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聖なる夜のちいさな奇跡 −3−
街の人たちが帰り支度を始めた。ルークとリエナも預けておいた外套を受け取り、もう一人の仲間を眼で探したが、目立つはずのアーサーの姿がどこにも見当たらない。
大方、先に宿に帰ったんだろう、アーサーのことだから何の心配もいらない、そう考えたルークはそのままリエナと二人で宿に戻ることに決めた。
街の人々は次々と帰り支度を済ませ、広間を後にしていった。二人も外套を纏い、教会の外に出る。いつの間にか街は雪景色に変わっていた。けれど既に雪はやみ、空にはおぼろに淡く光る月が姿を見せている。肌を刺すような寒気が、ダンスの余韻で火照った頬にはかえって心地よい。
ルークとリエナも家路を急ぐ街の人たちに混じり、宿への道を歩いていた。いつもと同じように、離れたまま、並んで歩く。
さっきまで、自分の腕でしっかりと抱きしめていたのに、もう今はリエナに触れることすら許されない。ルークは、その事実がたまらなくつらかった。
周りでは街の人達が祭りの余韻に浸りながら、賑やかに笑いさざめいているというのに、二人は教会を出てからずっと、ひとことも言葉を発せられないでいる。
道の角を曲ろうとした時、リエナがなにかにつまづきそうになった。ルークはリエナを咄嗟に支え、手を取った。
「大丈夫か?」
「ごめんなさい、雪に……」
暗いうえに足元が悪く、積もった雪にリエナは足を取られそうになったのである。
「――ほら、気をつけろ」
リエナが支えを必要としなくなっても、ルークは手を離そうとしなかった。思わず、リエナの頬が熱くなる。
「ルーク?」
「このまま手を引いていってやるよ。お前も、転んで怪我したくないだろ?」
それだけ言うと、リエナの答えを待たず、ルークは再び歩き出した。
リエナは、しっかりと繋がれた手から、心地よいものが流れ込んでくるのを感じていた。凍えるような寒気の中、ルークの大きな手のぬくもりが、自分をあたたかく包み込んでくれている。
一度は醒めたはずの、夢の続きが、始まった。
寄り添ってゆっくりと歩く二人に、パーティ帰りの街の人々は、さりげなく祝福の視線を送りながら、足早に追い越していく。
その後も、ルークとリエナの間で会話が交わされることはなかった。それでも、繋いだ手から、言葉など必要としない何かが遣り取りされている。
いくらゆっくり歩いていても、宿が近づいてくるのは避けられない。二人の足の歩みは、ますます遅くなっていく。
それでも、とうとう宿の前に着いてしまった。見上げると、二階の部屋の灯りが一つだけついている。やはり、アーサーは一人で先に帰っていたらしい。
もうリエナの手を引く必要はない。それでもルークは、繋いだ手を離す気にはなれず、反対の手で玄関の扉を開けた。
雪明かりだけが射し込む薄暗い帳場には誰もいなかった。パーティに出かける時、今夜の宿泊客はルーク達だけだと言っていたから、三人の帰りが遅くなるのを見越して、いつもより早仕舞いしたのだろう。
もうすぐ、夢が終わりを告げる。その、残りわずかの時を惜しむかのように、二人で、階段をゆっくりと、一段ずつ、上がっていった。
二階の部屋の扉が並んだ廊下は、しんと静まり返っていた。そこに、二人の靴音だけが、虚ろに響く。
ついに、リエナの部屋の扉の前に着いてしまった。それでもルークは、どうしてもリエナの手を離したくなかった。
少しでもその時を先に延ばすため、手を繋いだまま、扉を開ける。
「リエナ……」
声をかけられてリエナはルークの方に視線を移したものの、顔をまともに見られず、すぐ下を向いてしまう。
「……俺、今夜お前と踊れて……その……、楽しかったから。……おやすみ」
ずっとうつむいていたリエナが顔を上げた。灯りのない薄闇の中でも、彼女のなめらかな頬が薄紅に染まっているのが、ルークにもはっきりとわかった。
「わたくしもよ……、おやすみなさい」
リエナは消え入りそうなほどちいさな声でそう答える。夢は今度こそ終わりを告げる時が来た。ルークはずっと繋いでいた手を離し、リエナは部屋の扉を閉めた。
********
「なんだ、ルークか。帰ってきたんだ」
ルークが自分の二人部屋に戻ると、アーサーは既に湯を使い、くつろいだ姿で机に向かって書き物をしているところだった。
「帰ってくるのはあたりまえだろうが」
ルークの返事はそっけない。
「いや、今夜は……」
「今夜はなんだって?」
深い青の瞳が剣呑に光る。
「これ以上言うのはやめとくよ。――僕もまだ生命は惜しい」
「俺だってお前みたいなやつ、間違っても敵に回したくはねえよ。――風呂入ってくる」
ルークは着替えを取り出すと、部屋についている湯殿へ姿を消した。
アーサーは、ルークがこの時間に帰ってきたということは、恐らく最後までパーティにいたのだろうと考えた。自分が帰る時には既にリエナといい雰囲気になっていたし、今もどこか心ここにあらず、といった風情である。とはいってもルークのことであるから、リエナとの仲が進展したかどうかは怪しいが、楽しんできたことだけは確実らしい。アーサーは口元に笑みを浮かべると、再び机に向かい、ペンを動かし始めた。
ルークが湯殿から濡れた髪を拭きつつ姿を現した時も、アーサーはまだ机に向かっていた。
ここでルークは、アーサーが自分が帰ってきた時から、ずっと書き物をしていたのに気がついた。けれど、机の上に広げているのは、日課の旅の記録をつけている見慣れた帳面とは違っている。
「アーサー、お前、何書いてんだ?」
「いや、別に。……お前には関係ないだろう?」
そう言うと、そそくさと今まで熱心に書き綴っていた紙を隠す。いつも冷静なアーサーがこんな慌てた様子を見せるのは珍しい。ルークの口の端がわずかに上がる。
「別に隠さなくてもいいぜ。――なるほど。彼女に手紙を書いてたんだな?」
リエナと踊ったせいか、ルークにしては珍しく冴えていた。更に、いつもリエナとのことをアーサーにからかわれているから、ここぞとばかりに追求する。
「いいよな、お前は。幼馴染みで相思相愛の婚約者が、サマルトリアで待っててくれるんだから。お前のことだから、俺やリエナが知らないところで、しょっちゅう手紙書いてんじゃないのか?」
「お前が言うほど書けないよ。届けてもらうのだって、簡単じゃないんだから」
慌てて弁解するアーサーに、ルークは人の悪い笑みを浮かべて追い打ちをかける。
「そうか? 俺が知らない、いろいろな秘密の方法を持ってそうだぜ? ――ああ、移動の呪文を使えば、自分で配達もできるな」
「まさか……」
半ば冗談のつもりで言ったのだが、アーサーの方は、なんとなく様子がおかしい。
「図星だったか?」
アーサーは無言のままである。ルークはそんな親友を横目で見据えながら、ぼそっとつぶやいた。
「考えてみれば、お前だってさびしいわけだ。――ずっと離れ離れだもんな」
「まあね。特に今夜みたいに、誰かさんたちにさんざん見せつけられたら、当然そうなるよね」
アーサーの声にいつもの冷静さが戻っている。さっき、珍しく自分の方がルークにからかわれたのだ。反撃する絶好の機会を逃す手はない。
「さんざん見せつけたってどういうことだ? ――そうだ、思い出した。お前、なんで先に帰るんだ!? 探したんだぜ?」
急に悪くなった形勢を取り戻すべく、ルークはアーサーに食ってかかった。けれどこういった舌戦においては、ルークはアーサーの敵ではない。実際、アーサーはルークの剣幕にもまったく動じず、口元に意味ありげな笑みを浮かべて言った。
「せっかく気を利かせてあげたのに、その言い草はないんじゃないか? 感謝されても、怨まれる筋合いはないと思うけど」
「だから……!」
「あ、もしかして、もっと見せつけたかったのに、僕が先に帰ったんで怒ってるとか?」
そう言う若草色の瞳は、悪戯っぽく光っている。
「どうしてそうなる!? 先に帰るなら帰ると、ひとこと言ってけ!」
「あんなに幸せそうに踊ってる途中で声をかけるほど、野暮じゃないつもりだけど?」
「幸せそうって……、どういう意味だよ」
「そのまんまの意味しかないよ。あんな長い時間、リエナを抱きしめて踊れたんだから、幸せ以外の何物でもないはずだろう?」
曲調が変わったあと、抱き合って踊ったところもしっかり見られていたわけである。それに気づき、ルークはほとんどやけくそで叫んでいた。
「あれは出ようと思っても出られなかったんだ!」
必死に弁解するルークに、アーサーは笑いを隠すことができなかった。
「はいはい、そういうことにしておいてあげるから、素直に幸せだったって言えばいいんだよ。でないと……」
「でないと、なんだよ」
「明日、リエナに言っておくよ。ルークは踊りの輪から出るに出られなかったから仕方なく踊った。リエナは嫌だっただろうに無理強いして悪いことをしたって」
「お前、本気か?」
再び、深い青の瞳が剣呑に光る。
「もちろん」
対する若草色の瞳の光は穏やかなままである。
「お前がそんなこと言ったら、俺の言葉が嘘になるだろ……!」
「嘘?」
こう問い返すのと同時に、アーサーの口元に再び笑みが浮かぶ。
「ルーク、お前リエナに何を言ったんだ? もしかして……?」
アーサーの瞳が期待に輝くが、ルークはあっさり否定した。
「お前の考えてるようなことじゃねえよ。ただ……」
「ただ?」
「……一緒に踊れて、楽しかったって言ったんだ」
必死に照れくささを押し隠しているらしい。あらぬ方を見ながら、ルークはぼそりと言った。
「なんだ。でも、素直にそう言えただけでも、お前にしちゃ、上出来だね」
アーサーは少々拍子抜けしたようでもあるが、それでも以前から進歩したには違いない。口元に笑みを浮かべたまま、両手を上げた。
「――わかったよ。僕のさっきの台詞は撤回する。これでいいね?」
「わかったんなら、いい! もう俺は寝るからな」
ルークはすぐに寝台にもぐりこむと、毛布を引きかぶって背中を向けた。
寝台に横になった後もずっと、ルークは今夜のパーティを反芻していた。思いがけず、リエナとあんなふうに踊れたことがうれしかった。今夜だけは、ルークにもリエナがそれを決して嫌がっていなかったことがわかっているから尚更だ。今もまだ、ずっと抱きしめていたリエナの華奢な身体の感触が、自分の腕にはっきりと残っている。それを思い出して、一気に顔に血が昇る。そればかりか、パーティの帰りに雪道で足を取られそうになったリエナの手を取って支えたあと、そのままずっと部屋の前まで手を繋いで歩いてきたのである。
(明日の朝、リエナの顔をまともに見られるか……?)
ルークはそれが急に心配になっていた。同時に、何故リエナの部屋の前で、彼女を最後にもう一度だけ抱きしめておかなかったのか、後悔の気持ちが心をよぎる。
(俺、なに馬鹿なこと考えてるんだ?)
不埒な考えを振り払うように、寝返りを打つ。
しばらくは悶々としていたものの、久し振りに踊ったダンスのせいで、身体は心地よい疲れを覚えている。やがて一つ大きな欠伸をすると、深い眠りに落ちていった。
********
(わたくし、なんてはしたないことをしてしまったのかしら……)
リエナは寝台の端に腰かけると、そっと溜め息をついた。いくらお祭り騒ぎのなかでとはいえ、あんな大勢の人々の前で、ルークと抱き合って踊ったのである。
今までももちろん、リエナは男と二人で踊ったことは何度もある。けれど、正式な作法に則ってのダンスであるから、あんなに近づいたことなど一度もない。
思い出すだけで、自分の頬が染まっていくのがはっきりとわかった。
(でも、わたくしは……幸せ、だったわ)
リエナは眼を閉じた。その瞬間、ルークが意を決したように伸ばしてきた腕が脳裏によみがえる。
(うれしかったわ。ルークに、そうして欲しかったから……)
そう感じている自分におどろき、胸が熱くなる。心と身体の両方に、今もなお、ルークに抱きしめられたぬくもりが残っている。
心から愛する人の腕のなかで踊った、夢のようなひととき。眼を閉じたまま、ゆったりとしたあたたかな波間にたゆたうように身をゆだねる自分を、包み込むように抱きしめて支えてくれていた。自分にとって唯一の、心から安らげる場所。限りなく力強く、限りなくあたたかな、ルークの腕のなか。
リエナの唇から甘い溜め息が漏れる。
思いがけず、醒めてしまったはずの夢の続きが見られたのも、たまらなくうれしかった。しっかりと繋いでくれたルークの手から感じた、あたたかな流れ。それを思い出しながら、自分の手をじっと見つめ続けていた。
もう夜も更けた。そろそろ、明日のために休んだ方がいい時刻である。
ゆっくりと丁寧に湯を使い、寝台に横になる。リエナはうっとりと眼を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、自分を抱きしめたままじっと見つめてくる、真摯な光をたたえた、深い青の瞳。
幸せな記憶に包まれて眠りに落ちる寸前、リエナは心のなかでつぶやいた。
――聖なる夜に起こった、ちいさな奇跡、だったのかもしれないわ。
********
翌朝、ルークとアーサーが眼を覚ました時には、既に日が高く昇っていた。慌てて出発の支度を整えると、いつも通り、ルークがリエナを部屋まで迎えに行く。
リエナの部屋の扉の前に立った瞬間、ルークの脳裏に昨夜の記憶がありありとよみがえった。それを振り払うように、一つ深呼吸をしてから、ノックする。扉を開けたリエナは、既に支度を終えていた。
「おはよう。眠れたか?」
何とか、いつもの口調で朝の挨拶をすることができた。
「おはよう、ルーク。おかげさまでよく眠れたわ」
リエナの方もいつもの笑顔を見せてくれたが、次の瞬間、深い青の瞳と視線が合い、わずかに眼元を染めた。ルークもリエナの笑顔が眩しくて、思わず眼を逸らしていた。照れを隠すかのように、わざとぶっきらぼうに声をかける。
「支度はできてるな。出発するぞ」
部屋で待っていたアーサーと三人で、階段を下りる。今朝の宿の帳場に居たのは、女将だった。
「お世話になりました。――今朝はご主人じゃないんですね」
鍵を返しながら、アーサーが笑顔で問いかけた。
「ええ。亭主はまだ寝てますよ。あたしと宿の帳場を交替しないといけなくて、行くのが遅くなった分、最後までパーティにいましたからね」
「そうでしたか。それにしても盛大なパーティでしたね」
「すごいでしょう? 街のみんなもそりゃあ楽しみにしてるんですよ」
「思いがけず、僕達も楽しませてもらいました」
このアーサーの言葉に、女将も人の好い笑顔を見せた。
「それならよかったですよ。道中、お気をつけて」
宿を出ると、決して早い時間ではないのに、街全体がひっそりと静まり返っている。人々は楽しい昨夜の余韻を残したまま、まだ眠りについているのだろう。
――奇跡の夜は終わった。三人に再び戦いの日々が戻る。
( 終 )
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