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旅路の果てに
第8章 4


 あの混乱の日以来、ルークはリエナの心の傷をわずかでも癒すにはどうしたらいいか、ずっと考え続けていた。

(ムーンブルク城の崩壊、父と兄の死。散々苦労してハーゴンとシドーを倒した後には、悲願であるムーンブルクの復興も王家の血を残すことも許されず、挙句の果てには暗殺の危機にまで晒され、結局は国を捨てて出奔するしかなかった。いったいどれだけリエナは苦しめばいいんだ? あいつには何の罪もないというのに! ハーゴンの襲撃さえなければ、出奔などせず、ローレシアの王太子妃として、俺と幸せに暮らせていたはずだった)

 だが、今更考えても仕方がないことだと、ルークは頭を振って不毛な思考を追いやった。

(俺がムーンブルク城崩壊の傷を癒してやることは、無理なんだろう。じゃあ、何ができる? ――国を捨てて出奔したことに対して罪悪感を持つ必要はない、せめてこれを納得させるくらいはしてやりたい)

 ルークは出奔したことについて一切、後悔していない。今回の出奔も、傍から見れば突然の事に見えるが、ルークは一年半かけてリエナを救う為にでき得る限りの努力をし、それでもどうにもならなくて採った最終手段なのだから。

 祖国を捨てる――王族としての義務を放擲することは、ルークは覚悟の上での行動だった。しかし、リエナは違う――ルークはそう考えていた。

(あのわずかな時間で決心したんだ。今になって取り返しのつかないことをしたと後悔しても仕方がない。おまけに出奔自体が、俺が拉致したも同然なんだから)

 罪悪感を持たないよう説得する方法はあるのか――ルークは眼を閉じて考え続けたが、すぐに答えは出ない。それほどに、自分がリエナに犯させた罪――たった一人生き残った王族が国を捨てたことは重いのである。

(これからもできる限り、リエナに罪がないことを言い聞かせ続ける以外に方法はないだろう。――あいつを守ることができるのは俺だけだ。どんなことがあっても、二度と手を離すことだけはしない)

 ルークは息をはいた。もう一つ、大きな気がかりがあった。リエナがまた最近、体調を崩しがちになっているのである。

 やはりリエナは体調が完全に回復したわけではなかった。出奔当時、ムーンブルクの公式発表のような、すべての公式行事を欠席するほどではないものの、野宿を伴う旅に耐えられる健康状態ではなかったのである。

 ムーンペタの離宮から森の入り口まで移動の魔法を発動した時には、特に消耗したようには見えなかった。しかしロチェスの町へ歩き始めてすぐ、ルークはリエナの体力が予想以上に落ちているのに気づいていた。森の入り口から町まで、徒歩で半日かかる。長い間軟禁状態だったリエナにとって、きついのは当然のことだった。無論リエナは一度も弱音を吐かなかったけれど、ルークはこれ以上無理をさせられないと判断し、途中からは彼女を横抱きにして、ロチェスの入り口まで歩いたのである。無事に到着してひとまず宿に落ち着いた後も、極端に疲れやすくなっているせいか、あまり長時間の行動は無理だった。

 偶然の出来事からジェイクに用心棒を頼まれたことで、出奔後わずか数日でトランの村で住むことが決まった。ありがたいことに、村人は二人を好意的に受け入れてくれた。特にリエナは、村の女達にまるで娘や孫に接するかのように可愛がってもらっている。

 そのおかげか、新しい生活が始まってリエナの健康状態は一旦安定したかに見えた。しかしそれは、環境が変わって気が張っていただけだったらしい。自分と出奔して差し当たっての生命の危機だけは回避できたが、今も心労の原因が無くなったわけではない。それどころか、新たな罪を背負うことで、一層の罪悪感に苛まれているのだから。

 ルークはリエナの心の傷を癒すのが難しいのであれば、せめて身体にだけでも余計な負担をかけたくない――その思いが強かった。

 トランの村ではリエナも他の村の女同様、日々家事をこなしている。忙しいながらも立ち働く姿は明るく楽しげだったし、慣れない家事にも特に不自由しているようには見えなかった。リエナは長い旅の間に自分の身の回りのことはできるようになっていたし、また料理や裁縫も得意だからである。

 それでも、山間の村で暮らしていくために必要な様々の家事が楽なはずがない。幸い、村の女達から、体調が思わしくない時には手助けを受けることができている。けれど、リエナは王女である。旅に出る前はもちろん、凱旋後もムーンペタの離宮で大勢の侍女にかしずかれるのが当たり前の生活をしてきた。暮らしそのものが天と地ほども違うのである。本人も知らず知らずの間に無理を重ねてしまっていたのだろう。

(リエナは旅の間、決して弱音を吐かなかった。どんなに疲れていても、口に出すことすらしなかった。今も同じなのに、どうして気付いてやれなかったんだ……)

 そこまで考えて突然、ルークの脳裏に、あの秋の一夜、夜の床でのリエナの姿――神々しいまでに美しい裸身が甦る。

(あの時もそうだった。俺は、完全に自分を見失っていた)

 薄闇の中で横たわる豊かな曲線を描く肢体、淡く染まった肌。うるみを帯びた菫色の瞳。そして肌に散る、自らが咲かせた紅の花びらのなまめかしさ――すべて、自分だけが、数多の男のなかでただ一人、自分だけが見ることを許される姿。愛おしい、自分以外には誰一人、指一本たりとも触れさせたくない。自分の記憶だけを刻み付けたい。その激しい衝動に突き動かされたとしか、言いようがない。

 無我夢中で、まさに、貪るかのように、リエナを愛した。

 自分の想いにリエナは応えてくれた。今までにないほどの積極的な反応にルークはますます煽られ、より一層熱のこもった愛撫を繰り返した。すべてが終わった時、ルークは深い満足感に満たされたのだったが、リエナの方はひどく疲れた様子を見せ、そして翌日に熱を出した――苦い記憶である。

 リエナの身体に負担をかけたのは明らかだった。自分とリエナとでは体力に差がありすぎるのはわかり切っていたはずだったのに、どうしても自らを律しきることができなかった。

 あの一夜以来、ルークのリエナへの触れ方が変わった。

 無論、触れることをやめたわけではない。けれど、あの夜のように情熱の赴くままではなく、常にリエナの体調を気遣い、気を緩めた瞬間に溢れそうになる想いを無意識のうちに抑え付ける――いつしかそれがルークの習慣になっていった。

 まるで、繊細で壊れやすい硝子細工を扱うかのようだった――血の通った、あたたかい生身の身体ではなく。

********

(ルークは一体、何を考えているの?)

 最近になって、ルークのリエナへの態度が微妙に変わってきていた。

 傍目には変化があったようには見えない。ルークは今まで同様、日々の村の仕事や剣の稽古に勤しんでいる。リエナだからこそ気づくわずかなもので、変わったことは確かであっても、それが何なのかまではわからない。

(ルークとの会話だって……)

 この時リエナの脳裏に、ルークの言葉が浮かぶ。

『俺はリエナを自分の手で幸せにしたい』

 以前にも増して、ルークはこの言葉を繰り返すようになった。時には真っ向から、また時にはリエナを腕に抱いて。

(これだわ。わたくしが抱いた違和感の原因は……)

 リエナ自身にとっても、このうえなくうれしい言葉のはずだった。誰が聞いても、こんなにも愛されて幸せだと言うだろう。しかもルークは言葉だけでなく、行動でもそれを証明したのだから。

 村の人々、特に女達はリエナにしょっちゅうこう言っていた。

『リエナちゃんは、あれだけルークに大切にしてもらって幸せだよ。もちろん、リエナちゃんがそれだけの価値のある奥さんだからだけどね。それでもここまでっていうのは、めったにある事じゃない。たとえ駆け落ちでも、あんないい男と一緒になれて、よかったねえ』

 村の女たちが言う通りだった。自分は誰が見てもわかるほど、大切にしてもらっている。それなのに、ルークの口からこの言葉を聞けば聞くほど、重くのしかかってくるのも事実だった。

 しばらく前に、リエナは突然ムーンブルク崩壊の記憶に苛まれた。長い間思い出さずにいられたあの惨事がまざまざと甦って混乱し、最後には意識を失った。その時にもルークは、リエナが目覚めるまでずっと、腕に抱いていてくれていた。

 ――犠牲。

 今まで何度も反芻した、この言葉。混乱の最中にルークに向かって叫んだことも、かすかに記憶に残っている。

(ルークはわたくしのために、すべてを捨てたのよ)

 身体が震え始めているのがわかる。リエナは自分で自分を掻き抱いた。

(でもルークは……犠牲だなんて、考えていないのだわ。けれど、犠牲でなかったら、いったい何だというの?)

 自分が一人で負担に感じているだけ――そうなのかもしれない。けれど、あの時以来、ルークの自分へ対する気遣いが尋常のものではなくなっているのも確かだった。

 ルークは常に、自分を中心に生活を営んでいる。村の仕事――収穫時の村人の護衛や力仕事はきっちりとこなしたうえで、家事もできることは積極的に手伝ってくれている。体調を崩しがちな自分になるべく負担がかからないようにと考えてのことである。

 ルークの過剰ともいえる気遣いは、日常の生活にとどまらなかった。

 あの秋の一夜――二人の気持ちがほんのわずか、すれ違ってしまったあの出来事が、脳裏に甦る。

 知らず知らずのうちに、溜め息が漏れた。

 あの夜以来、ルークがまるで壊れ物に対するかのように自分に触れていたのは気づいていた。

 一向に解決の糸口が見つからないまま、このことがリエナの新たな悩みとなっていた。

(あの時、ルークはわたくしに謝っていた。おまけに翌日に熱を出してしまって……。ルークはわたくしに負担をかけたのだと思い込んでしまっているのに違いないわ。体調を気遣ってくれているからこそ……自分を、抑えて……。これも同じ、ね。ルークに犠牲を……)

 自分が想いに応えきれないがために、ルークに我慢を強いている。それが、たまらなくつらかった。しかも混乱して意識を失った日を境に、更にひどくなってきているのである。

(そうじゃないのに。わたくしだって、あの時みたいに……)

 思いがけない気持ちにリエナは戸惑った。はしたなさに、無理やりその思いを振り切った。

 最後はすれ違ってしまっても、あの時、このうえないほどに幸せだったのだ。ルークにすべてをゆだね、身も心も愛され満たされる――リエナにとっては新たに知った歓びにほかならなかった。

 ルークにそれを知って欲しい気持ちがあっても、今の状態では術がない。

********

 村の冬支度もそろそろ終わろうかというある日、ルークは思い切って問いかけた。

「リエナ、どうした? また最近、元気ないぞ」

「え? ……そんなことはないわよ」

 リエナはルークの方に振り向くと、無理に笑顔を作った。

「ムーンブルクを捨てたことを、後悔してるか?」

 予期せぬ問いに、リエナの表情が強張った。

「やっぱりそうだったのか」

 リエナは違うと答えたかったが、とっさに言葉が出ない。ルークの視線を真正面から受けられず、何も言えないまま視線を逸らした。

「お前のような責任感の固まりみたいなやつなら、罪悪感を持って当然だからな」

 リエナはようようルークに視線を合わせ、何とか言葉を絞り出した。

「ルーク……。そうじゃないの」

「何が違う?」

 ルークはリエナを抱きしめた。そのまま、リエナに言い聞かせるように話しだした。

「あのままお前がムーンブルクに残っても、死を待つだけだった」

 ルークは抱きしめる腕を少し緩めると、菫色の瞳を真っ直ぐに見つめる。

「気持ちはわかる、でもお前のしたことを責めるのは誰もできない。忘れるのが無理なのはわかってる。でもな、もう自分の幸せだけを考えればいい。俺はお前を幸せにしたい。そのために俺はここにいる」

 この言葉を聞かされるたび、ルークの意に反してリエナの心は傷ついていく。心の底からの本心だとわかるからこそ、つらかった。

 リエナはルークに問いかけた。

「ルーク、あなたは後悔していないの?」

 ルークの答えはわかっている。それでも、聞かずにはいられなかったのだ。

「ああ」

 予想通りだった。ルークはためらうことなく、そう告げた。

「あなたは強いのね……」

「別に俺が強いわけじゃないぜ」

 答えるルークの表情にまったく気負いは感じられない。

「自分なりに考え抜いて出した、結論だからな」

 リエナはしばらく無言でルークを見つめていたが、やがてそっと眼を伏せた。

 しばらくして、ルークの腕に抱かれたまま、リエナが呟きを漏らした。

「わたくしはいつもあなたに守られてばかりよ……」

「男が惚れた女一人、守れなくてどうする?」

 リエナはもう何も言えなかった。ルークもリエナの本当の気持ちを理解しようとしていなかったのかもしれない。

 二人の想いは平行線をたどるばかりだった。




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