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旅路の果てに
第13章 2


 長かった冬も終わりに近づいてきた。雪はまだ深いが、日差しは穏やかな春のものになってきている。リエナは悪阻以外には問題もなく、気分のいい時には読書や縫い物をしたりしながらゆったりと暮らしていた。お腹もすこしずつ目立ち始め、顔つきもすっかり母親らしくなってきている。

 今日はラビばあさんが二人の家に来てくれる日だった。リエナは今、台所で簡単なお茶請けのお菓子を作っているところである。

 様子を見に来たルークが声をかけた。

「おい、リエナ、大丈夫なのか? 寝てなくていいのか?」

「ええ、今日はとても気分がいいのよ」

「だがな、もし何かあったら……」

 リエナの表情も顔色も明るいけれど、それでもまだルークは心配でたまらないらしい。悪阻がひどかった時期の記憶がまだ新しいせいもあるのだ。

「この間もおばあちゃんに言われたでしょ? 動けるときには普通にしていいって」

 リエナはお菓子作りの手を休め、ルークに向き直る。

「あなたの気持ちはとてもうれしいわ。でも、悪阻もそろそろ落ち着いてきたのよ。だからもう、心配しすぎないでね」

 そう言ってルークを見上げてくるリエナは、母になる喜びからか輝くような笑顔だった。身籠る前とはまた違う美しさにルークは思わず見惚れてしまったが、言うべきことだけは言っておきたい。そのままそっと抱き寄せると、軽くくちづける。

「……わかった。だが、無理は禁物だ。それだけは約束してくれ」

 リエナもルークの腕の中で頷きを返した。

********

 そうこうするうちに、ラビばあさんがやって来た。いつものように手土産に持ってきた特製のお茶をリエナに渡しながら、頷いた。

「リエナちゃん、今日は具合がよさそうじゃな」

「ええ、おかげさまで。おばあちゃんのおかげよ」

 にっこりと微笑むリエナに、ばあさんも満足げだった。ルークだけがまだ釈然としない顔をしている。

 ばあさんはルークに向き直ると、呆れたような声を出す。

「何じゃ、ルーク、その顔は。またおまえさんのいらん心配症が始まったのかの? いい加減にせんと、生まれてから困るぞ?」

 リエナは思わず笑みをこぼすと同意した。

「わたくしも、たった今同じことを言っていたのよ」

「リエナのこれまでの経緯を考えたら、心配するなって方が無理だろうが」

 ルーク自身、先程のリエナとの話していても、どうしても納得しきれないでいるのである。ばあさんはやれやれとばかりに、ルークを見上げた。

「ええか、ルーク。何事にも限度というものがある。おまえさんのは心配を通り越して、ただの過保護じゃ。前にも言うたように5ヶ月を過ぎれば落ち着く。そうすれば大事にしすぎるのは、かえってよくない。腹の子は順調に育っておる。最近は食欲も少し出てきたそうじゃし、もう何にも心配はいらん!」

「ばあさんが言い分もわかる。だがな、リエナの体調が回復したのはここ数日だ。それまでほとんど食欲がなくて、また痩せたぞ。それでも心配するなってか?」

 なかなか言い分を理解してもらえないルークに、ばあさんはわざと大きな溜め息をついて見せた。

「ほんにわからずやの男じゃの。さっきも言うたが、腹の子は順調。悪阻さえ落ち着けば食欲も戻る。もうすこし経てば、リエナちゃんもおまえさんがびっくりする程食べるようになるじゃろうて」

「俺が驚くほど食う? 大食いのリエナなんて、想像つかねえぞ?」

「大食いの基準を自分と一緒にするでない。それから食欲が戻ってからじゃが、適度に動いて体力をつけんといかん。そうじゃな、春になったら診察はわしの家でする。おまえさんも一緒に散歩でもするつもりで通うがええ」

「散歩って、転びでもしたら……」

「何の為におまえさんがおるのじゃ。手をつないで歩けばええし、もし転びそうになっても支えるくらいはできるじゃろ? おまえさん、反射神経も並みではなさそうじゃしの」

 突然、ルークの深い青の瞳の光が強くなった。

「支えるくらい、だと? 転びそうになるほど足元が悪いなら、横抱きにして運ぶぜ」

 ルークはばあさんを見下ろして、堂々と言い切った。実際、出奔直後に体力が落ちて歩くのがつらくなったリエナを抱いて運んだことがある。もっともばあさんは知る由もないけれど。

「すまんかった、わしとしたことがとんだ失言じゃ。まあ、おまえさんの反射神経も並じゃなかろうから、そもそもリエナちゃんを転ばせるわけがなかったの」

 常にリエナを第一に考えるルークに半ば呆れつつも、これ以上心強いことはないと安心しているのも事実だった。

 それまで二人の会話を微笑みながら聞いていたリエナが口を開いた。

「おばあちゃん、どうか謝らないでね。おばあちゃんの言う通り、ルークの反射神経は素晴らしいわ。そして運動神経もね。けれど一番は力があることかしら。それこそ自分と同じ人とは思えないくらいよ」

「同じ人とは思えないって、俺のことなんだと思ってるんだ?」

 リエナの言葉に、ルークにしては珍しくやや不満げである。ルークからしたら、あらゆる魔法を使いこなすリエナこそ自分とは同じ人間だと思えないのだから。もっともこの場でそれを言うわけにはいかないのだけれど。

「あら、あなたの戦う姿を知っている人はみなさんそう思うのではなくて?」

「わしも聞いたぞ。ルークの剣は、村の男がやっと持てるくらい重いそうじゃの。それを魔物相手に振り回すんじゃ。おまえさんの大食いには、ちゃんと意味があるんじゃな」

「あの剣なら、別に重くねえぜ? あれ以上軽いと頼りなくて、かえって使いづらいんだ。昔のはもっと重かったしな」

「あれより重いとな」

 ばあさんは目を丸くした。山奥で暮らすトランの男達は力自慢の者も多い。彼らが驚くほどの重い剣を軽々と扱うだけでもすごいのに、昔の物は更に重かったとは。

――流石は、破壊神を倒した英雄にしてロトの血を継ぐ者――ばあさんの脳裏に、突然その事実が浮かんだ。

 けれどルークはばあさんがそんなことを考えているなどつゆ知らず、あっさりと答えた。

「ああ、事情があって故郷に置いてきた。だが今は、あれが俺とリエナの生命を預けてる大切な剣だ」

 ルークもこの辺りの事情を隠すつもりはない。正直、過去の剣を話題に出したことについては、やや軽率だったかもしれないが、装備する剣を変えること自体はごく普通のことである。それに、事情があって故郷に置いてきたという言い分にしても、二人が駆け落ちしてきたことを村人は承知しているから、おかしな話ではないのだ。それに、嘘をつけばつくほど矛盾が出やすくなる。簡単な説明で納得してもらえるなら、事実を言った方がいいという判断だった。

 ラビばあさんにもおぼろげながら事情は理解していた。昔の剣というのはおそらく、ルークの本来の身分にふさわしいものなのだろう。それならば、素人目にも二つとない逸品のはず。そんな剣を携えたまま騎士崩れの傭兵を装うには無理がある――そこまで考えを巡らせて、ばあさんはルークに顔を向け、思わず目を瞠っていた。

 そこに浮かぶ表情は、剣に己のすべてを掛けた戦士そのものだったからだ。

 ばあさんの脳裏に再び先程の思考が浮かびあがりそうになる。しかしそれを覚られないよう、密かに振り払い、わざと冗談めかした口調でルークに言う。

「ほんにおまえさんは、剣に関することとなると人が変わるのう。こころなしか、顔つきが凛々しゅうなっとる」

「ばあさん、それじゃまるで普段の俺は、にやけてるみたいじゃねーか」

 ばあさんに茶化されて、ルークの表情も普段のものに戻っている。

「リエナちゃんの前では、いつもそうじゃが?」

「……ったく、口の減らないばあさんだぜ」

 相変わらずの遣り取りに、リエナは思わずちいさく吹き出して言った。

「そろそろお茶にしましょう。今日は久しぶりにお菓子も作ったのよ。すぐに支度するから待っていてね」

********

 その夜、夕食を終えた二人はいつもと同じように、居間の暖炉の前でそれぞれの作業に励んでいた。

 ルークは日課の剣の手入れに勤しんでいた。床に直接どっかりと座り込み、一心不乱に手を動かしている。リエナはその様子を時々眺めつつ、縫い物をしている。

 今作っているのは、生まれてくるこどものための産着である。何度も水を通して柔らかくなった布を重ね、一針一針、丁寧に縫っていく。こういったことも、村の女達がこぞって教えてくれている。

 やがて手入れを終えたルークが剣をしまい、湯殿で手を洗って戻ってきた。リエナの手許を覗き込みながら、隣に座る。

「それ、産着か?」

「ええ、そうよ」

 リエナは手を休めて頷いた。

「えらい、ちいさいな」

「これでもすこし大きめにしているのよ。おばあちゃんに教わったの。産まれてくるあかちゃんが大きな子かもしれないし、その方が長く使えるからって」

「そういうものなのか」

 ルークは実母を出産と同時に失ったため、これまで懐妊している女性と接した経験がない。見るもの聞くものすべてが未知の世界の話と同じなのである。

 ルークがふとリエナのお腹に目を遣った。だいぶふっくらとしてきている。

「ルーク、どうしたの?」

 ルークの視線に気づいたリエナが問いかけた。

「うん? だいぶ腹が大きくなってきたなと思ったんだ」

「ええ、そうね。でもまだまだこれからよ」

「重くないのか?」

「それも、これからね」

「あんまり根を詰めるんじゃないぞ」

「ええ、今夜はこれくらいにしておくわ。ちょうど切りもついたから」

 リエナはにっこりと微笑んで、最後の一針を刺した。針を抜いて端の始末をする。

「ああ、そうしておけ」

 そう言って立ち上がると裁縫道具を片付けたリエナの正面にまわり、床に直接座る。そのままゆったりとリエナの腰に手を回した。力を入れないよう細心の注意を払い、そっと抱きしめる。

「元気に産まれて来るんだぞ」

 ルークがリエナのお腹に向かって話しかけた。

 リエナはそんなルークの様子に、幸せがじんわりとこみ上げてきた。村の女達からはリエナはすっかり母親の顔になったと言われるが、ルークの表情もまた、我が子の誕生を心待ちにする父親のものにほかならなかった。




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