次へ
                                                       戻る
                                                      目次へ
                                                     TOPへ

旅路の果てに
第12章 13


 その後まもなく、リエナは悪阻に悩まされるようになった。

 朝も普通に起きてはいるものの、かなりつらそうである。朝食の支度も変わりなくしているが、自分はほとんど食べない日が続いている。

「大丈夫か?」

 今朝も朝食の席で、ルークが心配そうに尋ねた。

「ええ」

 そう答えるリエナの表情は明るい。けれどそれとは裏腹に、目の前にあるのは、あたたかい香草茶――先日ラビばあさんが持ってきてくれたもの――だけである。ずっと吐き気がおさまらず、このお茶か、比較的調子のいいときにも温かいスープや甘いものをすこし口にするのがやっとだったのだ。吐き気以外にも、いつもよりもずっと疲れやすくなってしまい、横になっている時間が増えている。

 食事をまともに取れないせいで、健康を取り戻してようやくすこしふっくらして来たのに、また痩せてしまっている。

「だが、全然食ってないじゃないか」

「あら、今はそういう時期だもの」

「この飯食い終わったらばあさんを呼んでくるから、横になってるんだぞ」

「もう、また? 昨日もおばあちゃんに叱られたばかりじゃないの」

 リエナの口調はやや呆れ気味になっている。

「ばあさんからは、何かあったら遠慮せず呼びに来いって言われてるのを忘れたのか?」

 ルークは心配でたまらないのである。実のところ、ルークがここまでリエナを心配するのには理由がある。実母である王太子妃テレサは、ルークを出産した直後に亡くなっているからだった。リエナも当然その事実を知っているだけに、ルークの気持ちもよくわかる。微笑みながら、やんわりと窘めた。

「ねえ、ルーク。わたくしの悪阻はそうひどいものではないのよ。おばあちゃんにも、お腹の赤ちゃんは順調に育っているって言ってもらえたわ。確かに悪阻はあるけれど、みんな同じよ。だから、心配しないでとは言わないし、あなたが気遣ってくれるのもとてもうれしいけれど……ね、お願いだから心配し過ぎないで。しばらくしたら落ち着くのだし、今日はゆっくりとさせてもらうから……」

 リエナは繰り返しこう言ったが、ルークはどうしても不安を拭うことができないようだった。

********

「何じゃ、ルーク。お前さんの心配性がまた始まったのか」

 ラビばあさんはよっこらしょと立ち上がると、ルークを見上げた。皴深い顔には呆れた表情がありありと浮かんでいる。

「身重の妻の心配をして何が悪いんだ? それにリエナの悪阻が重いせいで、腹の子が育たなかったら大変だろうが」

 ルークが不機嫌に問い返した。

「腹の赤子が順調に育っておるのはわしが保証する。だいたいの、お前さんの心配性は常軌を逸しとるぞ。何事にも限度というものがあるじゃろうが」

 ばあさんの言う通りだった。リエナが身籠ってからというもの、今回だけでなく、ちょっとしたこと――食欲がない、だるそうにしていたり、微熱があったりといった、妊娠初期にはありがちなものにでも、過敏なほどに心配していたのである。そしてその都度、ルークはばあさんのところへ駆け込んだ。

 最初の2−3回こそ、ばあさんもすぐに来てくれた。けれど、熟練した産婆の目から見てもリエナの様子に異常なところはない。確かに悪阻が軽いともいえないが、この程度であれば珍しくないのだ。リエナ本人に話を聞いても、自分は大丈夫だと言っているのにルークの方が押し切って出かけてしまうらしい。

 ばあさんが呆れているのは本心であるが、同時に苦いものが心に浮かぶのを止められなかった。ルークの亡き母、テレサを思い出さざるを得なかったのである。テレサも悪阻がひどかった。それこそ、今のリエナとは比べ物にならないほどの状態が出産直前まで続いたのである。

 テレサはほぼ寝たきりで身体を起こすこともままならず、口にできるものもほんのわずかだった。妊娠初期の時期には特にひどく、無理をして口に入れても身体の方が受け付けてくれずに痩せていく一方だった。ばあさんも色々と工夫を重ね、ようやくわずかずつでも栄養を取れるようになり、テレサ自身の、なんとしてでも無事に出産したいとの強い意志もあって、ようやく臨月までこぎつけたのである。

 幸い、テレサがこの状態でも胎児の成長は極めて順調だったのだ。ばあさんも、産まれる子は健康に恵まれているだろうとは予測していた。実際、目の前に立っているルークを見れば、それが正しかったことは一目瞭然である。

 ばあさんは気を取り直して、ルークに向かって言った。

「腹の赤子が元気なら、勝手に母親から必要な栄養を持って行くんじゃ。だいたい、まだ腹の赤子はうんとちいさい。今の時期はそうたくさんの栄養も必要ないから、母親は口にできるものだけでええ。順調ならもう一月か、長くても二月もすれば悪阻も落ち着く。そうすれば、今度はお前さんが驚くほどに食べられるようになるから、心配無用じゃ」

 ばあさんもこのように、ルークへよくよく言って聞かせているのであるが、肝心のルークの方が聞く耳を持たないのである。

「ばあさんを信用してないわけじゃない。だがな、あれで大丈夫だと言われても……」

 まだ何か言いたげなルークの言葉を敢えて遮り、ばあさんはきっぱりと言い切った。

「とにかく、今日のところは家に戻るんじゃ。そんなに心配なら、こんなところででわしと無駄話なんぞしとらんと、リエナちゃんのそばにいてやったらどうかの?」

 ここまで言われてしまうと、流石のルークもぐうの音も出ない。追い返された格好ではあるが、渋々ばあさんの家を後にした。

********

 家に戻ると、玄関先で出迎えてくれたのはリエナではなく、村のまとめ役の妻であるエイミだった。

「お帰り、ルーク」

 いつもと同じ人の好い笑顔で、エイミはルークを見上げた。

「来てくれてたのか」

「スープを持ってきたからね。台所に置いといたから、後であっためておくれ。それとジャムもあるから、食べられるようならリエナちゃんにも食べてもらって」

「いつも助かる。ありがとうよ」

「御礼なんていいんだよ。とにかく今は大事にしてないと」

 エイミはこうして、しょっちゅう料理を持って来てくれたり、家事を手伝ってくれたりと、何かと気を配ってくれている。今日は雪も止んでいるから、様子を見に来てくれたのである。

「ラビばあさんのところへ行ってたんだって?」

「ああ、だが……」

 珍しく語尾を濁すルークに、エイミが言う。

「追い返されて来たってところだろ?」

「……ああ」

 エイミもすこしばかり呆れたふうに、溜め息をつきつつルークを見上げる。

「ばあさんの言う通りだよ。リエナちゃんの悪阻は大したことないとまでは言わないけど、特別ひどいわけじゃないから。みんな多かれ少なかれ、同じふうになるもんなんだよ。それに本当に危ない時にはどうなるのかは、ばあさんからも聞いてるよねえ?」

 ルークは無言で頷いた。リエナの妊娠がわかった翌日、二人揃ってばあさんから今後の注意点や過ごし方など、詳しい話を聞いている。

「ルークがそんなんじゃ、リエナちゃんもちっとも休めないよ。――あんただってもう父親なんだから、もっとどっしり構えてなさい」

「……わかった。ところでリエナは?」

「ちょうど眠ったとこ。このまま目が覚めるまで寝かせておいてあげるんだよ。じゃあ、あたしもこれで帰るから」

 そう言って、エイミは居間に置いてあった外套を着込むと、さっさと帰って行った。玄関まで見送ったルークは珍しく溜め息を一つついて、寝室に入っていく。

 ほの暗い寝室でリエナはよく眠っていた。透き通るほど白い頬に浮かぶ表情は穏やかな幸せに満ちている。妊娠がわかって以来、リエナは身体はつらそうにしていても、精神的にはずっと安定していた。それはルークにもよくわかる。あの地獄のようなムーンペタでの生活を思えば、今のつらさは身体的なものだけで、やがてはこのうえない大きな喜びにつながるのだから。

 しかし、ここにたどり着くまでは葛藤の連続だった。自ら捨てたとはいえ、公式ではまだリエナはムーンブルクの王女にして次期女王である事実は動かない。悩み抜き、一旦は諦め、それでも心の底からルークとの子を望んだのだ。そして、ようやく授かった我が子の誕生を心待ちにしている姿は、既に母親のものだった。

 ルークはしばらく寝顔を見つめていた。やがて起こさないように気をつけながら、そっと額にくちづけを落とした。




次へ
戻る
目次へ
TOPへ