旅路の果てに
第10章 3
ルークは玄関までラビばあさんを送り、寝室に戻ってきた。心配で仕方のない顔で、リエナをそっと抱きしめてくちづけると、寝台の端に座った。
「結局どこが悪いんだ? 昨日お前が倒れた時には、エイミから流産かもしれないから動かすなって言われたんだが、それとは違ったんだよな?」
「エイミさん、そんなことを?」
「……ああ」
「わたくしのお腹には、赤ちゃんはいないわ」
「……そうか」
ルークはすこしばかり複雑な顔をしている。そして、リエナがそれを残念に思っているのかどうか聞こうと口を開きかけたが、思いとどまった。ルーク自身も、今のリエナに聞いていいのかどうか判断がつかなかったのだ。
リエナはゆっくり言葉を選びながら、話し始めた。
「はっきりどこが悪いというものではないわ。でもね、ラビおばあちゃんに言われたの。わたくしの身体はぼろぼろだって。身体全体が冷え切ってしまっていて、特に腰がひどいそうよ」
ルークはそれを聞いて、ようやく昨日のリエナの状態を把握していた。
「お前がそこまで健康を損ねたのは、旅が原因だな? 特に、ロンダルキアでだ」
「ええ、おそらくは」
ルークは大きな溜め息をついた。
「――何故俺はもっと早くに気づかなかったんだ。お前は人より精神力が強い分、身体にかかる負担も半端じゃないことくらいわかりきっていたはずだ。俺さえもっと気をつけていれば……」
「お願い、ルーク。自分を責めないで。あなたとアーサーは充分にわたくしを気遣ってくれていたもの。わかっていて無理を重ねたのは、わたくし自身なのだから――」
リエナはうつむくと言葉を継いだ。
「確かに、わたくしの身体がそうなってしまったのは旅が原因だわ。ただ、ここまで悪化したのはムーンペタに戻ってからだと思うの」
「心労のせいだな?」
リエナは無言で頷いた。
「もっと早くに俺が決心していれば、お前がここまで悪化することはなかったんだ」
ルークは思わずリエナを抱きしめていた。やり場のない気持ちに逞しい腕が震えている。
リエナは強大な魔力を持つ魔法使いであるがゆえに、精神面の健康が肉体面に大きな影響を与える。ルークはこの事実をよく知っていた。旅の間にもリエナは何度か意識を失っている。いずれも直接の原因は魔力の限界を超えたことだった。精神の極度の疲労に肉体が耐えられず、肉体の活動を最小限に抑えてその間に精神面の回復を図るのだ。
最終決戦後にもリエナは同じ状態に陥った。戦いの激しさを物語るように、リエナの意識の回復にも丸一日を要したのだ。その後も、ロンダルキアの祠でしばらくの間養生をしなければ帰国もできないほどに状態はひどかった。
帰国後も、サマルトリアとローレシアでの凱旋を祝う行事続きでリエナの疲労はたまっていった。それでも、体調がすぐれないときには行事を欠席したりしながら――もっとも、ローレシアではルークと接触する機会を避けるためでもあったが――養生を続け、ムーンブルクに帰国する時にはある程度の健康を取り戻したかに見えた。しかし、ムーンペタの離宮での心労が精神面での疲労に繋がり、治り切っていない肉体面に深刻な影響を与えたのだった。
「お願い、ルーク。そんなふうに言わないで」
リエナはルークを見上げた。
「あなたはずっと、わたくしを救う為に努力を続けてくれていたのですもの。あなたのおかげで、今わたくしはこうして生きていられるのだから」
「だが、俺の力不足のせいで、お前の健康状態が余計に悪くなったのは事実だ」
「わたくしはあなたに救ってもらったわ。もし、あのままムーンブルクに残っていたとしたら、わたくしの生命は残りわずかだったはずよ。それを思えば、今のわたくしは……」
リエナは何故か、ここで言葉を濁した。
「リエナ」
ルークは抱きしめていた腕を緩めると、リエナを真っ直ぐに見据えた。
「お前がばあさんに言われたのは、それだけか? もっと他にも話があるんじゃないのか」
リエナは一瞬、ルークをじっと見つめた。わずかに躊躇いを見せた後ようやく口を開いた。
「今のわたくしの身体では、赤ちゃんを授かるのは無理なの。はっきりと言われたわ」
ルークの表情が何とも言えないほどに、つらそうなものに変わる。
「……こどもを、授からない?」
予測すらできない事態だった。告げられた事実がどれほどつらいことか、それを思うとリエナにかけるべき言葉が見つからない。
しばらく二人とも口をつぐんでいたままだった。ルークの頭の中で、何度もリエナの言葉が繰り返される。
かなりの時が過ぎてすこし落ち着きを取り戻したルークは、ようやくラビばあさんに言われたことを思い出していた。
「今のお前の身体ではってことは、治療さえきちんとすれば治るんだな? ばあさんもそう言ってたはずだ」
リエナは頷いた。
「その通りよ。……ラビおばあちゃんに叱られたわ。このままほうっておいたら一生産めなくなるって。わたくしはそれでも仕方がないと思っていたのだけれど……」
「お前、まさか……」
「ええ、ムーンペタでも治療を受けていたの。でも、よくはならなかった」
ルークは耳を疑った。自分の思いとは裏腹に、口調がいつになく厳しいものに変わる。
「どうして今まで隠していたんだ? そんな大事なことを!」
「……ごめんなさい」
リエナ震えながら謝った。ルークも責めるつもりはなかったのだが、リエナが自分に何も言わなかったことがどうしようもないほどにやりきれなかった。これを知った時のリエナの苦悩は想像するに余りある。次期女王として最も重要な義務を果たすことができないのだから。
「決して隠していたつもりはなかったのよ。知っていたとは言っても、ムーンペタで侍医にはっきりとそう宣告されたわけではなかったから。でも、自分の体調と周囲の様子から間違いないだろうって思っていたの。それが結果として正しかったっていうこと。……でも、あなたが怒るのも無理はないわ。何も話していなかったのは事実だもの」
「……何でもっと早くに相談しない? 約束しただろ?」
ルークはようよう言葉を絞り出していた。どうしても責める口調になってしまうが、自分でも抑えられなくなっている。
リエナはそれについては答えず、再びルークに視線を向けた。
「ルーク、あなたにもう一つ謝らなくてはいけないことがあるの」
「謝る?」
「ええ。あなたと出奔した理由の一つ……いいえ、もしかしたら一番大きな理由はね、このことを知っていたから。――わたくしがムーンブルク王家とロトの血を次代に伝えることができないからなのよ」
話し続けるリエナの表情は痛ましいものだった。この時置かれたリエナの境遇がどういうものであったか、ルークには嫌と言うほどわかる。
リエナはチャールズ卿との結婚が決まっていた。当然、世継ぎとなる卿との子を儲けることが義務となる。国のためと言う大義名分のもと、憎しみと嫌悪しかない男、しかも、女王の夫という地位を足掛かりに王位簒奪を目論んでいる男に身を任せなければいけないのだ。リエナが受ける苦痛は想像を絶するに余りある。
しかも、リエナはどれほどの苦痛を味わっても義務を果たすことができないのだ。またチャールズ卿は、リエナがいくら病気だからと言っても、病状が回復するまで待つわけがない。当然のように要求し続けるだろう。そしてリエナは卿を拒むことは決して許されないのだ。その状態が長引けば長引くほど、リエナの苦痛も長引く――そして苦しんだ挙句に待っているのは、非業の死、だけなのだから。
その時唐突に、ルークに疑問が浮かんだ。リエナが健康であって、後継ぎを期待できる状態であれば、どうだったのかと。
「じゃあ、もしお前が……」
思わず口に出してしまったものの、ルークは続きを言うことができなかった。もし病気でなければ自分についてこなかったのかなどと、聞けるわけがない。
けれど、リエナの方は察したのか、かすかに頷きを返した。
「そうね。もしわたくしが健康だったとしたら……、最後まであなたの誘いを断ったかもしれないわ。女王として国に殉じる覚悟はできていたから」
「……リエナ」
ルークは再びリエナを抱きしめる。リエナはルークの腕の中で、言葉を継いだ。
「でもね、何もかもを捨てても、あなたのそばにいたかった。だから、わたくしはあなたの手を取ったわ――これも真実なのよ。それだけは、理解して欲しいの」
「ああ、わかってる。お前がぎりぎりまで考えた上で出した結論だ」
「わたくし自身、今はまだ自分でもこどもを望んでいるのかどうかはよくわからないのよ。でも、一つだけはっきりしているわ。もし赤ちゃんを授かっても、今のわたくしではうれしいとは思えない……」
リエナの表情は、言い知れぬほど寂しげだった。それを見て、ルークはリエナが今まで言わなかったのではなく、どうしても言うことができなかったのだとようやく理解していた。
「さっき、何故もっと早く相談しないかって言ったのは謝る。明らかに俺の考えが足らなかった」
「いいえ、あなたがそう思うのは当然のことだわ」
「当然、追っ手のことだって考えに入れないといけないのにな――決して油断してたわけじゃないが」
ルークがあらためてリエナに向き直った。
「幸いここに来てからまだ一度も追っ手の気配は無い。だが、もしお前が身籠った後に見つかったとしたら――お前、その状態で移動の呪文は難しいだろ? 普通に発動するのならともかく、呪文の痕跡を消すのは身体にかかる負担が大きすぎる」
「……そうね。無理してできなくはないけれど、目的地に着いた後にどうなるかまでは自分でもわからないわ。意識を失ってしまうだけで済めばいいけれど……」
リエナは言葉を濁したが、ルークには彼女が何を言いたいのかはわかっている。だから、それには敢えて触れずにおいた。
「無事に産まれた後だとしても、もっと事態は難しくなるな」
「ええ。――こどもはもちろん、わたくしの生命に代えても守るわ。でも、こどもがいることを知られてしまったらチャールズ卿は容赦しない。間違いなく、執拗に追い続けられる……」
リエナは振り絞るように話し続ける。
「それにね、わたくしが産んだこどもは、ムーンブルクの後継ぎになるのよ。いくらわたくし達がすべてを捨てていても、周囲はそうは考えてくれない。そして、あなたとのこどもである以上、ローレシアにとっても同じことだわ。ム−ンブルクとローレシア、両方の王位継承争いに巻き込まれる可能性すらあるのよ」
リエナの言う通りだった。二人の間に生まれた子は、ローレシアとムーンブルク両王家の直系の子孫であり、現時点で最も濃くロトの血を引く一人となる。
「その通りだ。チャールズ卿にとって、生かしておいて利益になることは何もない。それどころか、お前が産んだ子である以上、正当なムーンブルクの王位継承者だ。王位簒奪の成就を潰す存在でしかない。どんな手段を採ってでも抹殺するはずだ。ローレシアの方も万が一、他に直系の王子王女が一人も生まれなかったら、放っておいてはくれないだろうよ」
考えれば考えるほどに、この問題は深刻だった。
ルークはじっとリエナを見つめ、リエナも見つめ返していた。やがて、リエナが視線を外した。表情が遠くを見るものに変わる。
「ねえ、ルーク」
「何だ?」
「今はね、時が過ぎるのを待つしかないと思うの」
ルークは頷いた。
「お前の言う通りだ。今はここで隠れて住み続けるしかない。――ただ」
ルークはあらためてリエナに向き合った。
「リエナ、身体は治さないといけない。それだけは頼む」
「ええ、ラビおばあちゃんにきちんと治療を受けるわ」
「いいか、今回は完治するまでしっかりと治してくれ」
「約束するわ」
リエナはしっかりと頷いた。
「あのね、ルーク」
「何だ?」
「おばあちゃんに言われたの。わたくしの病気はもう快方に向かっているそうよ」
「本当か!?」
「ええ。ただ、まだわずかだから目に見える程ではないけれど。良くなっている理由は、あなたとここで暮らしているからよ。ラビおばあちゃんの目には、わたくしはとても幸せそうに見えるって言ってもらえたわ」
リエナが微笑んだ。今日、初めて見せてくれた笑顔はルークにとっても、このうえなくうれしいものだった。
「……そうか、よかったな」
「それとね、もう一つ」
「もう一つ?」
「こどもを望むかどうかは、身体が治ってから考えても遅くない、生活も落ち着いて、産める状況になったらその時に、あなたとよく話し合えばいいって」
「……そうだな。ばあさんの言う通りだ」
リエナはルークを見つめていたが、急にリエナの表情がさっき見せた明るさとは裏腹に、また言いようもなく寂しげなものに戻る。リエナはルークから視線を外すと、ぽつりと漏らした。
「不思議ね。何故、人はどんどん贅沢になってしまうのかしら。最初はあなたとこうして暮らせるだけで、他には何もいらないって思っていたのに……」
リエナは何を思って急にこんなことを言ったのだろうか――それを考えると、ルークはもうこれ以上何も言えなかった。できるのは、ただリエナを抱きしめることだけだった。
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