旅路の果てに
第8章 1
月の美しい秋の一夜、薄明かりの中に、リエナの裸身がほの白く浮かんでいる。けだるげに横たわり、長い睫毛に縁どられた瞳はうっとりと閉じられている。
ルークはリエナのあまりの美しさに、眼を離すことができないでいる。
長い長い間、求め続け、ようやく己のものとなった、狂おしいほどに愛おしい、ただ一人の女。
そのリエナが、ここ数日、自らの腕のなかで明らかな変化を遂げている。つい先ほどまでの、濃密な記憶――ルークはそれを思い返さずにはいられない。
恥じらいながらも時折見せる、切なげに眉根を寄せる表情。耐え切れぬように自分に縋り付き、華奢な肢体で懸命に応えようとする姿。抑えても抑えきれない、声。
それらのすべてに、ルークは虜になっていた。何もかもが、たまらなかった。
雪をも欺くほどの白い肌は今、紅をほんのひとはけ刷いたかのように染まっている。絹のような肌に散るのは、いくつもの紅の花びら――リエナが自分だけのものである証。
ルークは自らが咲かせたそれらを凝視していた。
手を伸ばし、花びらの一つに触れる。
かすかなため息とともに、睫毛が揺れた。半ば開かれた菫色の瞳を、深い青の瞳が捉える。うるみを帯びた瞳のなまめかしさに耐え切れず、ルークはリエナを覆いかぶさるように抱きすくめ、唇をふさいだ。
柔らかな唇と舌を味わい尽くし、熱い唇は新たに花を散らす場所を求め、彷徨う。
再びリエナの唇から、甘い喘ぎが零れ落ち始めた。
***
リエナはルークの身体の下で、ぐったりとしていた。息が荒い。白い豊かな乳房が、大きく上下に動いている。
「リエナ? どうした、大丈夫か?」
「ルーク、わたくし……」
「身体がつらかったか? 悪かった。俺が……」
「……え?」
リエナは何故ルークが謝るのか、わからない。
「いや、無理させたかと、思って……」
「ううん、そんなこと……ないわ」
そう答えても、ルークは心配そうな表情のままだった。
リエナは湯殿に行こうとしたが、ふらついて起き上れない。ルークは慌てて抱き止め、そっともう一度横たえた。
「風呂なら俺が支度してくる。待ってろ」
ルークが支度を終えて戻った時、リエナはまだだるそうだった。
「やっぱり、無理させたか。……すまない」
「ルーク……、謝らないで。だって、わたくしは……」
リエナは続きの言葉を言いよどむ。ルークはそれもリエナが自分に心配をかけまいとしてだと解釈していた。
「わかった。……とにかく、これからは気をつけるから」
ルークはリエナの言葉を遮るように、有無を言わせず抱き上げると湯殿に連れて行った。そのまま二人でちいさな浴槽に浸かる。浴槽の中でリエナはルークの膝の上で抱かれたまま、じっと眼をつむっていた。
風呂からあがるとリエナは間もなく寝息を立てはじめた。ルークはリエナの寝顔を見つめながら自責の念にとらわれていた。
(リエナには悪いことをした。この村に来てから少しは良くなったとはいえ、こいつの体調はまだとても本調子とは言えない。俺が自制心を失ったばかりに、リエナに負担をかけた。これからはもっと気遣って、抑えてやらないと……)
***
翌朝、リエナはいつもと同じ時刻に起きて、朝食を整えた。その間に裏庭で剣の稽古を済ませたルークも家に戻り、ともに朝食の席に着く。
たっぷりのあたたかい食事を前に、ルークはいつも通りの食欲を見せていた。けれど、リエナは明らかに食が進んでいない。心配したルークが声をかけた。
「どうした? さっきから全然食ってないぞ」
「そう? いつも通りにいただいているわよ」
リエナはそう言うけれど、わずかしか盛っていない自分の皿の料理にもほとんど手をつけていない。
食事が終わり、後片付けのために席を立ったリエナは、やはりどこかだるそうだった。
「無理するな。今日は家でゆっくり休んでた方がいい」
ルークも皿を運ぶのを手伝いながら言ったが、リエナは笑顔で見上げてきた。
「心配かけてごめんなさい。すこし疲れているだけよ」
そのまま午前中は洗濯や掃除などの家事をこなしていたが、やはり体調がすぐれないらしく、明らかにつらそうにしている。
ルークがリエナを抱き寄せて、額に手のひらを当てる。
「おい、熱あるぞ」
「たいしたことはないから大丈夫よ」
「お前のたいしたことない、は当てにならんぞ」
「わかったわ。じゃあ、少しだけ横にならせてもらってもいい?」
「少しと言わずに、ゆっくり休むんだ」
ルークはリエナを抱き上げた。
「自分で歩けるわよ」
「細かいことは気にするな。俺がこうしたいからしてる」
リエナが返事をする間もなく、寝台に寝かされた。やはり疲れのせいか、リエナはすぐ眠りに落ちた。ルークは寝台の隣に椅子を持ってきて座る。
寝顔を見つめるうち、ルークは再び、昨夜の甘い記憶とともに、後悔の念を抱かざるを得なかった。
***
リエナが眼を覚ました時、まだ熱は下がっていないものの、気分はだいぶ良くなっていた。簡単ながら夕食も作り、その後も普段と変わりなく過ごした。
そうは言っても、リエナの熱はまだ続いている。今夜はいつもよりも早めに床に就くことにする。
床の中でルークはそっとリエナを抱きしめ、くちづける。
「おやすみ」
そう言いつつ、ルークはリエナを見つめたまま物言いたげな顔をしている。
「――ルーク、どうかしたの?」
リエナの問いに、ルークは一瞬ためらったが口を開いた。
「お前が熱を出したのは……」
「熱ならもう大丈夫よ。今日はゆっくりとさせてもらったし、明日には下がっていると思うわ」
「いやそうじゃなくて、その……熱を出した原因は、昨夜の、……あれのせいなのか?」
「昨夜?」
とっさに何を言われているのかわからず、リエナは聞き返していた。けれど、すぐにルークの言葉の意味を覚って、みるみる頬を染める。
それ以上何も言えずにいるリエナに、ルークは再び謝罪した。
「……やっぱりそうだよな。悪かった」
「……違うわ」
ルークがまだ昨夜の一件について拘っていることを知って、リエナは慌てて否定した。
「いや、だって……」
「お願いだから、謝らないで。昨日もそう言ったはずよ」
ルークは明らかに誤解している。リエナはせめてそれだけでもわかって欲しいと、昨夜と同じ台詞を繰り返した。
「だが……」
ルークは言葉に詰まり、リエナも言葉が続かなかった。二人の間に、どこか気まずい空気が漂う。しばしの沈黙の後、ようようルークが口を開いた。
「とにかく、無理だけはするな。それから……身体がつらかったら、遠慮なく言ってくれ。――俺もできるだけ、お前の負担にならないよう心がけるから」
***
リエナの熱は、翌日には下がっていた。
しかしそれ以来、ルークのリエナへの態度が微妙に変わっていった。まるで壊れ物を扱うように触れるようになったのだ。ただ、今までもその傾向はあったし、リエナの体調を考えてのことではあるが、それがますます強くなっているのである。
リエナも、ルークの変化に薄々気づき始めていた。
(もしかしたら、あの夜のことをルークが気にしているから……? わたくしの……、せいね……)
ルークと自分とでは体力に差がありすぎる。最初から分かり切っていることだけれど、ルークの想いに応えきれない自分がもどかしい。
あの時、謝るルークに言いたくても言えなかった言葉がよみがえる。
(わたくしには、歓びしかなかったのよ。愛されて満たされて、幸せ……だったわ……)
こんなことを言っては、はしたない……その思いが邪魔をして言えなかったのに、ルークは違う意味に――心配をかけまいと無理をしていると、取ってしまったのだ。それはわかっている。だからと言って、今更、どんな顔をして言えばいいというのか。
(あの時、せめてわたくしの気持ちを伝えることができていたら、ルークに余計な心配を掛けなくて済んだのに……)
そう思うのと同時に、何故だか心のどこかにほんのわずか、冷たい風が吹いた気がした。
思わず身体を振るわせ、知らず知らずのうちにリエナは、ごくちいさな――トランに来てから初めての溜め息を漏らしていた。
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