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旅路の果てに
第8章 3


 リエナの心は引き裂かれそうだった。

(今は本当に幸せだわ。わたくしの望み……、ルークに愛されて、ずっとそばにいて、いちばん安心できる彼の腕のなかで毎晩眠ること、それがかなったのだから。でも、そのために彼が払った代償は……、ルークは祖国・地位・未来のすべてを捨てた。そればかりか、大罪を犯した。わたくしを救う、そのために、自分を……犠牲に……)

 ――そんなこと、最初からわかっていたのに。でも、認めるのが怖かった。今の幸せを失いたくないから……。

 リエナは急に寒気を覚えた。自分で自分の身体が震え始めているのがわかる。

(みんな、そう。わたくしを救うために……犠牲に! お父様も、お兄様も……!)

 しばらく思い出さずにいられたムーンブルク城崩壊の惨劇が、まざまざとリエナの脳裏によみがえる。リエナは椅子に座っていられなくなり、床に座り込んだ。その拍子に、椅子が大きな音を立てて倒れた。

 突然、家の中で大きな音がして、裏庭で薪割りをしていたルークは慌てて玄関の扉を開けた。居間に彼女の姿はない。台所に駆け込むと、そこには椅子が倒れ、蒼白な顔をしたリエナが蹲ったまま細い肩を震わせていた。

「リエナ、どうした!?」

 ルークはリエナの身体をしっかりと抱き抱えた。リエナはルークが来たこともわからないのか、震えたまま泣き叫んでいる。

「お父様も、お兄様も、わたくしのために……、生命を落としたのよ! わたくし一人を守るために……!」

「リエナ!」

「どうして? どうしてわたくしは、今生きていられるの? わたくしさえいなければ、誰も犠牲になんか、ならずに済んだのに……!」

「リエナ、しっかりしろ!」

 ルークはリエナの両腕を掴み、大声で彼女の名を呼んだ。しかし菫色の瞳はあらぬ方を見つめて大きく見開かれたまま、恐怖の色に染まっているばかりで、ルークの声はまったく耳に入ってはいない。

「いやよ……、もういやなの……。わたくしのために誰かが犠牲を払うのは、い……やな……」

 そのままがっくりと崩れ落ちた。ルークが慌てて抱きとめたが、リエナは気を失っている。

(いけない、意識を失った。早く回復させないと危ない……)

 ルークはリエナを抱き上げると寝台に運んだ。そっと寝かせると彼女の服をすべて脱がせ、自分も同じようにする。ルークは隣に横たわると、リエナを包み込むように抱きしめた。

(リエナ……。まだお前はあの時のことを……。当然だ、忘れられるわけがない)

 ルークは意識を失ったリエナが非常に危険な状態であることを知っている。強大な力を持つ魔法使いであるがゆえに、彼女の肉体の健康は精神状態に大きな影響を受ける。今のように意識がない時には、精神がまったく無防備な状態になっており、精神的にはもちろん、肉体的にも何らかの傷を負うと、たとえそれがわずかなものであっても、生命の危険すらあるのである。

 リエナが意識を回復するまでには長い時間がかかる。心の傷を自分一人で修復するのが非常に困難なためだ。だが、ルークの存在だけがリエナの限界まで傷ついた心を癒す力を持っている。素肌で触れあい、ルークが自分の存在をリエナに知らしめることが意識を取り戻す助けになるのである。

 ルークはリエナの冷え切った身体を抱きしめたまま動かなかった。しばらくしてリエナの肌に少し温かみが戻ってきた。それを確認したルークは抱きしめていた腕をゆるめてリエナを仰向けに寝かせ、体重をかけないように気をつけながら身体を重ねた。ルークの唇がリエナのそれに重なる。柔らかく触れるだけの優しいくちづけを何度も繰り返した。同時にそっとリエナの肌に手をすべらせていく。

 ルークの手の動きは愛を交わし合う時のようなものではない。リエナの心をこれ以上傷つけないよう、優しく包み込むように、いつでも自分がそばにいると理解してもらうためのものだ。

 リエナの身体はまだ何も応えることはない。それでも、わずかずつだが蒼白だった顔に赤みが差し始めている。ルークは身体をずらしながらリエナの全身にくちづけを落としていった。心の中で、愛している、目覚めてくれと、繰り返し叫びながら……。

 どれだけの時間が経ったのか、今ルークはもう一度リエナの身体をしっかりと抱きしめたまま横たわっていた。時々、優しいくちづけと愛撫を繰り返す。すこしはリエナも回復してきたのか、身体の反応はないものの表情はだいぶ穏やかなものに戻ってきている。髪を撫でながら、ルークはリエナの叫びを思い出していた。

(犠牲……って言ってたな。ムーンブルク城崩壊の時、ディアス9世陛下とユリウスはリエナを守って生命を落とした。どれだけつらかったか……。リエナ、お前の苦しみを少しでも代わってやれたら……)

 ルークはまだリエナが意識を失う程ひどい混乱に陥った本当の原因を理解していなかった。否、それどころか原因が自分にあるとは、予想すらできなかったのである。無理もない。何故なら、ルークは自分がリエナの犠牲になったなどとは、一度たりも思ったことはないのだから。

 いつの間にか日が傾き、寝室の窓からも夕日が長く射し込んできた。リエナの肌はいつもの温かみを取り戻し、呼吸も穏やかなものに戻ってきている。恐らく目覚めは近いだろうと、ルークはほっと一息ついた。

 日が沈み、夕闇が訪れた頃、リエナはようやく意識を取り戻した。

「ルーク……? わたくしは、いったい……」

 ルークはリエナの身体をしっかりと抱き直し、優しくくちづけた。

「昼間からずっと気を失ってた。突然、家のなかで大きな音がして慌てて戻ってきたら、お前が床に蹲ったまま震えて泣いていたんだ。……もう大丈夫か?」

 リエナも、ルークを見上げるとまた涙を浮かべ、ルークの逞しい胸にすがりついてすすり泣き始めた。

 しばらくして泣きやんだリエナは、ぽつりとつぶやいた。

「ごめんなさい……」

「何故、謝る? お前は何も謝らないといけないようなことはしていない」

「だって、またあなたに迷惑をかけたわ」

「何が迷惑だ? そんなふうに考えるな。お前は俺の妻なんだから」

「でも……」

 リエナはまだ納得してはいないようだが、ルークは最後にもう一度くちづけて話を打ち切った。起き上がると、箪笥からリエナの寝間着を出して渡す。

「ほら、これ着て今夜はこのまま寝てろ。晩飯は昼の残りをあっためて持ってくるから」

 そう言いながら、自分も服を着て部屋を出ていった。

 リエナも寝間着に袖を通しながら、複雑な思いだった。

(ルークがずっとそばにいてくれたから、わたくしは意識を取り戻せた。それは間違いのない事実だわ。……でも、なぜわたくしがそうなってしまったのかは、ルークはやっぱりわかっていない……)

 夕食もリエナはほとんど喉を通らなかった。ルークは心配そうにしてはいたが何も言わず、食事の後片付けを終えると、寝台に横たわったままのリエナの隣にすべりこんできた。リエナはルークに包み込むように抱かれながら、いつもの安らぎと同時に、初めてわずかな不安も感じていた。ルークにもそれが伝わったのか、髪を撫でながらリエナに聞かせるともなしにつぶやく声が聞こえた。

「リエナ……、俺はお前に幸せになって欲しい。そのためになら、俺は何でもする」

 今のリエナにとって、ルークのこの言葉はただつらいだけのものだった。しかし、それもルークには理解できてはいない。その事実が、リエナの苦悩をより深いものにしていた。




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