旅路の果てに
第2章 5
リエナは鬱々としたまま、書物を手にしていた。フェアモント公爵家が自分の生命を狙っている可能性に気づいて以来、以前に増して緊張の日々が続いている。読書もいつもなら少しは気晴らしになるのに、文字を眼で追うばかりで頭に入って来ない。仕方なく書物を閉じ、窓から外の景色を見るともなしに見ていた。
「姫様、お茶のお時間でございます」
いつものように、女官が午後のお茶を居間の円卓に用意し始めた。卓上には、香り高いお茶と、とりどりの小菓子を盛った皿が並べられているが、最近はほとんど手をつけることはない。しかし、女官にせめてお茶だけでもと強く勧められ、茶器を手に取り、口をつけた。
ひとくち飲んでみて、何かがおかしい、そう思った瞬間、身体が痺れはじめた。それでも音を立てないよう茶器を置き、女官に異変を気づかれる前に、小声で詠唱を始めた。
「精霊よ、我が身を蝕みし毒を消し去り給え――キアリー」
体内の毒が解毒の呪文で中和されていくとともに、痺れも徐々に治まってきた。
(やっぱり、毒入りだったのだわ。生命を奪うほど強いものではないけれど、気づいて、よかった……)
続けて、残りのお茶と小菓子にも解毒の呪文をかけることにする。手をつけずに下げられたこれらを口にした女官に、万が一のことがあっては大変である。再び小声で呪文を唱えた瞬間、お茶からなんとも嫌な色の瘴気が立ち昇った。小菓子の方は何の変化もないところを見ると、毒が仕込まれていたのはお茶だけだったらしい。
(どういうこと? いったい誰が、わたくしに毒を……?)
リエナはフェアモント公爵家の犯行だろうかと真っ先に考えた。けれど、どうしても理由がわからない。
リエナが危惧しているように、フェアモント公爵家が最終的には自分の生命を奪う計画を立てていたとしても、今の段階で生命を落とせば、彼らの野望は水泡に帰す。自分の存在なしでムーンブルクを手に入れることは、どう考えても不可能である。
いくら彼らが自分と同じく、月の神々の末裔であっても、勇者ロトの血が入って既に180年余り経った今、生き残りの貴族はもちろん、民も、ロトの血を持たない王の存在を認めるとは思えないからだ。
更に考えを巡らせたリエナは、別人の犯行の可能性もあるかとも考えたが、常にフェアモント公爵家の監視下にある自分を毒殺するのはまず無理である。
(暗殺しようとすればいつでもできる、フェアモント公爵家――いいえ、チャールズ卿は、わたくしにそう言いたいのだわ)
だから、身体が痺れる程度の軽い毒物――リエナがその場で解毒の呪文を唱えられるものを盛ったのだ。考えた末、リエナはこう結論した。
***
「殿下に、毒物ですと……?」
宰相カーティスは小声でリエナに問い返していた。
「ええ。ただ、毒物とはいっても身体が痺れる程度で、生命を脅かすようなものではありませんでした。わたくし自身がその場で、解毒の呪文をかけられるくらいでしたから」
「なんと、なんということを……! こともあろうに、ムーンブルクの、唯一の王位継承者に対し、その様な暴挙を振るうとは……!」
いつもは冷静さを崩すことはないカーティスの語尾が怒りに震えている。険しい表情で、カーティスがリエナに問いかけた。
「……やはりフェアモント公爵家の人間の仕業でしょうか」
「恐らく間違いないと思います」
リエナは頷くと、言葉を継いだ。
「ですけれど、証拠がありませんわ。今の状況では、フェアモント公爵家を問い詰めても、何の解決にもならないと思います。はぐらかされるか、わたくし付きの女官の誰かが、濡れ衣を着せられて終わるか、ではないでしょうか。それに……」
「それに?」
「フェアモント公爵家は、わたくしがそうだと気づくことを、最初から承知でやっているのだという気がしてなりません」
「しかし、解せません。フェアモント公爵家は何故その様なことをしたのでしょうか。いくら痺れ薬程度の軽い毒物とはいえ、もし殿下が健康を害されれば、彼らにとっても歓迎すべからざる事態でしょうに」
このカーティスの言い分はもっともである。万が一、リエナが生命を落とすような事態にでもなれば、フェアモント公爵家が真っ先に疑われる。リエナのお付きの女官も、身の回りの品々もすべて、フェアモント公爵家が手配しているからである。
「わたくしも最初は理由がわかりませんでした。もしや、他に暗殺者がいるのかとも思いました。ですが、フェアモント公爵家以外に実行に移すのはどう考えても不可能ですわ。彼らはこう言いたいのではないでしょうか。――わたくしの生命は既に、チャールズ卿の手の内にある、と」
「なるほど、殿下のおっしゃることが正解かもしれません。確かにチャールズ卿であれば、やりかねません。現当主の公爵では到底そこまで思い切った行動は取れないはずです。まず間違いなく、チャールズ卿が独断で事を運んだのでしょう」
「実は、あの後にも二度ほど同じことがありました」
「誠ですか!?」
カーティスの表情が更に厳しさを増した。
「ええ。最初に毒を盛られて以来、自分の口にするものにはすべて、あらかじめ解毒の呪文をかけておりました。ですから、わたくしが実際に被害を受けたことはありません。解毒の呪文程度でしたら魔道士の杖を使う必要もありませんから、周りの女官達には気づかれていないはずです」
「何事もなくて、ようございました」
カーティスは安堵の表情を見せると、言葉を継いだ。
「お茶に毒を盛る、ということであれば、お付きの者達の中に、チャールズ卿の息のかかった者がいる、その可能性が高いと考えられます」
「わたくしも同じ考えですわ。けれど、先程も申し上げた通り、証拠がありません。チャールズ卿が女官に毒を薬だと偽って渡したとも考えられますもの」
「由々しき事態です。早急に対策を講じなければいけません。場合によっては、ローレシアに殿下の保護を求めます」
このカーティスの言葉に、リエナは慌ててかぶりを振った。
「宰相、それはなりません。これは純粋にムーンブルクの問題です。いくらロト三国はロトの血で結ばれた友好国とはいえ、ローレシアを巻き込むわけにはいきませんわ」
「もちろん承知しております。ローレシアに保護を求めるのはあくまで最終手段でございます。ですが、生命を狙われている可能性が残る以上、このままというわけには参りません」
カーティスも、ムーンブルクの問題であるとのリエナの考えは理解できる。そして、リエナの発言は、ルークにこれ以上の迷惑を掛けたくないゆえであるともわかっている。しかしここまで来たら、現状を静観するわけにはいかない。
「殿下、よろしいですね。これまで以上に御身の周りには細心の注意を払うようになさってください。解毒の呪文も必ずお忘れなきように。今までは痺れ薬でも、次回は違うやもしれません」
リエナも真剣な表情で頷いた。
「わかりましたわ。わたくしも、自分の身は自分で守るしかありませんもの」
リエナの部屋を退出した後も、カーティスは対策を考え続けていた。何とかローレシアと接触――それもできれば、ルークと個別に会談したい。ルークにこの事態を伝えられれば、必ずローレシアはリエナとムーンブルクのために動くはずである。ロト三国の宗主国を味方につけられれば、こんな心強いことはない。
一番いいのはカーティス自身がローレシアに赴き、直接現状を報告することであるが、現在ローレシアへの公式訪問の予定はない。手紙も内容が漏れる恐れがある以上、迂闊に文字に残すことは躊躇われる。行動を誤れば、カーティス自身が、リエナ暗殺の首謀者として捕えられる可能性すらある。現状で表立ってリエナのために行動をとれるのが自分しかいない以上、カーティスも独断で迂闊に動くことはできない。
しかし、いくらリエナの意思だからといって、このまま事態を放置していて、事が起こってからでは取り返しがつかなくなる。カーティスは、リエナを説得しつつ、ローレシアとの接触の方法を模索し始めた。
***
最初のローレシアの密偵によるリエナに関する報告から約1ヶ月後、ローレシア王の執務室で新しい情報がもたらされた。それは更に悲惨なものだった。
今回の報告は、前回の調査結果はすべて正しく、リエナは軟禁状態にあること、それに加え、あのチャールズ卿がリエナとの結婚により、フェアモント公爵家が実質的にムーンブルクを手に入れる計画を進めている、という信じがたいものである。
ルークはこの報告に激情を抑えるのが精一杯だった。
王も宰相バイロンも、あまりの事態に一瞬我が耳を疑っていた。
バイロンが密偵に新たな支持を下した。
「現状はわかった、下がってよい。このまま調査を続行し、どんな些細な事実でも、何か動きがあれば早急に報告せよ」
密偵が退出した後も、王とバイロンは話し合いを続けている。
「陛下、チャールズ卿がリエナ姫様とご結婚とは……、フェアモント公爵家も考えましたな」
王も難しい顔のまま、腕を組んでいる。リエナは次期女王として敬われるべき王女である。その王女が、軟禁の憂き目に遭い、単なる政治的な道具としてしか扱われない。本来ならば、決してあってはならない事態である。
「確かにチャールズ卿であれば、リエナ姫の相手となれるだけの条件を持っている。これで、ムーンブルクを手に入れるなどという陰謀さえなければ、ふさわしい相手といえようが……」
ルークは無言のまま、怒りに肩を震わせていた。父王とバイロンの遣り取りすら、ほとんど耳に入っていない。
(あの男がリエナと結婚する、だと……!?)
ルークはチャールズ卿がリエナの美しい髪や肌に触れる、と考えるだけで、全身の血液が逆流する思いがした。リエナを本当に愛しているから、というのであればまだしも、チャールズ卿にとってリエナは、ムーンブルクを手に入れるための美しい道具に過ぎず、手に入れた後は思うがままに蹂躙されることがわかっている。それなのに、今の自分の立場ではどうしても身動きが取れない。
生涯ただ一人愛し、必ず自分の手で幸せにすると誓った女性を、守ることはおろか、そばについていることすらできない。ルークはこの状況に居ても立ってもいられなかった。
リエナも自分が置かれた状況は理解しているはずだとルークは確信していた。ムーンブルク崩壊以来、言い知れぬほどの苦労を重ねてきたリエナは、精神的にも驚くほど強くなっている。しかし、こんな状態にいつまでも耐えられるはずがない。ましてや、今の彼女の身体は長旅の疲れと心労とでぼろぼろになっている。
(何故あの時、ムーンブルクに帰らせてしまったのか。俺がもっと粘って父上を説得して、せめて体調が完全に回復するまでの間だけでもローレシアに滞在させるべきだった。そうしていれば、ここまでひどい事態に陥ることもなかった)
普段は後悔などとは無縁のルークが、この時ばかりは悔やんでも悔やみきれなかった。
(いったい、リエナが何をしたっていうんだ? あいつに何の責任があるんだ? 祖国の復興のために散々苦労した結果がこれか? 何故リエナ一人がこんな悲惨な目にあわなければならないんだ? 俺は何のためにリエナを守ってきた? 間違っても、こんなつらい思いをさせるためじゃない。リエナは誰にも渡さない。俺の、この手で、幸せにしてやりたい……!)
それでも、いつまでも過去を悔やむのはルークの性に合わない。父王に向かい、決然とした態度で話しだした。
「父上、お願いがあります」
「申してみよ」
「私をムーンブルクへ公式訪問させてください。名目は何でも構いません」
「それはならん。今まで何度も言った通り、そなたの行動如何によっては、取り返しのつかない事態になる。リエナ姫の結婚はムーンブルクにとっても非常に重要な事項だ。いくらフェアモント公爵家とて、姫のご意向を無視してごり押しすることはできないはずだ」
「ルーク殿下、陛下のおっしゃるとおりでございますよ。ご聡明なリエナ姫様のことですから、恐らくある程度のことは察していらっしゃるでしょう。既に結婚を申し込まれていたとしても、すぐに承諾なさることはないかと存じます」
バイロンも自分の意見を述べた。
「ではせめて、大至急密偵の数を増やし、徹底的な調査のご命令をお願いいたします」
ルークは更に父王に食い下がった。
「わかった、すぐに手配する。だが、そなた自ら動くのは厳禁だ。――よいな」
「……御意、父上」
ルークは憤懣やる方ない思いを堪えながらも、今は肯うしかない。
***
父王の執務室を退出し、自室に戻ると、ルークは気持ちを切り替え、あらためてフェアモント公爵家がリエナに結婚を申し込んだ意味を考えはじめた。しばらくして、ある疑問が浮かぶ。
(本当に、あの男が、女王の夫として、ムーンブルクを手に入れるだけで満足できるのか?)
女王の夫、または王の祖父や父として実権を握る――確かにムーンブルクを手に入れることはできるが、あくまで間接的なものに過ぎない。ルークもムーンブルクの現王家とフェアモント公爵家の確執の歴史は熟知している。今もなお、あれだけ王位に執着を見せている彼らがそれだけで終わるとは、ルークには到底思えなかったのである。
ルークにとっては考えたくもない話ではあるが、もし、万が一、チャールズ卿と結婚し、世継ぎを儲けた後にリエナが生命を落とすことになれば、状況によっては、チャールズ卿自身が王位を継ぐ可能性を否定できない。世継ぎがいてもまだ幼ければ、その子が成人するまでの間の一時的な措置として、特例が認められる可能性がある。
そして、一度王位についてしまえば、後はどうにでもなる。またここで、世継ぎの子が薨去すれば、王となったチャールズ卿は、あらためて妃を娶り、子を儲け、その子が次の王位に就く。この時には、ロトの血を持たない新たな王家が誕生する。――それも、合法的に。
ここまで考えを巡らせたルークは組んでいた腕をほどくと、天井を見上げた。
(いくら何でも考え過ぎか……)
万が一発覚すれば、フェアモント公爵家が取り潰しになるだけでは済まず、ムーンブルクという国の存続自体が危うくなる。それだけの危ない橋を渡ってまで実行に移すとは、どれほど彼らが王位に執着しているのが事実であっても考えにくい。
ルークは父王か、宰相バイロンに相談を持ちかけようかとも思った。しかし現状では、自分の意見に耳を傾けてもらえる可能性は低いし、情報も不足している。まずは密偵に命じたように、リエナの現状を正確に把握するのが先だった。
(まだリエナとあの男の婚約が発表されたわけじゃない。今ここで無闇に動いたら、相手の思うつぼになる)
すぐにリエナの許に駆けつけたい。ルークは焦燥感に苛まれながらも、今はじっと待つことしかできない自分が不甲斐なくて仕方がなかった。
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