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旅路の果てに
第11章 7


 二ヶ月後、ラビばあさんは再びローレシアの城下町を訪れていた。古くからの馴染みの薬屋の依頼で調合した薬を納品するためである。

 既に夏も過ぎようとしていた。夏の暑さの厳しいローレシアも朝夕に吹く涼しい風に、間もなく訪れる秋の気配を感じられるようになってきた。

 ばあさんは無表情で歩いている。これから薬屋で用件を済ませたら、早々にトランに戻るつもりでいる。これまでなら、宿に一泊するのが常だった。トランや近郊では手に入れられない薬草学の専門書や器具類などを購入するためである。

 また、ばあさんにとって、ローレシアはつらくはあっても同時に懐かしい土地でもある。住んでいたのはほんの二年足らずだったが、決して忘れることなどできはしない。だから、密かに思い出の場所を訪ね、今は亡きある貴婦人を偲ぶのだ。

 しかし、今回の用件が無事に終わったら当分この地を訪れることはしないと思い決めていた。短い間にあまりにも衝撃的な事柄が起こり続けたうえに、ずっと難しい調合に専念していたから、流石に心身ともに疲れ切っていた。薬さえ納めてしまえば、これで義務は果たしたことになる。

 昨年の冬から治療を続けてきたリエナも、幸い病状は安定している。トランに初雪が降るころには完治するだろう。後は冬の間、体調を崩した時のために、多めに薬草を渡しておけば会う必要もない。ようやくできた話し相手と距離を取るのは寂しくもあるが、今はとにかく一人になりたかった。この時期の村は冬支度でみな忙しいし、もとから社交的というわけでもないから、ばあさんが姿を見せなくとも、不審に思われることはない。

 トランはあと二月もすれば、雪深い冬の季節を迎える。来年の春まで、自宅で誰にも合わず、好きな書物や香草茶だけを友に引き籠るつもりでいる。

********

 薬屋に到着したラビばあさんは、いつも通りに馴染みの店員に出迎えられ、来客用の部屋で店主を待った。

 出された茶をすすっているうちに、店主が大きな身体をゆすりながら入ってくる。

「よう、ラビばあさん。――もう薬ができたのか?」

 ばあさんの目の前には、大きな包みが置かれている。

「そうじゃ。できる限り早くとの注文だと言うたのはおまえさんじゃなかったかの?」

「もちろん、言ったのは俺だ。早速見せてくれるか?」

 ばあさんはおもむろに頷くと、手にしていた茶碗を置き、代わりに包みを引き寄せてほどいた。中からは大振りの箱と、別にもう一つ、ちいさな箱がある。大きい方の箱の蓋を開けると、ほのかに薬草に匂いが漂った。中には、更にいくつも小箱が入っており、それぞれに薬が整然と並べられている。

「いいじゃねえか。――流石は、ラビばあさんだ」

 店主は感心したように頷いた。

「ひとまず、依頼された薬は全部揃っておるぞ」

 そう言いながら、もう一つのちいさな箱を最初に店主に渡した。

「こっちに試用の分を入れておいた。まずおまえさんの店で試してくれんかの」

「わかった」

 ばあさんは小箱の中の薬を一つ一つ指さしながら、真剣な表情で店主に説明を始めた。

「これが、痛み止め。強さを変えて三種類ある。どれも長期連用しても身体に負担が少ない薬草じゃ。こっちが、炎症を抑える薬。これも三種類。詳しい病状がわからぬ故、すべて処方を変えてある。そして、最後に香草茶が二種類。どちらも鎮静と安眠の作用のあるものじゃ。殿方が喫するお茶ゆえ、両方とも甘味のないものを選んでおいたぞ」

 最後に、白い封筒を取り出した。これも店主に手渡す。

「それぞれの薬の処方箋じゃ。詳しい処方の内容と煎じ方や細かい留意点などは、こっちを参照しとくれ」

 店主は大きく頷いた。

「――助かるぜ。すぐに城の侍医様に使いをやることにする。ばあさん、感謝する」

 これでばあさんも大役を果たすことができた。肩の荷を下ろしたように、ほっとした表情に変わる。

「時に、ルーク様の御病状はその後、どうなのじゃ?」

「あれから特に発表はない。相変わらず、湖畔の離宮でご静養だ。お出かけにならないのも変わらねえ。王太子のご公務は、第二王子のアデル様が立派に務めていらっしゃる」

「……そうか。一度もお姿を見せてくださってはおらんのか」

「ああ。余程、お悪いのかもしれねえ」

 店主の言葉に、ばあさんの表情が曇った。もし、ルークが一度でも民の前に現してくれていれば、ばあさんの密かな懸念は否定されるのだが、やはり期待外れに終わったからだ。しかし、店主の方はそうは思わなかったらしい。

「ばあさんの気持ちは俺もわかるつもりだ。本来なら、今の隠者みたいな生活する必要なんかなかったんだからよ」

 古馴染みの店主は、ばあさんが何故ローレシアを離れたのかの詳しい事情を知っている数少ない人間である。店主も、ばあさんがそうせざるを得なかったことを承知していた。しかし、薬師としての腕をこのまま埋もれさせるのは、あまりにも惜しい――その思いから、ばあさんの調合した薬ならいつでも店に置く、具体的に誰の薬なのかは明かさず、昔からつきあいのある薬師に特別注文したことにするからと伝えておいたのだ。

 そう薬屋から声をかけてもらい、トランの村の裏山に貴重な薬草の自生地を見つけたことが、ローレシアを離れてからも薬を納め続けてきたきっかけだった。

 それでも、店主もばあさんが今どこに住んでいるかまでは知らないのだ。ばあさんはただ、貴重な薬草の自生地があり、研究に専念できる土地を見つけたから、そこに居を構えているとだけ伝えてある。店主もそれ以上は詮索せず、以来、二十年以上経った今も、こうして薬を通してつきあいが続いている。

 しかし、まさかルークのために薬を調合することになるとは、ばあさんも予想だにしなかった。運命の皮肉か、それともルビス様のお導きであるのか。ばあさんにもそれはわからない。

 ばあさんは静かに息を吐くと、店主に向かって軽く頭を下げた。

「……すまんの。気をつかわせたわい」

「それはこっちの台詞だ。ただ、ルーク様のための薬の調合を任せられるのは、ばあさんしかいない。だから、うちや他に付き合いのある薬師に頼まず、ばあさんが訪ねてきてくれるのをずっと待ってたんだ。それだけは、わかってくれるか?」

「ああ、わかっとるよ」

 しばらく、沈黙がその場を支配する。

 やがて、ばあさんが冷めた茶の残りをすすって、立ち上がった。

「邪魔したの」

「ああ」

 店主も立ち上がり、ばあさんを店先まで送ろうとした。――その時。

「旦那様! ああ、ラビさんもご一緒でしたか!」

 息を切らしながら、店員の一人が客間に転がるように入ってきた。

「一体、どうしたんだ。お前らしくもねえ」

 この店員は、長い間この店に務め、穏やかな人柄と豊富な知識で大手の顧客からも頼りにされている。滅多なことでは動揺を見せないから驚いたのだ。

「何でも、もうすぐローレシア城から重大な発表があるそうです」

「重大発表? 何なんだ」

「詳しいことはまだわかりません。つい先ほど、町の広場の掲示板にお触れが貼られました。もしかしたらルーク様のことではないかと。広場にいた人達がしきりにそう噂していましたから」

「ルーク様じゃと?」

 ばあさんは思わず口を挟んでいた。

「あ、はい。ご本復でローレシア城にお戻り遊ばされたのであればいいんですが……、それにしては様子が変なんです」

「詳しく話してくれんか」

「私もお得意様に薬をお届けに上がった帰りに偶然その場に居合わせたんですが、そのお触れを貼りに来た城の方のご様子が、いつもとは違うというか……やたらとぴりぴりしていて、とても何かを尋ねられる雰囲気じゃなかったんですよ」

 店主も唸った。

「……わけがわからねえ」

 ばあさんは荷物を抱え直すと店主と店員に向かって言った。

「わしは、城へ行く」

「わかった」

 店主は頷くと、傍らの店員に命じた。

「今日はこれで店じまいだ。俺達もすぐに出かけるぞ」

********

 その後すぐに、ラビばあさんと薬屋の一行が――結局ほとんどの店員も城に同行することになった――店を出た。

 足早にローレシア城に向かう途中、ばあさんは一言も口を利かなかった。

 一行が城に到着すると、既に大勢の民が駆けつけていた。みな、がやがやと噂をしながら発表の時を待っている。

 ――いよいよルーク様がお戻りになられた。

 ――いや、まだ御病状が安定しないから、更にご静養だろう。

 ――案外、とっくによくなってて、もしかしたらご婚約かもしれない。

 周囲の様々な噂話も、今のラビばあさんの耳には入ってこない。

 やがて、城からの伝達を担当する書記官が従者を連れて姿を現した。いつもと同じく、城の一角のバルコニーに立った。広場に合図のラッパが鳴り響く。

 つい今までざわついていた民が、水を打ったように静まり返る。

 書記官は、傍らの従者から一通の書状を受け取った。民が見守るなか、書記官の朗々たる声が響き渡る。

********


 ローレシア第一王子にして王太子であらせられる、ルーク・レオンハルト・アレフ・ローレシア殿下、昨夜、湖畔の離宮にて薨去。


********


 我が国の英雄であり、次代の国王の死――予想だにしない発表に、広場から音が消え去った。

 一瞬の間を置いて、あちらこちらから、民の声が上がる。そんなはずはないと叫ぶ声、泣き崩れる女、地面を叩いて慟哭する男。

 ラビばあさんはその場で崩おれた。慌てて店員の一人がささえてくれる。バルコニーでは続けて、書記官が死因や享年、国葬の日程なども告げられているが、もうラビばあさんの耳には入っていなかった。

 ――ルーク様が、薨去。

 ひたすら、この言葉だけが、頭の中にこだまする。

********

 それは、奇しくもルークが出奔してちょうど一年後のことだった。




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