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旅路の果てに
第13章 1


「チャールズは何をしておるのだ?」

 フェアモント公爵が傍らに立つ侍女頭に尋ねた。ムーンブルク筆頭公爵であるフェアモント家の本邸で、公爵は日課である午後のお茶を運ばせたところである。

「今はお客様がいらしております」

「客? 珍しいこともあったものだ。滅多にここには寄りつかない。たまに来たと思えば、親に挨拶もせず部屋に籠っておるとはな」

 公爵は乱暴に茶器を取り上げると一口すすった。チャールズ卿は公爵の二男で、ムーンブルク復興事業の総指揮を執っている。そのため、普段はムーンペタにある王家の離宮――崩壊した王城の代わりである――で、執務にあたっている。もともと成人後は独立して公爵家の別邸で過ごすのが常だったから、復興事業が本格的に始まった後は本邸に姿を見せるのが稀になっていた。

 公爵も当然のことながら、復興事業を担う重臣の一人としてムーンペタの離宮には赴いている。けれど、あまり重要な案件に携わる機会がないため、必然的に顔を合わせる機会が少なくなっているのである。

 もう一つの懸念事項である、リエナの捜索状況はまったく進展していないらしい。復興事業も次期女王の捜索も、どちらも最重要案件であるから自分へは逐一詳細に報告がなされるはずである。しかし、それが最近ではおざなりになっている気がして仕方ないのだ。そのせいか、公爵はずっと苛立っていた。

「まったく……、いつになれば……」

 公爵は慌てて口をつぐんだ。うっかり、リエナが行方不明であることを口走りそうになったのだ。公爵はちらりと傍らの侍女頭を見遣った。傍らに控える侍女頭は公爵の機嫌が悪いことは重々承知であるから、余計な口を利くこともなく控えている。もちろん、公爵の不機嫌の真の原因は知る由もないけれど。

 公爵が代わりの茶を命じようとしたその時突然、離れた場所で甲高い悲鳴が聞こえた。部屋の入り口にいた若い侍女らしい。

「何事だ、騒々しい!」

 すぐさま侍女頭をはじめ、数人の召使いたちが様子を見に行こうとしたその時、一人の若い娘が公爵の前に転がるように走り込んで来た。

「お前は何者だ!?」

 公爵は娘の尋常でない姿におののき、立ち上がって誰何した。卓上の茶器が耳障りな音を立てる。

「私は、トルベック公爵の長女、ジスレーヌと申します。どうか、お助けください……!」

 騒ぎを聞きつけた召使たちは、一様にジスレーヌと名乗った公爵令嬢の姿に目を疑い、声を失っている。いったい何が起こったのか、誰もが咄嗟に判断することができなくなっている。

 それほどに、彼女の姿は悲惨としか言いようがなかったのだ。

 全身、切り傷だらけだったのだ。しかも、ほとんど衣服らしい衣服すら身につけていない。肌着一枚で、元は白かったはずの布地は血に汚れ、しかもあちこちが破れていて既に肌着の体を成していない。本来隠されているはずの二の腕も太ももも、乳房すら半ば露わになっているのだ。

 ジスレーヌはチャールズ卿の客だった。話相手としてここに呼ばれ、訪問した時には豪奢なドレス身につけていたはずだが、それがどうしてこうなるのか。

 周囲の人間には理解しがたい出来事である。しかし、一人だけ例外がいた。他ならぬ、フェアモント公爵である。公爵だけが、何故この娘がこのような悲惨な姿になったのかの理由を知っていた。しかし、あまりに突然のことに、ジスレーヌに声をかけることすらできず、呆然と突っ立ったままである。

 このままでは大事になる。すぐに穏便にことを治め、金品なり何なりをつかませて引き取り願わなければならない。それは公爵にもわかっているのだが、どうしても身体が動かない。

 公爵はこれまで息子である卿が、どれだけ若く美しい令嬢を傷つけてきたかを知っている。しかし今まであればすべて、別邸での出来事のはずだった。まさか、この本邸で同じ所業に及ぶなど、予想だにしていない。筆頭公爵家の名誉を傷つけられた怒りと、虫けらのように人を傷つける息子への恐怖に捉えられ、何もできずにいるのだ。

 ジスレーヌも必死だった。慎み深いはずの公爵家の令嬢が我を失い、露わになった肌をろくに隠すことすらせず、公爵に詰め寄った。

「フェアモント公爵様、どうか……!」

 必死に懇願するジスレーヌを公爵は無視した。代わりに、側で硬直していた侍女頭に乱暴に命じた。

「すぐに着替えさせろ! いや、その前に回復の呪文だ。見た目は元通りに戻して、さっさと引き取り願わんか!」

 これを聞いたジスレーヌの顔色が変わった。

「そこまでおっしゃるのですか!? ご子息であるチャールズ卿が、どんなことをなさったのか、御存じないのですか!?」

 それでも公爵は無言である。ジスレーヌの悲惨な姿を目の当たりにした瞬間こそ、すぐに最善の策を採らなければと考えていた。けれど、本心では関わり合いになるなどまっぴらであるし、これ以上問題を大きくされても迷惑なだけだとしか考えていないのだ。事態を収拾しなければならない立場の公爵が、最初にその義務を放棄してしまっている。

 呆然自失の面々の中でようやく我に返った侍女頭が、慌ててジスレーヌの手を取ろうとしたが、振り払らわれた。ジスレーヌは背筋を伸ばし、きっとした目でフェアモント公爵を見据えた。

「よくわかりましたわ。私も落ちぶれたとはいえ、トルベック公爵家の一員です。このまま引き下がるわけには参りません。然るべきところに……」

「何をすると言うのだ!?」

 背後で声がした。その場にいる者すべてを凍てつかせるほどの、冷酷極まりない、声。

「チャールズ卿! どうして……眠らせたはず……」

 みなまで言わせず、激しい平手打ちの音が響き渡った。ジスレーヌは悲鳴とともに床に崩れ落ちた。

「生意気な娘だ。あれしきの呪文でこの私を眠らせたつもりか」

 チャールズ卿は冷め果てた目でジスレーヌを見下ろした。

「没落貴族の娘風情が、私に楯突くなど片腹痛いわ!」

 直後、酷薄な唇から詠唱が漏れる――火球の攻撃呪文である。これをまともに喰らったら、普通の人間はまず生命がない。

「やめて……!」

 恐怖の余り、ジスレーヌは、無我夢中で卿を突き飛ばしていた。

 別の場所で、絶叫が響き渡った。

 そこには、床に転がり、左足を抑えて呻くフェアモント公爵の姿があった。チャールズ卿の放った火球は、ジスレーヌが突き飛ばしたことにより意図した軌道をそれ、あろうことかフェアモント公爵の左足を焼いたのだ。

 慌てて、召し使いの中で回復の呪文を使えるものが公爵に駆け寄った。すぐに詠唱を始める。

 余程激昂していたのか、呪文の威力はいつもより更に強かった。一度の回復ではまったくよくならず、二度三度と連続して回復を掛け、ようやく元の皮膚を取り戻していた。

「チャールズ! 父親に向かって……」

 流石の公爵も今回ばかりは腹に据えかねたらしい。憤怒の形相で息子を見据えた。

「父親?」

 卿は公爵を見下ろした。意図せずとはいえ、自分の実の父親に火球を呪文を放って大怪我を負わせたのだ。しかし、何ら卿の心には感じるものはないらしい。薄茶色の瞳に宿る、凍てつくような光に公爵は貫かれ、そのまま動けなくなってしまった。

 卿は無言のまま、何事もなかったかのように、自室に引き返して行った。その場にいた全員が恐れをなし、しばらくは動くことすらできなかった。

 ようやく我に返った侍女頭が屈強な侍従に声をかけ、公爵を助け起こす。公爵も二人に付き添われ、居間を後にした。

 残りの召使い達も慌てて、後始末を始めていた。

 ジスレーヌだけが、気の毒にもその場に取り残されていた。

********

 帰宅したジスレーヌを出迎えたトルベック公爵夫妻は娘の有様に絶句した。まず服装が違う。出かけた時にはきちんとドレスを纏っていたはずなのに、今着ているのはどうみても侍女のものとしか思えない。余程のことが起きたに違いないとすぐに自室に引き取らせた。その後、着替えをさせようと母である公爵夫人がジスレーヌの乳母に手伝わせ、侍女の服を脱がせたところで、夫人は思わず声をあげた。

「いったいどうしたというのです!?」

 娘の柔肌に数えきれないほどの切り傷がつけられているのである。

「……お母様」

 ジスレーヌは緊張の糸が切れたように母の腕に倒れ込んだ。

「話はあとからゆっくり聞きましょう。まずは傷を治さなくては」

 幸い、公爵夫人が回復呪文の遣い手であった。即座に詠唱に入る。その場ですぐに傷は癒され、傷跡ものこらず治癒することができた。

 傷が癒え、湯浴みと着替えを済ませたジスレーヌが休んだ後、夫人は公爵に娘の傷について話をした。公爵は俄かには信じ難い話ではあったが、帰宅した娘の様子から真実であることは明白だった。

 翌日あらためて、トルベック公爵と夫人は娘から詳しい事情を聞くことにした。

********

「フェアモント公爵邸で、何があったのだ? 落ち着いて話してみなさい」

 トルベック公爵が穏やかな口調で話を切り出した。ジスレーヌは傷こそ癒えているものの、精神的な打撃が大きく、乳母の手を借りて寝台から身を起こすのが精一杯だった。それでも、話だけは聞かなければならない。ジスレーヌも気丈に口を開いた。

「……はい、お父様」

「お前はチャールズ卿に、話相手として招待を受けたはずだったな?」

 ジスレーヌはちいさく頷いた。父公爵の言う通りだった。以前よりチャールズ卿は、芸術や学問の話相手にと、様々な貴族の令嬢を自分の居住する別邸に招待していた。招待される貴族は主に、昔は栄華を誇ったものの今では往年の威光を失っている家がほとんどである。日々の生活こそ困ることはなくとも、ムーンブルク筆頭公爵家を訪問するための衣裳を誂えるのは難しい。だから招待状にはわざわざ豪奢なドレスまで添えるのが常だった。

 チャールズ卿は気に入った娘には何度も招待を繰り返し、帰り際に礼のつもりか、金品を渡している。没落した貴族にとっては娘が気に入られるのは名誉なことであり、渡される金品もありがたいもの――実際にはのどから手が出るほどに欲している――なのだ。

 ご多分に漏れず、トルベック公爵家もそういった一族である。しかし没落したとは言っても未だ学問の分野ではすぐれた功績を残し、その方面では一目置かれている。また数こそ少ないものの、昔は優秀な魔法使いを輩出した家系でもあり、今回被害に遭ったジスレーヌも睡眠の呪文の遣い手だった。だからこそ、チャールズ卿が学問の話相手にとジスレーヌを請われた時にも喜んで送り出したのだ。

「さ、ジスレーヌ。お父様にお話しなさいね。もう何も怖いことはありませんよ」

 ジスレーヌはまだ恐怖に震えていたが、隣に座っている母が頷いたのを見てようよう安心したのか、言葉を選んで話し出した。

「最初のうちは、お話し相手を務めておりました」

 公爵夫妻は、無言で続きを促した。

「チャールズ卿様は、私の話を熱心に聞いてくださいました。かねてからのお噂通り、とても造詣に深くいらして、いただくご質問もとても的確でしたわ。……ですが」

 その時の恐怖を思いだしたのか、ジスレーヌはまた口を閉ざしてしまう。夫人は励ますように、震える娘の肩をしっかりと抱いた。

「チャールズ卿様は、豹変なさったのです。突然に」

 いったん口を開くと、ジスレーヌの口からとめどなく言葉があふれ始めた。まるで、話すことによって体内の毒をすべて出してしまおうとするかのように。

「チャールズ卿様はわたしに、よいものを見せてやるとおっしゃいました。そしてみせてくださったのは、一振りのナイフでした。精緻な装飾が施された、それは素晴らしい細工のものでしたわ。ですが……ナイフに視線を移した時の卿様の表情は、それまでとはまったく違うものでした。まるで、狂気に取り憑かれたようで、恐怖の余り、私の表情はこわばってしまったのです」

 その後のジスレーヌの話は俄かには信じ難いものだった。何故なら、卿はジスレーヌをそのナイフで傷つけたというのである。しかも方法が尋常ではない。ドレスを切り裂き、あろうことか嫁入り前の令嬢を肌着一枚という姿にし、さらに剥き出しになった肌を細く傷つけたというのである。

 流石の公爵夫妻も、俄かには信じ難い話である。けれど、娘が嘘を言う理由はないし、何よりも帰宅時の悲惨な姿が真実を物語っている。

 話し終え、疲れが出たのかジスレーヌは再び眠りについた。その直後、フェアモント公爵邸から遣いが来る。用件は、多額の金品を届けに来たのである。表向きはチャールズ卿の話相手の礼であったが、口止め料を含むものであるのは明らかだった。

 応対したトルベック公爵は、怒り心頭に発した。使者をもてなすこともなく、それどころか労いの言葉一つかけずに、金品を叩きつけて追い返したのだ。

 常識では考えられない行動だった。トルベック家は名門であっても今は往年の勢いはない。すくない領地からあがる収入のみでは生活するだけで精一杯で、最低限の体面は保てても華やかな場所には縁がない。だから、フェアモント家の差し出した金品は喉から手が出るほど欲しているはずだった。大切な娘が弄ばれ、どんなに悔しくとも、今は呑みこむしかない。仮に事を公にすれば娘の将来はなくなり、トルベック家の存続すら危うくなる――それを見越してのフェアモント家の策だった。

 それでも、トルベック公爵は古い公爵家としての自尊心だけは失わなかった。使者は公爵のあまりの勢いに恐れおののき、散らばった品を拾い集めて、ほうほうの体で逃げ帰ったのである。

********

 そして、この事件が大きな問題の発端となったのである。




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