もうひとつのちいさな奇跡 −4−
ルークはまだリエナの部屋の前に立っていた。閉められた扉を前にしたまま、どうしても立ち去る気になれなかったのである。
――何故、リエナの手を離してしまったのか……。ルークの心に、後悔にも似た感情が湧きあがる。せめて、別れ際にもう一度だけでも抱きしめておきたかった。
(いや、やめておいてよかったんだ。でないと、俺は……リエナを……)
自分の腕にはっきりと残る、リエナのやわらかな身体の感触――それを思い出して、今の自分がどれだけリエナを欲しいと切望しているか、どれだけその感情を抑え続けてきていたのか、嫌というほど思い知らされていた。
それでも、いつまでもここに突っ立っているわけにもいかない。ルークは無理やりに気持ちを振り払うと踵を返し、自分の部屋へ向かった。
********
ルークは自室の扉近くの廊下に座り込んでいた。今夜はアーサーとの二人部屋だったのだが、扉には鍵がかかっていて部屋に入ることができなかったのである。
何故こうなっているのか、ルークにはわけがわからなかった。
宿に着いた時、外から部屋の灯りがついていたのが見えたから、アーサーは宿に戻っているはずだった。それなのに、何度扉を叩いても呼んでも返事がない。こんな夜更けに再び出かけると思えないし、第一、今夜はどの店も閉まっている。疲れきって深い眠りに落ちているとしても、扉を叩く音に気づかないアーサーではない。
いくら自分たち以外に宿泊客がいないとはいえ、これ以上扉を叩き続けるわけにはいかない。宿の女将に鍵を開けてもらおうと階下に降りたが、帳場はさっきと同じく無人のままだった。
そんなわけで、ルークは冷たい廊下に座り込んでいたのである。雪の日のこととて、床からしんしんと冷気が昇ってくる。
(――今夜はここで夜明かしか。ひさしぶりにまともな寝床で眠れるはずが、とんだ目に遭っちまったぜ)
野宿に慣れてはいても、やはりあたたかい寝床は惜しいのである。
(さっきリエナの部屋の前で、不埒なことを考えていた罰かもしれねえな……)
ルークが珍しく自嘲めいた溜息を漏らした時、そっと扉を開ける音がした。ルークはようやくアーサーが気づいて開けてくれたのか、それにしては音のする方向が違う気がすると訝しみつつも、そちらに眼を向けた。
「ルーク。……いったいどうしたの?」
声の主はリエナだった。寝間着の上にショールをはおった姿で、扉の影から顔を覗かせている。
「リエナ。……悪い。起こしちまったか」
「いいえ、今から休もうと思っていたところよ。さっきから廊下で物音がするから気になったの。あなた何故、廊下なんかに座っているの? アーサーは?」
リエナはショールの前をかき合せながら、部屋から出てきた。
「アーサーのやつ、いっくら扉を叩いても呼んでも開けてくれないんだ。よっぽど寝こけてるらしい。宿の人に開けてもらおうと思って下に降りたんだが、誰もいなかった。――要するに、締め出しくらっちまったってわけだ」
「アーサーが……? 珍しいわね」
リエナも不思議そうに首を傾げた。
「そういうわけだ。俺はここで寝るから、お前も早く寝ろよ」
自嘲気味に笑いつつ、ルークはそのまま床に寝転がろうとした。
「ルーク……」
「どうかしたか?」
リエナは声をかけた後、ほんのわずかためらいをみせたが、思い切ったように言葉を継いだ。
「――わたくしのお部屋へ来て。ここでは風邪を引いてしまうわ」
「駄目だ!」
思いがけない言葉だった。ルークは一瞬呆然としたが、我に返ると慌てて断った。申し出はありがたいが、まさかアーサー抜きで一室というわけにはいかない。
「……お前の気持ちだけ、もらっとくから」
「でも……。あなたが冷たい廊下で、わたくしだけがあたたかいお部屋でなんて……」
「俺が丈夫なのは、お前もよく知ってるだろ? この程度で風邪引くほど、やわじゃねえぜ」
「もちろん知っているわ。それでも、駄目よ」
「いくらなんでも、お前の部屋ってわけには……」
断り続けるルークの言葉を、リエナが途中で遮った。
「それなら、わたくしも今夜は廊下で休むわ」
「なに馬鹿なこと言ってんだ。お前こそ、風邪引くぞ」
「わたくしだって大丈夫よ。いつもは野宿して……」
そう言いかけたものの、リエナは思わず身体を震わせた。外套を着込んだルークですら寒く感じるのだ。寝間着にショールをはおっただけのリエナが寒いのは当たり前だった。
「言わんこっちゃない。ほら、早く部屋へ戻れ」
「でも、あなたをこのままには……」
ルークはリエナの言葉の途中で立ち上がり、観念したようにリエナを見下ろした。
「わかった。俺がお前の部屋に泊めてもらう。それならいいだろ?」
ルークもこれ以上リエナを寒い廊下に立たせておくことはできなかった。
********
部屋に入ると、あたたかい空気が二人を包み込んだ。灯りもまだ落とされていず、リエナが起きていたのは本当だったらしい。ほっとして外套を脱いだルークにリエナが声をかけた。
「ルーク、お湯を使ってきたら? あたたまると思うわ」
「そうだな。じゃあ、遠慮なく借りるぜ」
正直、今夜のルークはなるべくリエナの近くに居たくない。自分が風呂に入っている間にリエナは寝てくれるだろう。そうすれば、これ以上リエナを意識しなくて済む。
けれど、ルークが湯殿から戻ったときもリエナはまだ起きていた。しかも外套をはおって暖炉の前にいる。薄着で寒い場所にいたせいで、冷え切ってしまったらしい。こんなことなら押し問答などせずに、もっと早く泊めてもらうことにすればよかった――ルークはすこしばかり後悔の念にとらわれていた。
「大丈夫か? ――お前、震えてるぞ」
「平気よ。ごめんなさい、かえって心配させてしまったわね。――わたくしももう休むわ」
笑みをみせるリエナの頬には血の気がなかった。今もまだ寒いだろうに、ルークを気遣って寝台に向かおうというのである。
リエナが立ち上がろうと前屈みになったとき、かき合せた外套の間からわずかに胸元が覗く。普段は決して見ることのかなわない、なまめかしいほど白い肌を目の当たりにして、ルークの中で、何かがはじけた。
気がついた時には、ルークはリエナの腕を引き寄せ、華奢な身体を抱きしめていた。リエナの肩から外套がすべり落ちる。薄物越しに触れる肌のやわらかさと洗い髪の香りに、ルークは眩暈がするほどだった。
「このまま……お前を、離したく……ない」
ルークの熱い吐息がリエナの耳朶にかかる。
「離さ……ないで」
ルークの腕のなかで、リエナはそれだけを告げた。同時にリエナは自覚していた――今夜こうなってもいいと、心のどこかで願っていたことに。
リエナを抱きしめたまま、ルークは真っ直ぐに深い青の瞳を菫色の瞳に向ける。
「お前を愛している。最初に会った時から、ずっと」
「ルーク……。わたくしも、あなたを……」
リエナの後の言葉は、ルークの熱い唇で塞がれた。
********
「後悔、してないか?」
「そんなこと、言わないで……!」
リエナは涙を零しながら、ルークにすがりついた。
「悪かった」
ルークは涙にうるむ菫色の瞳にくちづけを落とした。更に、なめらかな頬から甘く香る唇にと、次々とくちづけの雨を降らせる。
「――俺はずっとお前が欲しかった。やっと、それがかなった」
「わたくしだって……!」
「リエナ。旅が終わったら、結婚しよう」
「でも……!」
「俺が、たった一夜の思い出のためだけに、お前を抱くとでも思ったのか?」
「わたくしは、それでも構わないわ」
「お前がよくても、俺は嫌だ」
「ルーク……」
「俺はお前を、もう二度と離したくない」
「わたくしも……、離れたく、ない……わ」
「じゃあ、俺と結婚してくれるな?」
深い青の瞳には、真摯な光が宿っている。
「……はい」
ようやくリエナはちいさく頷いた。
ルークも安心したような笑みをみせると、愛おしげに華奢な身体を抱きしめた。リエナの身体はもう、すっかりあたたかさを取り戻している。
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