうとかわいい」
「わかったんなら、さっさと風呂にはいるぞ」
リエナのほうは、父子の会話を微笑みながら聞いている。この遣り取りはほぼ恒例となりつつあるので、慣れたものだった。抱っこされている娘はいつの間にか、すやすやと眠っている。
***
ルークと湯を使い、寝間着に着替えたアレンが、リエナのところにやってきた。
「さっぱりしたみたいね」
「うん」
ほかほかと湯気が立ちそうなアレンも、さすがに眠くなってきたようである。目をこすりつつ、リエナに近づいてくる。
「おやすみなさい、かーさん」
「おやすみ、アレン。いい夢をね」
リエナは娘を抱いたまま、片手でアレンの頬に手をやり、かるくくちづける。
そこへ、ルークも湯殿から戻ってきた。
「おやすみなさい、とーさん」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ、いもうと」
アレンは生まれたばかりの妹にもこうして毎晩、就寝の挨拶をするのが習慣になっている。幼いなりに、妹が可愛くてしかたないらしい。
ひとつ、大あくびをして、アレンは自分の部屋に入っていった。
***
ルークは、やれやれといったふうに長椅子に腰を下ろした。
「しっかし、なんでアレンはあんなにちょろちょろするんだ?」
「あら、男の子ってみんなそうじゃない? あなたはこどもの頃、どうだったのかしら?」
「俺か? そういや、乳母や女官たちが苦労してたって聞いたことが……」
リエナはくすくす笑っている。
「やっぱりね」
「何だよ、その笑いは……」
図星をさされたルークは話題を変えることにした。
「ところで、さっきはごめん。何だった?」
「この子の名前のことよ。明日は村のみなさんにもお披露目だもの」
生まれたばかりの娘は、リエナに抱っこされてすやすやと眠っていた。
娘の名前は、今回はリエナが決めることになっていた。アレンはルークが名付けたことと、リエナが二人目を身籠っっている時、もし女の子であれば、自分で名付けたい、と希望していたからである。
実のところ、リエナは娘の名前を生まれた時から決めていた。けれど、今日まで口にしなかったのには、わけがある。
名前は、産養いの儀式の時と同じくして村人へ御披露目するのが慣習となっているからだ。その前に家庭内で名前を呼んでしまえば、御披露目の前に村人が知ることになってしまう。
名前は神聖なものである。しかるべき手順を踏んで、はじめて知らしめるべきものであるから、リエナも今まで何も言わなかったのだ。もちろん、両親や、場合によっては祖父母も交えて相談して決めることも多いが、その時にも家族以外の前では、決して話題に出すことはない。
ルークは、ひとつ頷いた。リエナの隣に腰掛け、真っ直ぐな視線をリエナと娘に向けた。
「何て名前だ?」
リエナはゆっくりとその名を告げた。
「テレサ、よ」
それを聞いたルークは何か言いかけて口ごもった。一呼吸おいて、確認した。
「いいのか? 俺の母上の名前を貰っても」
「あなたさえよければ、そうさせて」
リエナはにっこりと微笑んだ。
「ああ、いい名だ」
「あなたに賛成してもらえてうれしいわ。わたくし、ずっとこの名前にしたいと思っていたから。なんとなくだけれど、お腹にいる時から女の子のような気がしていたのよ。だから、最初からこの子はテレサって名付けたかったの」
もともと、王族に限らず一般庶民でも、両親や祖父母など、一族から名を受け継ぐことは珍しくない。
ルークの母は、ルークを出産と同時に亡くなっている。不幸な出来事ではあったが、その生涯は極めて短いものだったにもかかわらず、幸福に満ちていたのもまた事実だった。ルークは母の記憶を持たないが、死後もローレシアに残った侍女らから、その美しく聡明で、あたたかな人となりは幾度となく聞いている。また、ローレシア王も、言葉には出さずとも――テレサの死後、やむなく新しい妃を娶ったからである――深く愛した妃であったのだ。
リエナも、ローレシアの王太子妃となるべく教育を受けていた折、亡きテレサ妃について、いろいろと話を聞いていたこともあり、漠然とではあるが、ずっと心にこの名前が刻まれていたのである。
「ありがとう、リエナ」
ルークはリエナから娘を受け取ると、真剣な眼差しで話しかけた。
「テレサ、お前の名は、お祖母様からいただいた。お前はお祖母様の分まで……幸せになるんだぞ」
***
翌朝、目を覚ましたアレンが居間に駆け込んできた。まだ寝間着のまま元気よく朝の挨拶をする。
「とーさん、かーさん、おはよう」
「おー、おはよう」
「おはよう、アレン。よく眠れたみたいね」
「うん、いっぱいねた。いもうと、おはよう」
「アレン、妹の名前が決まったぞ」
「なまえ?」
きょとんとした顔で、アレンは父親を見遣った。
「そうだ。名前だ。お前の名はアレンだよな」
「うん」
返事をしたものの、今一つよくわかっていないのか、アレンは首を傾げた。
「いもうと、ちがう?」
「妹は妹だ。お前は兄で、アレンという名前がある。同じように、妹にも名前がいるよな? これまで妹に名前がなかったのは、まだ決まっていなかったからだ」
「そうよ。あなたのお父さんがルークなのと同じことよ」
「うん、わかった!」
「じゃあ、妹の名前を言うぞ」
「うん」
「うん、じゃない。こういう大切な時の返事は?」
「はい!」
アレンは姿勢を正した。幼いなりに大切な儀式だと理解しているらしい。
「よし。お前の妹の名は、『テレサ』だ」
「て、れ、さ……?」
「そう、テレサだ」
「さあ、アレン、名前を呼んであげてね」
リエナがテレサを抱っこして、長椅子に腰掛けた。アレンも隣に座ると、ちいさな顔を覗き込んだ。
「テレサ」
その時、テレサが声をあげた。
「あ、わらった。テレサ、よろこんでる」
「ええ、喜んでいるわ。アレンはいいお兄さんね」
その時、テレサがちいさな手を伸ばしてきた。
「アレン、テレサの手を握ってあげてね」
「わかった」
「おい、力を入れすぎるなよ。そっと、な」
「はい!」
アレンもルークに似て、この年齢とは思えないほど力が強い。緊張しながらも、慎重にテレサの手を握る。またテレサが可愛らしい声をあげた。
「テレサ、うれしそう」
アレンの顔に満面の笑みが浮かぶ。その様子を見て、ルークとリエナも微笑みを交わした。
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