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旅路の果てに
第8章 5
いよいよ秋も終わりに近づいた。朝夕はめっきりと冷え込み、暖炉の火が居間を暖かくなごませる季節になった。
リエナの体調は相変わらずだった。季節の変わり目のせいか、時折熱を出して寝込んでいた。その度、ますますルークの態度は壊れ物に対するようなものになっていく。
今もリエナは床に就いている。今朝は特に冷え込んだ。寒風のなか、戸外での家事を終えたリエナはだるさを覚えていた。例によって彼女は何も言わなかったが、ルークの方がすぐに気づき、半ば無理やり寝台に寝かせたのである。やはり疲れているのか、いくらも経たないうちに眠りに落ちた。
しばらくして浅い眠りから目覚めた後も、リエナは考え続けていた。
(わたくしはなぜ気持ちが晴れないのだろう。こんなにもルークに大切にされているのに。何よりも、ルークのそばにいること……絶対叶う事がないと思っていた、その望みが叶ったのに。あの地獄のようだったムーンペタの離宮での生活を思えば、今感じていることは、わがまま以外の何物でもないのだわ。わたくしが今、幸せなのは間違いないのよ。ルークに愛され、彼と暮らし、いちばん安心できる、彼の腕の中で毎晩眠ることができるのだから……)
――このままじゃいけない。
リエナにもそれはわかっている。けれど、どうしたら今の状況を打破できるのかがわからない。
リエナを幸せにすること――ルークは自分の義務であると考えている。拉致同然で連れ出した以上当然であり、また自身の望みだとはっきりと口にもしている。
けれど――。
(ルークは……わたくしがそれを重荷に感じていることは、わかってくれていない)
震える手が、思わず掛け布団の端を握りしめた。涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえる。ルークに泣いていることを気づかれてしまえば、また余計な心配をかけてしまう。
しばらく放心したように天井を見つめていた。
やがて、はっとしたように菫色の瞳が見開かれる。
(でも……、わたくしにも責任があるわ。わたくしは、きちんと自分の考えていることを伝えようとしていなかったのだから)
リエナは眼を閉じた。
(そう……何も言っていなかった。このままじゃ、何一つ解決しないというのに……)
傍目から見る限り、二人の仲はとても睦まじく、リエナがこんな悩みを抱えているなど、思いもよらないだろう。実際、今も村の女達はしょっちゅう二人の仲の良さを囃し立てるほどなのだから。
『リエナちゃんは、ルークに大切にしてもらって、幸せだよ』
事あるごとに村の女達に聞かされる言葉。この言葉が正しいことは、リエナ自身が誰よりも承知している。それほどルークのリエナへの愛情は深く見えたし、まぎれもない事実であったのだ。
ルークは繰り返す。『リエナを自分の手で幸せにしたい』と。
リエナは幸せなはずだった。けれど、その幸せが、ルークの犠牲の上に成り立っているのもまた、事実だった。
自分を救うために、幸せにするために、ルークはすべて――祖国ローレシア、王太子という地位、国王として国を采配する未来を犠牲にした。
同時にそれは、ルークが罪を犯したことを意味する。
王太子が義務も責任も放擲したこと。王族として生を享けた者が決して犯してはならない罪。
そして、リエナを救い出し、手に手を取って出奔したことは、客観的に見れば、次期女王の拉致に他ならない。
いずれも許されざる大罪である。しかも、この罪は一生償うことが叶わない。それをルークは、二つまでも犯したのである。
自分のためだけに。
――わたくしは、何と罪深いことをしてしまったのか。
リエナは犯した罪の重さに押し潰されそうになっていた。
ルークのそばにいるという幸せが大きければ大きいほど、罪の重さは増していく。
犠牲の上に成り立つ幸せ。
――わたくしが望んだ幸せは、本当にこれだったの? こんなにも罪深いものだったの!?
********
いつしか村の木々はすっかり葉を落としていた。トランの村は今年も無事に冬籠りの支度を終えた。間もなく初雪が降り、長い雪の季節を迎える。
この頃、エイミを始め村の女達が、度々様子を見に顔を出してくれる。時々寝付くようになったリエナを心配しての心遣いである。この日も、エイミはルークからリエナの体調が悪いと聞いて、ご自慢のあたたかいシチューを持って来てくれた。
「リエナちゃん、大丈夫かい?」
「ありがとうございます。……すこし熱があるだけだから、すぐによくなると思うわ」
リエナは微笑んで身体を起こそうとしたが、エイミがそれを遮った。
「いいから、そのまま寝てなさい。しばらく前まで調子がよかったのに、また最近よく寝付くって、ルークが心配していたよ」
リエナの表情がわずかに曇る。それを見て、エイミがかすかな溜め息を漏らした。
「……なんか悩んでるんだね」
リエナの心に一瞬、震えが走る。エイミに言われてしまうほど、自分は表情に表してしまっていたのか。
「やっぱりそうか。……でも、気づいてるのはあたしだけだろうね。少なくともルークは何にも、だろうさ」
リエナの内心を思ってか、エイミが続けて言った。いつものあたたかな表情には、どこかしら呆れたものが混じっている。
エイミは部屋の隅においてあった椅子を寝台の横に持ってきた。腰かけるとおもむろに口を開く。
「もしかして、おうちが恋しくなった? ……まあ、そんなことはないか」
エイミはちょっと笑う。リエナの悩みが違う部分にあることは承知の上で、敢えて言ってみたのである。
「リエナちゃん、ここの暮らしがつらいってわけじゃなさそうだもんね」
「ええ。トランはとてもいい村だもの。みなさんには、とてもよくしていただいているわ」
リエナの本心である。日々身体を使って働く村の暮らしは楽なものではないが、リエナはつらいと思ったことはない。
エイミは頷いた。
「うん、それはあたしたちもよくわかってるよ。……でもねえ」
リエナの表情が続きを問いかけるものになった。エイミがますます呆れたように続ける。
「男は、どうしようもない馬鹿だからねえ」
リエナは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「本当に馬鹿だよ。自分の恋女房が寝込むほど悩んでるのにね」
この言葉で、リエナはエイミが何を言いたかったのかを理解していた。と同時に、すっかり内心を見透かされているのを知って、表情を曇らせる。
「ああ、ごめんよ。別に、ルークの悪口を言ったわけじゃないから」
「あ、それはわかっているわ。……こちらこそごめんなさい」
謝るリエナに、エイミはあたたかく笑って見せた。まったく気に留めていないのがよくわかる。
「何もリエナちゃんが謝ることじゃないよ。別にルークに限らず、男はみんなそうだからね。もちろん、うちのジェイクもおんなじさ」
エイミになら、自分の気持ちを理解してもらえるかもしれない。リエナは思い切って、話し始めた。
「……ルークがわたくしのことを大切にしてくれているのは、よくわかるの。いつも気遣ってもらって、それなのに、わたくしの方は心配をかけてばかりで……」
「そうなんだよねえ。ルークくらい女房を大事にする男はいない。いい亭主だもんねえ。すごく強くて男前で、おまけに働き者だし。ルークみたいな男に大事にされてるのに、リエナちゃんは悩んでる。傍から見りゃ、リエナちゃんの方がわがままにみえるかもしれないさ――やっかいだよねえ」
リエナの表情がますます曇る。エイミは自分の悩み――無論その一部ではあるが、同時に核心部分でもある――を御見通しらしい。
「だからね、ひとつだけ言わせておくれ。何か言いたいことがあったら、遠慮しちゃいけないよ。ルークはね、そりゃあリエナちゃんの事を大事にしてるさ。だけど、男ってやつはね、女が何を考えてるのか、わかりゃしないんだよ。時にはね、はっきりと言ってやることも必要だよ」
エイミはふっと息をはくと、言葉を継いだ。
「――たとえそれが、相手を傷つけることになってもね」
リエナはどきりとした。一瞬ののち、思わずエイミに視線を向ける。リエナの表情は問いかけるようなものになっていたが、エイミは頷きを返しただけだった。
「エイミおばさん……。ありがとうございます」
「あんたたちは、あたしたちよりもずっと若いけど、あたしたちが想像もつかないような、いろんな経験をしてきた……、最近そんな気がしてならないのさ。もちろん、あんたたちの事情を詮索する気はないよ。ただ、そう思っただけ。いいかい、もう一回言うよ。ルークに何か言いたいことがあるんなら、全部言っちまいな。夫婦ってのはね、そういうもんさ」
言うだけ言うと、エイミは椅子から立ち上がった。寝台で横になったままのリエナの頬に優しく手をかける。
「さあ、ゆっくりおやすみ。家のことならいつでも手伝いに来てあげる。何も心配いらないからね」
エイミの手は、日々の家事仕事で荒れてはいたが、とてもあたたかかった。
********
エイミが帰った後もリエナは考え続けていた。
『男は、どうしようもない馬鹿だ』という言葉が頭から離れない。
エイミが言いたかった意味は、リエナにもよくわかる。要するに、男に察しろというのは無理だから、はっきりと言ってやらなければわからない、そういうことである。エイミはリエナがルークに言いたいことがあるのに呑みこんでしまっているのを見抜いての言葉だった。
(そうね。ルークにわたくしが何を考えているのか、話さないといけないわ。きちんと言葉を尽くして……)
エイミが来る前にも考えていた通り、今の自分に足らないのはルークに自分の考えを伝えること。もっと自分を理解してもらう努力が必要だった
解決への糸口が見つかって、リエナはちいさく安堵の息をはいた。窓へ視線を向けると、夕日が長く差し込んでいる。
(もうこんな時間。そろそろ夕食の支度をしないと……)
慌てて寝台から身体を起こした時、唐突に、疑問が浮かぶ。
(――ルークは幸せなの?)
リエナは最初、何故そんな疑問が浮かんだのか自分でも理解できなかった。無論、ルークが自分といて不幸だとは思わない。出奔はルーク自身の決断である。考え抜いたうえで出した結論だということも知っている。
(あなたはいつもわたくしの幸せを考えていてくれるわ。でも、あなた自身は?)
すぐに答えは見つからない。リエナは眼を閉じた。寝台の上に座ったまま、ひたすらに思考を追い続ける。
(……あ)
菫色の瞳がゆっくりと見開かれた。
(ルークはいつもわたくしを幸せにしたい。そう言うわ。けれど、一度だって、一緒に幸せになろうって言われたことはなかった――)
ずっと何かが引っかかっていた。何故こんなにも罪悪感に苛まれるのか、自分でも理解できなかったが、やっと原因がわかった気がした。
閉ざされていた視界が広がったようだった。
――わたくしは、ルークとともに人生を歩んでいきたい。
ただそばにいるだけじゃない。彼の後ろからついていくのでもない。手に手を取って、一緒に並んで、歩いていきたい。
一方的に幸せにしてもらうばかりでもない。もしルークが何かに苦しむことがあれば、彼を支え、一緒に乗り越えていきたい。
リエナはようやく、自分が何を望んでいたのかを理解していた。
けれど、これで解決したわけではない。リエナは自分の想いをルークに伝えなければならない。
しかし、いくら訴えても、ルークはおそらくすぐには理解できないだろうことは予想がつく。ルークは意志が強い分、頑な部分も持っている。ましてや、ルークは自身の意志でリエナを救った。見返りなど、微塵も求めてはいないのだから。
――けれど、このままじゃいけない。わたくしは、ルークと二人で、幸せになりたいのだから。
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