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旅路の果てに
第8章 2


 ルークが裏庭で薪割りをしている間、リエナは昼食の支度をしながら、ある考えに耽っていた。思考に集中しながらも、愛用のナイフを持つ手は、よどみなくスープに入れる野菜を刻んでいる。

 先日、熱を出して寝込んだものの、今はもうすっかりよくなっていた。床に臥せっていたのはほんの半日だけだったけれど、ルークはずっとそばにいてくれた。

(わたくしは、いつもルークに守られているわ)

 リエナの唇から、予期せぬ溜め息が漏れる。

(ルークはいつも、わたくしを幸せにしたいと言ってくれている。だから、何もかも捨ててまで、わたくしを救ってくれた。このトランの村で、二人きりでの新しい生活を始めてようやく……)

 村での生活は、リエナに心の平安をもたらしたはずだった。事実、慎ましいながらも穏やかな暮らしに、リエナは何の不満もない。

 リエナが心の底から望んでいたこと。それは、ルークのそばにいて、ともに人生を歩んでいくこと。

 望みがかなったのに、どうしても、心が晴れない。

(どうしてわたくしは、こんなにもまだ……)

 リエナ自身にも、まだそれが何故なのか、わからない。

 ナイフを持つ手が、ふと止まった。

(……わたくしはルークに幸せにしてもらうばかり。彼に、何も返せない。そう、何一つ、返すことができない)

 その時、背後で扉を開ける音がした。振り返ると笑顔でルークが立っている。

「終わったぜ。お、いい匂いがする」

「お疲れさま。もうすぐお昼ができるわ」

 リエナは咄嗟に笑顔を作り、出迎える。

「薪、今のうちにみなさんのお家に届けに行ってきたら? 最近、夜は冷え込むわ」

 ルークはリエナのいつもと変わらぬ様子に、何も不審には思わなかったようだ。

「そうだな。じゃあ、届け終わってから昼飯にするか」

「いってらっしゃい」

「ああ、行ってくる」

********

 ルークを見送ったリエナは、再び台所で昼食の支度を始めた。

 ――自分は守られるばかり、幸せにしてもらうばかり、なのに何も返せない。

 さきほどからずっと、この言葉が頭から離れない。考えれば考えるほどに、自分の無力さ加減を突き付けられる。

 わたくしの願いはかなったのに。

 一緒に暮らして、いつもそばにいて、毎晩ルークのあたたかく力強い腕に抱かれて眠ることができるのに。

 ルークの腕の中で眠る――今ならわかる。わたくしは心の奥底でずっと、それを望んでいた。

 旅の間にたった一度だけあった、大切な記憶。

 ロンダルキアへの洞窟にほど近いある場所で、わたくしたちは驟雨に見舞われ、ずぶ濡れになってしまった。ようやく洞窟を見つけて一夜の宿とすることができたけれど、冷たい雨に打たれたせいでわたくしは熱を……。

 その夜、ルークはわたくしを抱いて、一晩中あたためてくれた。

 もちろん、それ以上のことは何もなかった。ルークはただひたすら、悪化しないようにあたため続けてくれていただけ。

 あの夜は忘れられない。あんな状況だったのに、わたくしは、心から幸せ……だったから。

 高熱で朦朧としながら、毎夜、ルークの腕のなかで、彼の鼓動を、体温を感じて眠りたい――心の底から、そう願った。けれど、それを望むのは許されないこと。だから、願いを心の奥底に閉じ込めるしかなかった。

 旅の最後の夜、リリザの宿で、ようやく互いの想いを確かめあえた時。

 わたくしはもう一度だけ、ルークの腕の中で眠りたかった。たった一夜だけでも、彼の愛する女として過ごしたかった……密かな、願い。

 願いはかなわなかったけれど、別離はつらくてたまらなかったけれど、それでも耐えられた。

 ムーンブルク復興という、何をおいても達成すべき目標があったから。

 ムーンペタに帰国後、予想すらできない状況に追い込まれた。そのわたくしを、ルークはあらゆる手段で救い出そうとしてくれた。最後には何もかも捨ててまで、救ってくれた。

 次期女王であり、最後の王族としてムーンブルクを復興する義務を放棄したことに、自責の念がまったくないといえば、嘘になる。

 それどころか、思い出すたび身体は震え、犯した罪の重さに押しつぶされそうになる。

 けれど、同時にルークから差し出された手を取ったことを、今も後悔していない。それほどに、自分の望み――ルークのそばにいること――は強かった。

 あのままムーンブルクに残れば、近い将来、チャールズ卿の手に掛かって生命を落とすことはわかり切っていた。自らの手でムーンブルク復興を行うことも、勇者ロトとムーンブルク王家直系の血と残すこともできなかった。悲願を達成できないまま、生命を終えなければいけなかった。

 ならばせめて、その時までだけでも、ルークのそばにいたかった。たった一度だけでもいいから、ルークに抱かれたかった――。

 すべてを捨てて、彼について来たことは後悔していない。

 最後の王族として、決して犯してはならない大罪だとわかっている。

 一生、罪を背負って生きていかなくてはならないことも、罪を償う機会すら決してないこともわかっている。

 それでも、わたくしはルークの手を取った。

 自分の意志で、ルークと二人、新しい人生を歩むと決めたから。

 ルークはわたくしに、たくさんのものを――あふれんばかりの愛情だけでなく、穏やかな暮らしも、生命の危機のない安住の地も、贈ってくれた。

 だから今は、望み通り、ルークのそばにいて、ともに暮らすことができるのに。

 毎夜、あたたかい腕に抱かれて眠ることができるのに。

 それなのに、わたくしはルークに何も返すことができない。

 返すことができない。

 何一つ。

********

 スープが出来上がった。

 あたたかな湯気を上げる鍋を前に、今日何度目かの溜め息がこぼれる。いくら考えても答えは出ない。

 再び、背後で扉を開ける音がした。

「ただいま、リエナ」

 村の家に薪を届け終わったルークが戻ってきたのだ。リエナは一旦、考えを無理やり振り払った。

「お帰りなさい。ちょうどできたところよ」

「それ楽しみに帰って来たぜ――腹減った」

 笑顔でルークは、顔と手を洗いに湯殿に入っていった。ほどなくしてさっぱりした顔で台所に姿を現すと、愛おしげにリエナを抱きしめる。

 以前と何も変わらない、優しい仕草。

 幸せなはずの瞬間。

 けれど……。

********

 居間の暖炉にあかあかと火が熾っている。

 ここ数日、朝晩はかなり冷え込むようになってきた。今夜トランに越してきて初めて、暖炉に火を入れたのである。

 あたたかな火の前で、リエナは縫い物をしている。これから来る冬のために、ルークと自分の服を縫っているのである。ルークは床に座り込み、日課の剣の手入れに勤しんでいる。

 ほどなくしてルークが作業を終えた。手入れの済んだ剣を鞘に納め、リエナに視線を向ける。針を持った白いちいさな手が規則的に動く様子に、ルークは知らず知らずのうちに見とれていた。

 白い手がふと動きを止めた。同時に、リエナの唇からかすかな溜め息が漏れる。

「リエナ、どうした?」

「……え?」

 リエナははっとしたように、ルークに顔を向けた。たった今自分がしたことに気づいていないらしい。

「お前、溜め息ついてたぞ。ずっと縫い物してて疲れたか?」

 心配顔のルークに、リエナはちいさくかぶりを振って、いつもの笑顔で答えた。

「ううん、大丈夫よ。針を持つのは好きだもの」

 この言葉は嘘ではない。リエナはまだ王女だったころから刺繍を趣味としていた。その趣味を活かして、旅の間も男二人の戦闘で綻んだ衣服の繕いものを一手に引き受けていたのだ。もっとも、服を縫うとなるとかなり勝手が違ってくるが、例によって、村の女達がこぞって教えてくれる。リエナ自身、もとから手先が器用なこともあって、こちらも女達が驚くほど早くに上達したのだった。

「今日のところはこれくらいにしておけ。あんまり根を詰めるのもよくないからな」

「そうね。じゃあ、今縫っているところが済んだら、終わりにするわ」

 その後すぐにリエナは、縫いかけの服と裁縫道具を片付けた。

********

 その後も秋が深まるにつれ、リエナは時折、物思いに耽っているような様子を見せるようになった。

 それでも、村人の前では明るく振る舞い、ルークの前でも一見いつもと変わりなく過ごしているように見える。しかし、さすがにルークはリエナの様子がおかしいことに気づいていた。

 ルークは理由を考えていた。――思い当るのは一つしかない。ムーンブルクを捨てたことに対する、罪悪感である。

 無理もない――ルークはそう考えている。

 当然のことだった。リエナは人一倍、責任感が強い。たった一人生き残った王族として果たすべき義務――ムーンブルク復興のために、過酷な旅を耐えてきた。

 トランの村へ来たのも、俺が無理やり連れ出したようなものだ。

 ルークは息をついた。

 事前に打ち合わせをしたわけじゃない。何もかも俺が単独で考えて行動に移した。リエナがついて来てくれるかどうかは賭けだったが、もう方法は残されていなかった。

 リエナが出奔すれば王家の血は絶える。実際には自分の血を残せない状況に追い込まれてはいたが、それでも罪悪感を持たないでいられるほどあいつは無責任じゃない。おまけにリエナと俺とでは立場も違う。俺には自分が国を捨てても、代わりに継いでくれる異母弟が二人いた。だが、リエナは王家最後の生き残りだ。

 リエナの心中を思えば、つらい選択だっただろう。復興が始まったばかりの祖国を捨てろと言われたんだから。次期女王が、それも最後の王族のあいつが、簡単に肯ったわけじゃない。ぎりぎりまで追い詰められての苦渋の選択だったのはわかっている。

 あのままの状態を放置すれば、リエナは遠からず生命を落としていた。あいつを見殺しにすることだけは、絶対にできなかった。

 だから、俺はリエナを連れ出した。そのことを後悔したことは一度もない。

 拉致まがいの手段だろうが、関係ない。とにかくリエナを救い出したかった。

 だがリエナは違う。あいつが今になって後悔するのはわかる。当然のことだ。自分を責めるなという方が無理なのも承知している。

 ならばせめて、すこしでも後悔の念がやわらいでほしい。今の生活が幸せだと言えるようになってほしい。

 ――リエナのために俺にできるのは、大切に守り続け、幸せにすること、それしかない。

********

 ルークはそれを実行した。傍目にもはっきりとわかるほどに。

 だが残念なことに、ルークはここで重大な過ちを犯していた。そして、彼がそれに気づいたのは、だいぶ後になってからだった――。




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