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旅路の果てに
第8章 6


 一段と冷え込みのきつい日だった。空はどんよりと曇り、風は刺すように冷たい。本格的な冬の訪れを前に、ルークとリエナが外に出ることも稀になっている。

 リエナは、ここ数日はなんとか起きられるようになり、今は夕食の準備をしている。ルークは居間で、日課となっている剣の手入れをしていた。台所にいるリエナが気になって仕方がないのに、剣を持つ手だけはいつもと変わらない手順を踏んでいる。

 夕食の準備が整った。リエナに呼ばれて、ルークも手入れを終えた剣を片づけると、台所に入っていく。リエナのいつもと変わらない笑顔と並べられた手料理のいい匂いに、ルークは急に空腹を実感して食卓に着いた。

「うまいな」

 ルークは満面の笑みで、次々と料理を口に運んでいる。

「うれしいわ。たくさん食べてね」

 リエナも微笑みながら、あっという間に皿を空にしたルークにお代わりを渡す。

 その後もたわいない話をしながら、夕食を囲んだ。一見、何の不足もない、幸せな新婚夫婦の団欒風景である。けれど、リエナの方は心の中では違うことを考えていた。

********

 夕食後、後片付けを終えたリエナは居間に戻った。ルークは床に座り込んで、今度は日常生活で使う、斧やナイフの手入れに勤しんでいる。リエナも長椅子に腰を下ろすと、縫い物を始めた。

 しばらくの間、黙々とそれぞれの作業をこなしていた。

 やがて、ルークが床から立ち上がった。手入れを終えた道具類をしまうために居間から出ていく。その後姿を見送ったリエナも、裁縫道具を片付け始めた。

 居間に戻ったルークは、リエナが縫い物をやめたのを見て声をかけた。

「疲れただろ。そろそろ、寝るか?」

 それには答えず、リエナは立ち上がった。意を決したように、菫色の瞳をルークに真っ直ぐに向ける。

「ルーク。あなたに話したいことがあるの」

 リエナの表情は真剣なものだった。そればかりか、顔色が蒼白になっている。ルークもいつもと違うリエナの様子に、戸惑いを隠せなかった。

「いったい、どうしたんだ? 顔が真っ青だ。体調が悪いのなら、なおさら早めに休んだ方がいい」

「いいえ、体調は大丈夫。どうしても今、あなたと話がしたいのよ」

 二人ともが立ったまま互いを見つめていたが、ルークの方が先に視線を外した。

「わかった。立ったままじゃなんだ、お前もそこに座れ」

 そう言って、長椅子に腰を落ち着ける。リエナもちいさく頷くと、すこし離れて、隣に座った。

「話って、何だ」

「あなたは、何故わたくしが最近よく寝付いてしまっているのか、その理由は何だと思っているの?」

「いきなり何を言い出すんだ?」

「お願い、答えて。あなたはどう考えているの?」

 リエナが詰問してくるのは、ルークにとって初めてのことである。余程重要な話なのだろうと考え、ルークも真剣な表情で答えた。

「お前はムーンブルク王家最後の一人でありながら、祖国を捨てた。その罪悪感に苛まれているんだろう? その心労が体調に影響している。お前は魔法使いだ。精神面での疲労が肉体面にもろに影響することは、俺も知っている」

 リエナの予想通りの答えだった。

「わたくしの精神面での疲労が健康に影響することはあなたの言う通りよ。でもね、最近の体調不良の理由は違うわ。そうじゃないのよ」

 やはりルークは誤解している。でもここではっきりと言わなければ、ずっと平行線のままだ。リエナは勇気を振り絞って、話し始めた。

「わたくしがムーンブルクを捨てたことに対して罪悪感を持っていないといえば嘘になるわ。あなたがそう考えるのもわかるの。でも、それとは違うのよ」

「それとは違う? どこがどう違うっていうんだ?」

 リエナの答えはルークには理解しがたいものだった。自ずと問い返す口調がきつくなる。リエナはルークの疑問には答えず、逆に問い返した。

「あなたは、わたくしがムーンペタの離宮でどんな扱いを受けていたか、知っているわね?」

「ああ。療養という名目での軟禁状態だった。復興事業の方も、対外的には指揮を取っていることになってたが、実際には何一つ知らされず、単なる飾り物の時期女王だった。そればかりかチャールズ卿と強引に婚姻を結ばされそうになり、挙句の果てには、生命まで狙われていた」

 ルークは淡々と答えた。が、声には抑え切れない怒りが滲み出ている。

「その通りよ。どれほどあらがおうとも、チャールズ卿によってわたくしが生命を落とすことになるのは避けられなかった。ムーンブルク王家直系の血も、ロトの血も、次代に残すことすら許されない状況だった……」

 リエナが眼を伏せた。語尾も震えているが、すぐに顔を上げて、再びルークに視線を向ける。

「……でも耐えるしかなかったわ」

「ムーンブルク復興のためだな」

「ええ。だから、軟禁されていても、復興事業がわたくしとは関係ないところで進められていても、耐え忍んで来たわ。――自分の手で復興する夢は潰えてしまって、たまらなくつらかった。でもね、わたくしがどんなに理不尽な目にあっていても、一番大切なことは、ムーンブルクが一日も早く元の姿を取り戻すこと。それがわかっていたから、仕方がないと諦めるしかなかったのよ。わたくしの手がなくても復興事業は順調に始まっていたし、民にとっては、復興を行うのがわたくしであっても、他の誰かであっても同じなのだから……」

 リエナはちいさく息をついた。

「……けれど、チャールズ卿との結婚だけは、どうしても了承するわけにはいかなかった。もちろん、わたくしがいずれはどなたかを王配に迎えなければならないのは承知していたけれど、チャールズ卿の目的を知っている以上、ムーンブルクを守るためには、どんなことがあっても、避けなければならなかった。だから宰相とも相談した上で、体調不良を理由にして断り続けてきたわ。できる限り時間を稼ぎながら、他の方法を模索していたのよ」

 この辺りの事情はルークもよく承知していた。

「当然だ。あの男の目的は、フェアモント公爵家への王朝交代だ。もっとも、やつらの言い分では、王位奪還らしいがな。王配の地位を手掛かりに、ムーンブルクの実権を手に入れ――」

 ルークは怒りに逞しい肩を震わせている。

「――あろうことか、お前を亡き者として、ムーンブルクを乗っ取ろうとした。手順はこうだろう。まず王配の地位を手に入れる。そして、お前の遺言書を偽造する。内容は、女王亡きあとには王配に譲位するというものだ。あらかじめ書面を作っておいて、お前を欺いて署名させる。女王直筆の署名がある遺言書さえ用意できれば、後はお前の生命を奪えばいい。ずっと体調不良で人前に姿を現していない女王急死の理由は何とでもつけられる。チャールズ卿が即位さえすれば、計画は成功したも同じだ。その後、あらためて妃を迎えて子を産ませ、その子を王位につける。これでやつらの、ロトの血を引かない王朝の誕生という野望が成就する」

 リエナは黙ったまま、頷いた。まさに、リエナが考えていた通りの方法である。

「最初は、単に王配の地位を利用してムーンブルクの実質的な支配者になるのが目的だと思っていた。王配になって世継ぎを儲け、早々にお前を退位させればいい。即位した世継ぎを陰から操るのは難しくないからな。だが、あの男がその程度の生ぬるい成果で満足するはずがないと思ったんだ。かといって、あの男本人が確実に即位するためには、お前だけでなく後継ぎも暗殺する必要が出てくる。お前の暗殺もそうだが、世継ぎの場合は更に困難になる。幼いうちだと、立て続けに二人も王族が亡くなれば、疑う人間も出てくるし、あまり時間を置くと、世継ぎ自身が成長して、暗殺そのものが難しくなる。遺言書を用意する方が簡単で確実だ」

 ルークが吐き捨てるように付け加える。

「しかも合法だ。女王直筆署名の遺言書は覆せない。いくら本文が偽造されたものでも、署名さえ真筆であれば本物になる。どこからも文句のつけようがない方法な分、余計に始末が悪い」

「すべてあなたの言う通りよ」

「婚約すら、時期女王であるお前の意思を無視して強行しようとした」

「ええ。わたくしには何一つ知らされないまま議会に諮られ、宰相以外のすべての人が賛成して決定していた。チャールズ卿から突然、婚約発表を……三日後に正式に発表すると知らされた時には、眼の前が真っ暗になったわ……」

 リエナは声を詰まらせた。

「もうすべてが終わった。わたくしにできることは、ムーンブルク女王として恥ずかしくない最期を遂げること――これしか残されていない事実を突き付けられたのよ……」

 リエナはふっと視線を外し、遠くを見つめる表情に変わる。

「……そしてその夜、あなたがわたくしの前に現れた。最初は信じられなかったわ。もう二度と会えないと思っていたから。あなたと言葉を交わすことも、腕に抱かれることもないと思い諦めていた。でも、あなたの腕のあたたかさに、幻ではないのだとようやく信じることができたの」

 リエナはルークに視線を戻した。

「わたくしのために危険を冒してまで会いに来てくれた……本当にうれしかったわ。その後のあなたの言葉――すべてを捨ててムーンブルクを出奔しようって言われた時もね、同じなのよ。もうこれで充分だって、思ったわ。ここまでわたくしのことを想ってくれているからこそ、あなたをこれ以上巻き込みたくなかったの。だから最初は拒否するしかなかった。けれど、あなたの言葉一つ一つは、乾ききったわたくしの心を潤してくれたわ」

「だが、俺が無理に連れ出したのも事実だ。事前に何の相談もせず、いきなり出奔を持ち掛けて、即座に肯えるわけがない。人一倍責任感の強いお前なら尚更だ」

「もちろん、すぐには決心できなかったわ。でもね、わたくしはあなたに再会して、自分がどれほどあなたのそばにいることを望んでいたか、その望みをどれだけ抑えつけていたのか、思い知ったの。いずれ生命を落とす運命なら、それまでだけでも、あなたのそばにいたかった」

 菫色の瞳から、涙がひとすじ零れ落ちる。

「だから、わたくしは、あなたが差し出した手を取ったわ。――自分の、意志で」

 リエナが真正面から、ルークに訴える。

「ムーンブルクからの出奔は、わたくしがあの場で考えて決めたこと。あなたは、わたくしがあなたの勢いに流された、そう思っているのかもしれないけれど、すべてを捨てたのは、わたくし自身の意志、なの……! お願い、それだけはわかって……!」

「お前の……意志」

 そのままルークは無言になった。リエナが本心を語っているのはわかる。が、正直なところ、すぐに納得できるものではなかった。けれど、普段は控えめであまり自分の意見を主張しない彼女がここまで訴えるからには、自分の方もきちんと受け止めなければならない。

 しばしの沈黙の後、ルークが口を開いた。

「……わかった。俺との出奔がお前の意志だというのなら、それでいい」

 リエナに向き合ったルークの表情も、今まで以上に真摯なものだった。

「……冷静になれば、当たり前の話だ。お前が考えなしで祖国を捨てるはずがない。俺の思い込みが強かったのは否めない。……悪かった」

「……ありがとう。どうしても、これを最初にわかって欲しかったの」

「最初に……ってことは、まだ話の続きがあるんだな?」

「ええ」

「何でも聞く。だからお前も歯に衣着せず、はっきり言ってくれ」

 リエナは頷いた。一つ呼吸を整えると、ゆっくりと言葉を選びながら話を再開した。

「わたくしの体調不良の本当に理由はね、こんなにも幸せにしてもらっているのに、あなたに何一つ、返すことができなくて、それがつらくてたまらなかったからなの」

「……俺に、返せない?」

「そう。何も返せない。あなたに窮地から救われ、安住の地も与えられたわ。ここに移ってからだって、いつもわたくしを気遣ってくれている。今わたくしは、本当に幸せなのよ。でもね、幸せにしてもらうばかりで、わたくしからは何も返せない……」

 リエナの話す理由は、ルークの予想だにしないものだった。

「何故俺がお前に何かを返してもらう必要があるんだ? お前が自分の意志でムーンブルクを捨てたのと同じように、俺もすべてが自分で決めたことだ」

「あなたがそう考えるのはわかるわ。でも、どうしても嫌なのよ……! 一方的に幸せにしてもらって、守られるばかりだなんて」

「それこそ、俺自身の意志だ。第一、男が惚れた女一人守れなくてどうする?」

 これもリエナの予想通りの答えである。やはり、ルークにはもっとはっきりとした言葉で伝えなくては理解してもらえない。

「あなたはいつも『自分の幸せを考えろ』そう言ってくれたわね。でも、わたくしにとっては、何よりもつらい言葉だったわ……」

「何故だ!? 」

「わたくしが自分の幸せを考えれば考えるほど、あなたに犠牲を強いることになるからよ」

「犠牲? ……そういや前にも、そんなふうに言ってたな」

「そうよ。あなたは、わたくしの犠牲になった」

「俺がいつお前の犠牲になったって言うんだ?」

 ここまで言われても、ルークは理解できない、といった表情のままだった。それを認めて、菫色の瞳に苦悩の色が滲む。リエナの口から、今まで抑えてきた言葉があふれ出た。

「あなたがわたくしを救うためにしてくれたこと。それが犠牲でなくて、いったい何なの!? あなたはわたくしのために、すべてを……、祖国も地位も、ローレシアの国王となる未来までをも捨てた。それだけじゃない、罪を……、それも決して許されることのない大罪を二つまでも犯したわ! 一つはわたくしと同じ、国を継ぐべき身でありながら、祖国を捨てたこと。もう一つは、他国の次期女王の拉致。もし、ムーンブルクからの追手に見つかれば、あなたは罪を免れることはできないわ。わたくしさえいなければ、あなたがこんな犠牲を払う必要なんてなかった。一人の女として、あなたに心から愛されている幸せと、わたくしの幸せのためにあなたが犠牲になったことへの罪悪感。その二つの感情に引き裂かれそうだったのよ! それが、わたくしの心をずっと苦しめていた……。なんて、罪深いことをしてしまったのか……と……」

 リエナは一気に言うと、瞳に涙をいっぱいにためて、うつむいた。泣きだしたいのを必死にこらえている。

「それでもわたくしは、あなたと暮らしたい。毎晩あなたの腕に抱かれて眠りたい。一生あなたのそばにいたい……!」

 リエナは華奢な肩を小刻みに震わせながら、必死に言葉を紡ぎ続けている。

「あなたの犠牲の上に成り立っている幸せなのに……。でも、わたくしは、この幸せを……失いたくない……」

「それの何がいけない!? 俺はお前を幸せにしたいんだ!」

 ルークは思わず声を荒げていた。リエナが何を言いたいのか、未だに理解できないでいる。

「わかっていたわ! あなたは心の底からそう考えてくれているからこそ、言ってくれている言葉だっていうことも、あなたが自分が犠牲になったなんて考えていないことも!」

「そうだ。俺はお前を自分の手で幸せにすると誓った。犠牲だなんてこれっぽっちも思っちゃいない。それのどこに問題があるんだ!?」

「あなたに幸せにしてもらうばかりじゃ嫌なの。わたくしも、あなたを幸せにしたい。あなたが苦しむことがあれば、一緒に乗り越えていきたい。あなたの後ろをついていくのではなくて、あなたと並んで歩いていきたい……!」

 振り絞るように言葉を紡ぎ続けるリエナの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

「わたくしは、二人で、幸せになりたいのよ! そのために、すべてを捨てたの!」

 ルークの深い青の瞳が驚愕に見開かれた。衝撃のあまり、微動だにできないでいる。

 リエナも涙を拭うこともせず、ルークを見つめている。

 互いに互いを見据えたまま、長く重い、沈黙の時が過ぎた。ルークはリエナの言葉の意味を必死になって探っていた。

 ようようルークが口を開く。

「二人で、幸せに、なりたい……?」

 ルークはリエナの言葉を繰り返した。リエナはそれ以上何も言えないまま、頷いた。

 必死の想いでルークを見つめるリエナの細い肩が震えている。しかし今のルークは、リエナに触れることが、どうしてもできなかった。

 ルークが誓った、

――リエナを自分の手で幸せにする。

 リエナの言った、

――二人で幸せになりたい。

 この二つは、一見同じような意味に見えて、実のところはまったく違う。リエナが真に望んでいたのは、一方的に庇護されるのではなく、いついかなるときにも、互いが互いを支え合い、二人で手に手を取って生きていくこと。

 それを、ルークはようやく理解できていた。しかし、まだ衝撃からは立ち直れずにいる。

 再び沈黙が落ちた。

 やがて、呆然とリエナを見つめつづけていたルークから呟きが漏れる。

「俺は……、俺は今まで、一度も一緒に幸せになろうって言ったことがなかった。いつも、自分の手でリエナを幸せにしたいと、それだけを言い続けてきた」

 ルークはがっくりと肩を落とした。

「お前の気持ちを考えず、自分の考えを押し付けてばかりだった……そういうことだったんだ」

 やり場のない怒り――愚かだった自分への怒りに震えている。

「……リエナ、すまない。俺が、悪かった」

「……いいえ。あなたが悪いのではないわ。わたくしにも、責任があるのよ」

 リエナはゆっくりとかぶりを振った。

「自分が何を考えているのか、あなたに伝えて、理解してもらう努力をしてこなかったもの。謝らなければいけないのは、わたくしの方よ。……ごめんなさい」

「こういうことを、俺に話すのもつらかっただろ?」

「ええ。――でも、話せてよかったわ。最後まで聞いてくれて、ありがとう」

 リエナはゆったりと微笑んだ。何かが吹っ切れたような、穏やかな笑みだった。




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