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旅路の果てに
第6章 6


 カーテンの隙間から差し込む朝日の眩しさに、リエナは眼を覚ました。

 一晩ゆっくりと眠ったせいか、かなり疲れは取れている。こんなに穏やかな朝を迎えたのはムーンペタの離宮に移って以来、初めてのことだった。

 身体を起こし、視線を移すと、寝台の横の床でルークがまだ眠っていた。朝の早い彼には珍しいことである。やはり、自分を救うためにずっと無理な生活をしてきたに違いない――リエナがそう考えた時、ルークが一瞬、眩しそうな表情を見せて眼を覚ました。

「おはよう。リエナ」

「……おはよう。あ、ごめんなさい」

「ごめんなさいって、何が」

「あなた、床で……」

「気にするな。旅の間、一部屋しか取れないときはいつもこうだっただろ?」

 ルークは屈託のない笑顔を見せると起き上がった。

「だいぶ顔色がよくなってる。――よく眠れたみたいだな」

「ありがとう。あなたの、おかげよ」

 ルークはリエナの肩を抱き寄せた。突然のルークの行動に、リエナは白い頬を染めて戸惑ったような表情を見せる。それでも素直に身体を預けてくる可憐さに、たまらなくなったルークは、唇を重ねていた。

 思いがけないほどの熱いくちづけを受けて、リエナの心臓の鼓動が跳ね上がる。しばらくして、ようやく唇を離したルークが、すこしばかり照れくさそうに言う。

「お前、昨夜は晩飯も食わずに寝ちまったからな。腹減っただろ? 下の食堂で朝飯もらってくるから、その間に着替えしとけ」

 腕を離し、椅子に掛けてあった旅装束を取って頭からかぶると、ルークは部屋から出ようとした。

「……ルーク」

「どうした?」

 ルークが振り返った。見れば、リエナの表情がわずかに曇っている。

「いえ、なんでもないわ」

 リエナは慌ててかぶりを振ったが、ルークにはリエナが何を考えているのかがわかっている。リエナの側に戻ると視線を合わせ、白い頬に手をかけた。

「すぐに戻る。――お前が一人で待つのが不安なのはわかるが、なるべく人前に姿を出さない方がいい」

 ちいさく頷きを返したリエナに軽くくちづけ、ルークは部屋を後にした。

********

 いくらも経たないうちに、ルークは朝食をのせた盆を手に部屋に戻って来た。

 リエナも着替えを終えていて、二人で朝食の席につく。さっそく食べ始めるルークの前で、リエナの口からわずかな詠唱の声が漏れた。

「……リエナ。お前」

 はっとしたリエナが顔をあげた。

「ごめんなさい。――わたくし……」

 ルークはまっすぐにリエナに視線を向けた。

「大丈夫だ。ここにはもう、お前に害を為そうとするやつらはいない」

 安心させるよう言い聞かせながら、ルークはリエナが自分の前ですら、無意識のうちに食事に解毒の呪文をかけるほど――それだけ緊張を強いられる毎日を送っていたことに、あらためて怒りを覚えていた。

「いいか、リエナ。これからはずっと、俺がいる。どんなことが起ころうと、俺がお前を守る。だから、大丈夫だ」

 ルークの力強い言葉に、リエナはちいさく頷いた。

「――ほら、冷めないうちに食え」

「ええ。ありがとう」

 リエナは一口、あたたかいスープを口に運ぶと、ほのかに微笑んだ。

「おいしいわ」

「なら、よかった」

 ルークも笑顔を返した。その後は相変わらずの健啖家ぶりを見せるルークにつられてか、昨日は何も口にしなかったリエナも、すこしは食が進むようだった。

********

 あらかた食事も終わり、二人はゆっくりと食後のお茶を飲んでいた。

「リエナ。――すまなかった」

 ルークがリエナに声をかけた。深い青の瞳には、苦渋の色が見える。

「何故、謝るの?」

 突然ルークに謝罪されても、リエナには何に対してかがわからない。

「俺が約束を守れなかったからだ」

「約束……って、そんな」

「旅が終わったあの日、俺はお前に一年待って欲しいと頼んだ。もちろん、お前からはっきりとした答えをもらっていたわけじゃない。あくまで俺が、自分で決めたことだ。だが、それを守れなかったのも事実だ」

「ルーク……」

「俺は、誰にも文句を言わせない形でお前と結婚すると決めていた。必ず父上を説得して、自らが求婚の使者としてムーンブルクに行って、お前にもう一度結婚を申し込むつもりだったんだ」

 ルークは一瞬遠くを見つめるような表情を見せた。

「俺の力が足りないばかりに、お前にまで罪を犯させた。謝って済む問題じゃないが……すまない」

 リエナはしばらくルークの顔を見つめていたが、やがてちいさくかぶりを振った。

「決して許されない罪を犯したのは事実だわ。でも、それはわたくしの意思よ。それにね、時期がすこし遅れてしまっただけで、あなたは約束を守ってくれたわ。――明日が正式な婚約発表の予定だったの」

 リエナは眼を伏せた。

「そうだったのか。俺も、まだ発表されていないことだけは知っていた。早ければ秋、遅くとも年明けだと聞いていたんだ。――ぎりぎり間に合ってよかった」

「あなたは、婚約発表が強行されることを知っていたのね?」

「俺は密偵からその情報を聞いたんだが。――どういうことだ?」

「わたくしがそのことを知らされたのは、あなたがわたくしを救い出してくれた日、だったのよ」

「リエナ。お前、婚約が正式に決まったことすら知らされていなかったのか?」

 思わずルークは問い返していた。このような国家の重要事項を、次期女王であるリエナに、しかも結婚する当の本人に報告していないなど、ありえない。

「ええ、そうよ。わたくしはずっとチャールズ卿の求婚を断り続けていたわ。だから、もうしばらくは時間があると思っていたの。でも実際には知らされていないだけで、かなり前から決まっていたのね。わたくしの意思を無視して、婚約を強行すると」

「あの野郎……!」

 いきなり婚約発表すると突きつけられて、リエナがどれほど苦しんだのか――ルークには、それが手に取るようにわかる。

「もう、何もかもがお終いだと思ったわ。自分の手でムーンブルクを復興することも、次代に血を残すという義務を果たすことも許されない。だからせめて、ムーンブルクの女王として恥ずかしくない最期を遂げようと、決心していたの」

 リエナ何ともいえない表情で、言葉を継いだ。

「あの日、あなたに逢えるなんて思ってもみなかった。――窓の外にあなたの姿を見つけた時、思わず駆け出してしまったのよ。本当にうれしかったわ。もう二度と逢うことはかなわないって思っていたから。だから、あなたの腕に抱きしめられて、もう何も思い残すことはないって、自分のできる限りのことをして死を迎えようって、心からそう思えたのよ」

「お前、そこまで決心していたのか!?」

 リエナは頷いた。菫色の瞳の端に、涙がにじんでいる。

「ええ。だから、あなたから何もかも捨てて二人で暮らそうって言われた時は驚いたわ。一度は拒否したけれど、それでも――本当にうれしかったのよ。わたくしが信じたとおり、あなたは、変わらずわたくしのことを……」

 嗚咽の声が漏れ、一筋の涙が零れ落ちた。ルークは席を立つとリエナの涙を指で拭い、包み込むように抱きしめる。

「長い間、つらい思いをさせて悪かった。もっと早くに俺が決心していれば、ここまで苦しむこともなかったんだ」

「ううん、あなたこそ、わたくしのために……」

「これからは、ずっと一緒だ。一生、お前を守りきってみせる。お前が幸せだと言えるようになるまで、できる限りのことをする」

 力強いルークの言葉に、リエナの瞳から涙があふれる。ルークはリエナが落ち着くまでずっと、抱きしめ続けていた。

********

 午後になってから、二人は町に出てみることにした。この辺りにどこか落ち着いて住めそうなところがあるか、話を聞きに行くのである。リエナにあまり無理をさせたくはないが、かといって、いつ追手がかかるかわからない以上、時間を無駄にはしたくない。

 ルークはそろそろ結婚して定住したいと考えている旅人を装いつつ、慎重に情報を集め始めた。

 いろいろな店などで話を聞きながら、ゆっくりと歩いていく。このロチェスの町は活気があり、人の出入りも多いから、ルークとリエナのような目立つ二人連れもうまく隠れ住むこともできるかもしれない。しかしその反面、二人の姿を見かけた旅人や行商人が、礼金目当てでローレシアやムーンブルクへ情報を提供する可能性もある。

 すこしでも早くリエナに落ち着いた生活をさせたいが、焦りは禁物である。誰にも頼らず、新しい居場所を探すのは予想どおり難しい。けれど、大神官ハーゴンの脅威が去ったために同じような考えの旅人は珍しくないらしく、いかにも旅慣れた二人の様子のおかげもあって、特に疑いの眼で見られることもなかった。

********

 二時間ほど町を歩きまわった。リエナが少し疲れた様子なので、どこかで休憩をと思ったところで、ルークは身に覚えのある、嫌な気配に気づいた。

 はっとして二人は同時に顔を見合わせた。やはり、リエナも同じものを感じたらしい。二人はさりげなく周囲を探り、気配を感じる路地裏に入っていった。

 そこには、中年男の旅人が荷物をかついだまま、地面にべったりと座り込んで眠りこけている。ルークが油断なく辺りを見回すが、周囲に人影はない。

 こんな人気のない場所で旅人が眠り込んでいるなど、普通ではない。旅人の様子を一瞥して、リエナがルークにそっと囁いた。

「睡眠の呪文で眠らされているわ」

「やっぱりな。――気をつけろ、すぐ近くにいる」

 ルークは眠ったままの旅人を安全な場所に移動させると、背の剣を抜いて構えた。リエナも念のためにと持って来た、魔道士の杖を握り直す。

「いいか、リエナ。俺がやる。必要なら、補助の呪文を頼む」

 油断なく身構えながら、指示を出した。

「わかったわ」

 ここで攻撃呪文を発動するわけにいかないのは、リエナも承知している。

 そのとき、木の陰から魔物が姿を現した。この辺りでよく見かける、空を飛ぶ小悪魔が二匹である。眠らせた旅人をゆっくりと血祭りにあげるつもりで出てきたのに、そこにいるのはさっきとは違う二人組である。それでも、愚かな魔物達には獲物が増えたとしか認識できない。不気味な笑い声を上げると、嬉々として襲いかかってきた。

 次の瞬間、リエナを背に庇ったルークの剣が一閃した。まず、一匹を葬る。残りの小悪魔を引きつけるため、ルークはわざとリエナから距離を取った。

 小悪魔は仲間が倒されたにもかかわらず、性懲りもなくルークを襲ってくる。ルークは魔物が吐き出す炎をかいくぐり、目にも止まらぬ速さで迎撃する。

 いくらも経たないうちに、魔物達は醜い屍を晒すことになった。

 その時、二人が魔物と対峙している路地裏にある建物の二階の小窓から、ルークの戦い振りに目を丸くしていた人影があった。

 二人が何事もなかったかのように路地裏から出ていくのを見て、慌てたように人影も姿を消した。

********

 路地裏から離れてから二人は話し始めた。

「さすがね。あなたの戦う姿を久しぶりに見たけれど、また腕を上げたのかしら? わたくしの出番は最初からなかったわ」

「この俺があの程度の雑魚で苦戦するとでも思ったか? これでも毎日剣の稽古だけはさぼったことないんだぜ?」

 ルークは笑いながら答えた。

「だが、町中に魔物が出るなんて、滅多にないだろ? この町にも結界が張ってあるんじゃないのか?」

「結界はあるわ。でも広い町全体に張るのですもの。どうしても不充分なこともあるわね。この辺りに小さな次元の狭間があるのかもしれない。もしそうだとしたら、町の中まで入り込んできてもおかしくないわ」

「自警団に連絡しておいた方がいいんだろうが、目立つ行動は厳禁だしな。後はこの町の連中に任せるしかないか……」

 つぶやきを漏らしたルークを見上げて、リエナはにっこりと微笑んだ。

「大丈夫よ。さっきの路地裏に結界の綻びがあったけれど、修復しておいたわ。これで、そう簡単には町の中に入って来られないはずよ」

 リエナは平然とそう答えた。

「いつの間に修復したんだ?」

「あなたが戦っている間によ。魔物はあなたに任せておけば大丈夫だったし、あの場にあまり長い間いない方がよかったでしょう?」

 確かにリエナの言う通り、いくら路地裏でも長い間いれば、自分達の戦う姿が目撃される可能性が出てくる。ルークの剣はもちろんのこと、リエナの結界の魔法も、すこしでも心得がある者が見れば、尋常の腕の持ち主でないことが知れてしまう。

「さすがは、史上最強の魔法使いだ」

 ルークも不敵な笑みを漏らした。考えるまでもなく、リエナになら容易いことである。

********

「くそっ……。もういなくなっちまってる」

 つい先程まで戦闘が行われていた路地裏で、壮年のがっしりとした体格の男が悔しそうにつぶやいていた。男は建物の二階の小窓から偶然見かけた、魔物と戦っていた若い戦士を探しているのである。

 ふと視線を移すと、路地の奥でいぎたなく眠りこけている、中年男の旅人の姿を見つけた。

「おい! 起きろ!」

 男は旅人を揺り起した。呪文をかけた魔物が倒されていてもまだ眠っていた旅人は、やっとのことで眼を開いた。きょろきょろと辺りを見渡し、眼の前に男がいることにようやく気付いたようだ。

「おれ、魔物に襲われそうになったはずだ。……魔物はどこに行った?」

「魔物ならもうくたばっちまったぜ」

 男が眼で示した方向に、魔物の屍が転がっている。旅人はそれを確認すると、大きく息をついて言った。

「……助かった。――あんたが助けてくれたのか?」

「違う。お前さんを助けたのは俺じゃねえ。もっと若い、戦士の男だ。若い女との二人連れだった。お前さん、あの男に心当たりはねえか?」

「若い二人連れ……?」

「そうだ。男の方は青い服着てて、やたら背の高いやつだ。女の方は白い服だった」

 性急に問いかけてくる男に、旅人は力なく首を振った。

「そんなこと言われても……、おれ、呪文で眠らされてたから、何も覚えてねえ」

「……ちっ。呪文で眠らされてたんなら仕方ねえか。道理で、魔物を目の前にして平気で寝こけてたわけだ」

 旅人の方は、今になって恐怖が思い出されたのか、震えだした。

「恐ろしかった……。ここに迷い込んだら、いきなり眼の前にあの魔物と眼が合っちまったんだ」

 まだ話を続けようとする旅人を、男は制した。

「悪い。俺はまだ用事がある。お前さん、見たところ怪我はなさそうだから、もう一人でも大丈夫だな?」

 旅人が頷くのを確認するやいなや、男は路地裏から飛び出した。辺りを見渡すが、先程の二人の姿は既にどこにもなかった。

「やっと見つけたぜ。……あの男、尋常な腕じゃねえ。どうにかして、探し出さないと」

 男は通りを駆けだした。




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