旅路の果てに
第7章 3
ルークとリエナの新しい生活が始まった。
リエナは二人の新居となった、ちいさな丸太小屋の居間に立っている。ルークはここに来ても変わることなく、裏庭で朝の日課となっている剣の稽古をしている。
今朝のリエナはいつもの白いローブではなく、村の女達と同じような服を着ていた。木綿のブラウスと長いスカートに白いエプロンをつけた、如何にも初々しい若妻の姿である。ルークが出奔準備をするときに、あらかじめ用意しておいてくれたものだった。
これまでずっと、絹のドレスばかり――旅の白いローブも木綿製で見た目は簡素であったが、リエナ用に特別に仕立てられたものである――だったから、このような衣服は生まれて初めて身につけた。当然、着心地も何もかもが違っている。それでも、リエナには何の不満もない。むしろ、これからはトランの村の一員として生活していくのだという、新たな気持ちになることができた。
リエナはゆっくりと部屋の中を見まわした。
(まだ、何もない……。それでも、ルークと暮らせるんだわ。ほんの数日前までは、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかったのに。でも、これからずっと、ルークと一緒にいられる……)
じんわりと幸せがこみあげてくる。無論、ムーンブルクを捨てて出奔してきたことへの罪悪感はある。けれど今だけは、愛する男とともに暮らせる喜びの方が大きかった。
しばらく幸せに浸っていると、ルークが戻ってきた。居間の真ん中で立ち尽くしているリエナに、心配そうに話しかけた。
「リエナ、どうした?」
リエナは振り返って、ルークを迎える。穏やかな笑顔だった。
「あ、ルーク。何でもないの。ただ、うれしくて……」
「うれしい?」
「……だって、あなたと一緒にここで暮らせるのだもの」
「それならいいが……。こんなちいさな家で、小間使いの一人もいない生活じゃあ大変だろうが、そこのところは我慢してくれ」
「そんなこと! わたくし、お料理でも何でもできるわ。旅の間はずっとやってきたのだし、身のまわりのことだって自分でできるもの。わたくしはあなたのそばにいられるのが、何よりもうれしいの……」
そう言って、ルークを見上げた。ルークはリエナを抱き寄せると、耳元で囁いた。
「リエナ、お前そこまで……。俺が絶対に幸せにするから」
「もう充分に幸せよ……」
リエナはルークの腕のなかで、心からのつぶやきを漏らした。
***
台所に立ち、リエナは朝食の準備を始めた。
今リエナが手にしているのは、旅の間に愛用していた料理用のナイフである。
(またこのナイフを使う時が来るなんて、思っていなかったわ……)
根菜の皮をむきながら、リエナはこのナイフを手に入れた時のことを思い出していた。
旅が始まってしばらくが経ち、料理担当のリエナがかなりの腕前になった頃に、ある街で購入したのである。ルークと二人で訪れた調理器具の店で、彼が選んでくれたものだった。それ以来、旅が終わるまでリエナはこのナイフで料理を作り続けたのである。
ルークはもちろんアーサーも、リエナの手料理をとても喜んでくれていた。男二人はまったく料理ができず、野宿の時はずっと味気ない食事が続いていたから、余計にありがたさが身に沁みたらしい。時にはルークばかりが食べ過ぎるとアーサーから文句が出るほどだった。それほどリエナの作るあたたかい料理は疲れた身体を癒し、明日への英気を養ってくれたのである。
***
台所に入って来たルークがうれしそうな声をあげた。
「いい匂いだ」
「ちょうどできたところよ」
今朝の献立はパンとジャムに果物、燻製肉と根菜のスープである。まだ新しい家に慣れていないのと、昨日村の女たちが届けてくれた保存食がたっぷりあるので、簡単に済ませることにしたのだ。
二人揃って食卓につき、ルークは早速スープを口に運んだ。
「うまい。やっぱりお前の手料理が最高だ」
満面の笑みでルークが言った。
「本当においしい? お料理をするのは旅が終わって以来だから……」
心配そうなリエナに、ルークはスープを口に運ぶ手を止めずに言う。
「俺が嘘を言うと思うか? 全然腕は落ちてないぜ。本当にうまい」
瞬く間に平らげ、お代わりをもらおうとしたルークが顔をあげると、リエナと真正面から視線が合った。リエナは自分の朝食にも手をつけず、ルークを見つめていたのである。
「あなたのためにまたお料理を作れるなんて……」
見れば、リエナの菫色の瞳にわずかに涙が浮かんでいる。新妻のいじらしさに、ルークも胸が熱くなる。ルークが言葉をかける前に、リエナは慌てて席を立とうとした。
「あ、ごめんなさい。お代わりね」
「これから毎日、リエナの手料理が食えるのは俺もうれしいぜ。――お前も冷めないうちに食えよ」
「……ええ」
リエナはそっと指先で涙を拭うと、にっこりと微笑んだ。
***
朝食の後片付けが終わったころ、エイミが様子を見にやって来た。
「おはよう、よく眠れたかい?」
「おはようございます。おかげさまで、よく眠れましたわ」
「それならよかった。――おや、今日はまた感じが違うねえ」
エイミがリエナの服を見て言った。
「そうか、昨日まで着てたのは魔法使いさんのローブだったんだねえ」
横でルークが声をかけた。
「もし誰か怪我したときには、遠慮なく言ってくれよ。こいつの呪文はよく効くぜ」
「ルーク、あんたみたいな剣で戦う男には、リエナちゃんみたいな娘がぴったりってわけか。世の中、うまくできてるねえ」
エイミも感心した風に笑ったあと、大事なことを思い出したようにつけ加えた。
「そうそう、これから洗濯場に行くからリエナちゃんも一緒に連れてってあげようと思ってたんだ。リエナちゃん、洗濯したことあるの?」
「はい、大丈夫です。旅の間はしていましたから」
「じゃあ洗濯物持っておいで。盥は湯殿にあったはずだよ。石鹸は洗濯場に置いてあるからね」
エイミとリエナが連れ立って出かけた後、ルークが荷物を片づけようとし始めたところで、今度はジェイクがやって来た。
「よう、ルーク。何か困ったことがあったらいつでも遠慮なく言ってくれ。ちょっと家の中に入るぜ。昨日見たら、何箇所か修理した方がいい所があったから直してやるよ」
「ありがとうよ。俺も何か手伝うことはあるか?」
「今日のところはまだいいぜ。とにかく荷物も片づけて、落ち着くのが先だ。リエナちゃんはどうだい? さっき、うちのやつが洗濯場に連れていくって言ってたけど、あんまり無理させねえほうがいいぞ。昨日はずいぶん疲れたんじゃないか?」
「ああ、気が張ってるから気づいてないみたいだけど、疲れてるはずだ。じゃあ、遠慮なくそうさせてもらうぜ。リエナが帰ったら、少し横にならせたいし」
「そうか。じゃあなるべくゆっくりと休ませてやんな」
「ありがとうよ。俺からも無理しないように言っておくぜ」
やがてジェイクは家の修理を済ませて帰って行き、しばらくしてリエナが洗濯物を入れた盥を抱えて帰って来た。
「ただいま、ルーク」
「おかえり。俺の分まで洗濯頼んで悪かったな」
「あら、これからはわたくしの仕事よ。だって……」
ここでリエナはちょっとはにかんだ。ルークにはもちろんリエナの言いたいことはわかっている。リエナの手から盥を受け取って床に置くと、返事の代わりに思い切り抱きしめて言った。
「じゃあ、干すのは俺も手伝うぜ」
二人で外に出た。今日もよく晴れている。高く澄んだ秋の空に、うっすらとひつじ雲が浮かんでいた。これなら気持ちよく乾きそうだ。
ルークは家の横の木に縄を張ってやる。その後にリエナが干していった。こういった家事でも二人で協力してするのは楽しいものである。ルークは眩しいほどの笑顔を見せるリエナに見惚れている。
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