旅路の果てに
第10章 2
翌日、ラビばあさんは約束通りリエナを訪ねて来た。
「リエナちゃんの具合はどうじゃ」
玄関先で出迎えたルークを見上げてラビばあさんが聞いた。
「昨日からずっと寝てるぜ。そのおかげか、今は落ち着いてる」
「それならよかった。――邪魔するからの」
「よろしく頼む」
ラビばあさんはわかっていると頷き、ルークが寝室に案内した。リエナはルークが言った通り、おとなしく寝台に横になっている。顔色はまだやや青ざめているものの、苦しそうな表情は見えない。ばあさんはほっとしつつ、リエナに声をかけた。
「気分はどうじゃ」
「おかげさまで、だいぶ良くなりましたわ」
「じゃあ、話を聞かせてもらおうかの」
ルークはリエナが起き上がるのを助け、ラビばあさんに椅子を持ってきた。ばあさんはよっこらしょと座るとリエナに向き合った。けれど、まだルークは傍らに立ったままである。
「――ルーク、まだおったんか。ほれ、亭主は邪魔じゃ」
ばあさんは素っ気ない。
「やっぱり、俺はここに居たらいけないのか?」
よほど心配なのか、ルークはリエナの隣から一向に動こうとしないのだ。
「昨日もそう言ったはずじゃが、もう忘れたのか?」
ばあさんは呆れた声を出した。リエナも言葉を添えた。
「ルーク、ごめんなさいね。お話が終わったら、わたくしからきちんと説明するから」
「……仕方ない。ばあさん、リエナを頼む」
「そう長い時間はかからん。適当に戻ってきてくれて構わんからの」
まだルークはそばにいたそうだったが女二人には勝てない。
「じゃあ、裏庭で剣の稽古をしてるから、何かあったらすぐに呼んでくれ」
そう言って、不満そうな顔をしながらも部屋から出て行った。
「やれやれ、やっと出て行ったわい」
「申し訳ありませんでした」
「リエナちゃんが謝ることじゃない。ちっとばかり心配しすぎとるだけじゃ」
ばあさんの表情がいたわるようなものに変わった。
「――リエナちゃん、おまえさんには色々と事情がありそうじゃな。ルークと二人でトランに来たいきさつについては、ジェイクとエイミから話は聞いとるが」
「お二人から、わたくし達のことを聞いていらっしゃるのですね?」
ばあさんは頷いた。
「ルークは元は騎士様、リエナちゃんが領主のお嬢様で結婚を反対されて駆け落ちしてきた。ルークの腕を見込んだジェイクが頼み込んで、ここで用心棒をすることになったとな。その礼代わりに、村ぐるみでおまえさん達を匿うとも聞いておる」
「その通りですわ」
リエナは頷くと同時に安心していた。ラビばあさんが事情を把握していてくれたからだった。村に着いた当日、ジェイクは村人を集めて自分達のことを説明してくれたのだが、その場にばあさんはいなかった。けれど、ジェイクとエイミがきちんと説明してくれていたのだ。
「わしはおまえさん達の素性を詮索する気はないから、心配せんでええ。ただ、いくつか確認したくての」
「……はい」
「リエナちゃん、おまえさんは自分の身体が今どういう状態か、わかっておるようじゃな」
「あの……」
リエナは答えにくそうに言い淀んだが、隠しても無駄である。正直に答えた。
「今のわたくしでは……、赤ちゃんを授かるのは無理なのですね」
ラビばあさんは、やはりそうだったかと溜息をついた。
「その通りじゃ」
リエナも自分ではわかっていたはずなのに、あらためて事実を突き付けられて、表情がつらそうなものに変わる。
「昨日おまえさんがわしに聞きたいと言っておったのは、このことじゃな?」
「……はい」
「はっきり言うが、おまえさんは身体全体がぼろぼろじゃ。原因は全身が冷え切っとることじゃの。特に腰がひどい。しょっちゅう熱も出しとったって聞いとるし、これだけひどくなるのはよほどのことじゃ」
リエナの表情がわずかに強張ったのを、ばあさんは見逃さなかった。
「思い当る節があるんじゃな」
「……はい。おっしゃる通りですわ」
リエナは目を伏せた。長い睫毛が震えている。原因は最初からわかっている。2年にも亘る過酷な旅、特に終盤でのロンダルキアの厳しい寒さのせいだった。
「さっきも言うたが、おまえさんにその辺りの事情を詮索する気はない。余程のことがあったのだということだけわかればええ――ところで聞くが、今まで、治療をしたことはあるんか?」
「はい。ここに来る前には」
「そうか……治療に使っていた薬草の名前は聞いておるか?」
「はい。詳しくではありませんけれど……」
リエナはいくつかの薬草の種類を挙げていった。ばあさんは頷きつつ聞いていた。いずれも非常に高価で薬効に優れたものばかりである。
「それを使ってもよくなっとらんということは、単に身体だけの原因ではなさそうじゃの」
ばあさんは考えを纏めつつ、話を続けていく。
「おまえさん、今はこの鄙びた村でルークと暮らしておるわけじゃが、ここでの暮らしがつらいということはないか? 貴族のお姫様が小間使いもなしで生活するんじゃ。色々と苦労はあると思うが」
「いいえ」
リエナは即答した。真剣そのものの表情で、とても嘘を言っているようには見えない。
「つらいなどと一度も思ったことはありませんわ。村のみなさんは本当によくしてくださっていますもの。それに、これも聞いていらっしゃると思いますが、村に来る前にルークと旅をしてきた経験があります。わたくしは確かに貴族の出身ですが、家事も自分の身の周りのことをするのも慣れておりますから」
「なるほどな」
ラビばあさんはしばらく考え込んでいたが、やがて頷いた。
「おまえさんが故郷で治療を受けても良くならんかった理由がわかった気がするの」
リエナは内心でどきりとした。優秀な薬師であるラビばあさんには、何も隠し事はできないのだと悟っていた。
「原因は心労、それもトランに来てからではなくて、故郷で、じゃな」
予想通りの言葉に、リエナはムーンペタでの出来事を思い出していた。
***
言うまでもなく、リエナの心労の理由は、チャールズ卿による王位奪還の陰謀による極度の緊張状態が続いたことである。
旅を終えたリエナは、ムーンペタの離宮に帰国後もずっと体調不良を自覚していた。2年に及ぶ過酷な旅は、彼女の健康をすこしずつ蝕んでいたのだ。特にロンダルキアへ移動してからは、厳しい寒さの中、身体全体が常に冷え切った状態が続いていた。
それでも、目標達成を目前に控えたリエナは進むことをやめようとしなかった。自分でも既に体力の限界に来ていたことを自覚していたから、すこしでも体力と魔力を回復できるよう、できる限りの対策はとっていたのだ。もちろん、ルークとアーサーも協力を惜しまなかった。
そして、身体を壊す直接の原因となったのは、大神官ハーゴン、破壊神シドーとの最終決戦で、魔力の限界を遥かに超えたことだった。
凱旋後はじめてリエナを診察した侍医は、予想以上に悪化していた彼女の健康状態に顔を曇らせた。
まさに、気力で持っていたとしか言いようがない状態だったのだ。なまじ強大な魔力を持つ魔法使いだけに、並外れた精神力が今にも倒れそうな身体をかろうじて支えていたのだ。
そして、一番の問題は、これが原因でリエナはすぐには懐妊を望めなくなっていたことだった。無論、適切な治療を施せば治癒するものだが、かなり長期間の療養が必要になる。すぐさま侍医は、手に入りうる限りの薬草を集めて処方し、なるべく安静を保って体力を回復するよう指示した。
同時に、侍医はチャールズ卿と宰相カーティスに報告したうえで、この事実をリエナの告げるかどうかを相談した。結論は、リエナには知らせず治療を進めるとなったが、リエナは自分の状態と周囲から聞こえてくるわずかな情報から、現在の病状を正確に知ったのだった。
しかし、侍医の懸命の治療にもかかわらず、リエナの病状は一向に改善の気配がなかったのである。それほどに、リエナの置かれた境遇は過酷なものだったのだ。
***
リエナの表情がまた曇ったのを見て、ばあさんが慌てて謝った。
「――ああ、すまんかった。嫌なことを思い出させたようじゃ。具体的にどんなことがあったかは言わんでええが、心労があったかどうかだけは、答えてくれんか。それによって、治療の方法が変わるでな」
「……はい。つらい、日々でした。そこからルークはわたくしを救ってくれたのです」
「だから、駆け落ちしてきたのか」
「……はい」
ようよう答えを返したリエナに向かって、ばあさんは神妙な顔で頷くと、頭を下げた。
「つらいことを思い出させたことは謝る。これからはもう同じ話を聞くことはないから、安心するがええ」
「……申し訳……ありません」
「リエナちゃんが謝ることじゃない。謝らないといけないのはわしの方じゃ」
「そんな……」
リエナはゆっくりとかぶりを振った。ラビばあさんはいたわるような表情を見せると、あらためてリエナに向き合った。
「薬草はいずれもおまえさんの症状に合っている。種類と言い組み合わせ方と言い、薬師はかなりの腕前だったようじゃな。それでよくならんかった理由は、ずばり心労のせいじゃ」
リエナがわずかに頷きを返した。
「おそらく、そうだと思います」
「そう言えば、リエナちゃんは魔法使いとか」
「はい」
「なんでも、魔法使いは精神面での好不調が体調に大きな影響を与えるそうじゃな」
「おっしゃる通りですわ」
ばあさんの言う通りだった。しかも、体調に与える影響の度合いは魔法使いが持つ魔力に比例するから、リエナのような強大な魔力の持ち主であれば、影響は非常に大きなものになるのである。魔法使いは己の魔力を精神力で制御する。精神が健康でないと、肉体に大きな負担がかかるのだ。魔法使いである以上、どうしようもないことだった。
「やはり、そうか……」
ラビばあさんは頷くと、表情が一段と真剣なものに変わる。
「最後に、もう一つだけ確認したい。リエナちゃんは、赤子を望んでおるのか?」
突然のこの問いに、リエナは即答できなかった。
「実はの、わしが今日ここに来た一番の目的は、リエナちゃんからこの答えを聞きたかったからじゃ。亭主の前では本音は言いづらかろうと思うての、ルークには席を外してもらった」
その言葉を聞いて、リエナは大きな瞳に涙をためた。
「……自分でもよくわかりません。でも、今は……赤ちゃんを産むわけにはいかないのです。ですから……」
「じゃが、治療もせずにほっといたら一生産めなくなる。それでもええのか?」
「……それでも、仕方ありません」
そう言うと、顔を伏せた。ラビばあさんはリエナの背中を優しく撫で始めた。まだ結婚したばかりの若い妻がここまで言うのは余程のことである。ばあさんはさっきもリエナに言った通り、これ以上事情を詮索する気はない。しかし、薬師として言うべきことがある。
「ちゃんと治療はせんといかん。このままでは、単に赤子を授かることができないだけじゃなく、他の病気にも罹りやすくなる。それにの、もっと月日が経って暮らしが落ち着いたら、産んでもようなるかもしれん。その時になって、リエナちゃんもルークも赤子が欲しくなったら後悔することになるぞ」
ラビばあさんの言葉に、リエナはすすり泣き始めた。
「ええか。まずは身体をきちんと治すこと。今のおまえさんにはそれが一番大事なんじゃ。こどもを持つかどうかは、身体が治ってから考えても遅くない。その時になったら、ルークとよくよく話し合って、二人で決めたらええ」
「おっしゃる通り……ですわね」
リエナは涙を拭いながら、ようやくそれだけを返した。
「ルークにはわしから話そうかの?」
「いいえ、わたくしが自分で……」
「わかった。何かあったらいつでも相談にのる。新しい薬草を渡すから、それを飲んで、そうじゃな、あと一週間はあたたかくして寝てなきゃいかん。後はなるべく滋養のあるものを食べて、できるだけ安静を保つように。――ええな?」
「……はい、ありがとうございました」
「それにの、既におまえさんは快方に向かっておるはずじゃ」
「……本当ですか?」
涙に濡れたリエナの瞳に、ようやく明るい光が宿った。
「わしは嘘は言わん。ただし、今はまだ底を脱したと言う程度じゃ。わずかずつゆえまだ目に見えるほどには回復しておらんがの」
「その理由は、わたくしがルークと二人でトランの村で暮らしているからですね。そのことで、以前の心労がなくなってこれから良くなっていくのだと」
「まさに、その通りじゃ」
ばあさんは説明を続ける。
「おまえさん達がトランに来て早数ヶ月経っておるが、今まで良くならなかったのは、薬草を使うのを止めたことと、新しい生活に慣れるまでどうしても無理をしがちになったこと。それと、やはり冬の寒さが原因じゃろ。けれど、今のおまえさんはとても幸せそうに見える。どうやら、ここの暮らしが合っているようじゃの」
「ええ。わたくし達を受け入れてくださった村のみなさまには、本当に感謝していますわ」
「何よりいいのは、ルークと仲睦まじく暮らしておることじゃ」
そう言って、ラビばあさんはにんまりと笑った。
リエナの頬が染まる。実のところは、ここに来てからルークと深刻なすれ違い――秋の日の出来事もあった。それが原因で、寝付きがちになった時期もある。けれど、あの初雪の日にそれが解決して以来、二人の互いへの愛情と絆はますます深いものになっている。
「ほんに、ルークのリエナちゃんへの惚れようは、見ているこっちがあてられるほどじゃからの」
恥じらいから何も言えなくなっているリエナに、ばあさんはまた明るい笑みを見せた。
「治療を始めるが、それでええな?」
「はい、よろしくお願い致します」
リエナはしっかりと頷いた。
ちょうどそこへ、寝室の扉をたたく音がした。待ちきれなくなったルークが戻って来たのだ。
ラビばあさんは椅子から立ち上がると、扉を開けた。
「話なら済んだ。入ってもええぞ」
「ばあさん、世話になった。ありがとうよ」
ルークは部屋の中に入り、すぐにリエナの手を握る。彼女の顔には泣いた跡があるが、表情は暗いものではない。ルークはほっと胸を撫で下ろしていた。ラビばあさんがルークの横から声をかける。
「もう心配はいらん。あとはゆっくり、リエナちゃんから話を聞くんじゃぞ」
「あらためて礼を言う。――実のところは、気が気じゃなかったんだ」
ルークが頭を下げると、ばあさんはわかっているとばかりに頷いた。
「リエナちゃんには言うておいたが、あと最低でも一週間は寝ていなくちゃならん。新しい薬草を渡すから、今夜からそっちを煎じて飲むんじゃ。ああ、エイミにもこのことを伝えておくからの。そうすれば、家のことは村の女達がやってくれるじゃろうから、遠慮なく頼むがええ。明日から本格的に治療する。当分の間、毎日通ってくるから頼んだぞ」
「毎日通ってもらわないといけないほど、悪いのか?」
ルークの声がまた心配なものに変わる。
「状態がいいとはお世辞にも言えん。じゃがの、きちんと治療さえすれば必ず治る。このわしがついておるから、大丈夫じゃ」
ラビばあさんの表情は薬師としての自信に満ちたものだった。ルークもばあさんになら安心してリエナを託せるとわかっていた。
「リエナをよろしく頼む」
ルークはあらためて頭を下げた。
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