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旅路の果てに
第10章 6


 治療が進むにつれ、リエナの体調は徐々に良くなっていった。家事も自分ですべてこなせるようになっていたが、まだ無理が禁物なのは変わらない。エイミをはじめとした村の女達は、困った時や体調がすぐれない時にはいつでも手を貸してくれている。リエナの方も余計な我慢をせずに、女達に素直に甘え、いつも感謝の気持ちを忘れなかった。

********

 春も間近なある日の昼下がりのこと。リエナは外套の上にショールを羽織った姿で、家の玄関を出た。続けてルークも姿を現した。ルークの方はリエナとは反対に、とても今の季節とは思えないほどの軽装である。

 これから二人で、ラビばあさんを訪ねるのである。昨日まではずっと、ばあさんがリエナの治療のために通ってきてくれていた。けれど、リエナが順調に回復してきたことから、すこしずつ外に出るのもいいだろうと、今日からは散歩も兼ねてばあさんの家に行くことにしたのだ。

「いい天気だな」

 ルークが青空を見上げて呟いた。

「本当にね」

 雪はほとんど溶け、道端ではあちらこちらから、春の草花の芽が顔をのぞかせている。降り注ぐ日差しもすっかりと春めいて、ぽかぽかと心地よい。

「そういや、ばあさんの家って初めて行くな」

 ラビばあさんの家は、村の外れにある。ルークとリエナの暮らす家とは正反対に位置しているのと、ばあさんとの付き合いがごく最近始まったばかりのせいで、今まで一度も訪れたことがなかったのだ。

「きっと、素敵なお家だと思うわ」

 リエナはルークに向かってにっこりと微笑んだ。

「そうか? 薬草やら薬をつくるための道具やらがごちゃごちゃ置いてあって、おどろおどろしい雰囲気じゃないのか?」

「ルークったら、また失礼なことを言ってるのね」

「俺の勘の方が正しいかもしれんぞ。何なら、賭けでもするか?」

 普段は生真面目なルークらしくない物言いに、リエナは驚いていた。どこまでが冗談なのか本気なのかわからない。

「あなた今、賭けって言ったわよね?」

「そうだぜ、おかしいか?」

「そんなことを言われたのが初めてだから、すこし驚いたのよ。――でもいったい、何を賭けるつもりなの?」

「お前が勝ったら俺がお前にくちづけする。俺が勝ったらお前からって、どうだ?」

 リエナの頬が一気に染まった。いきなりこんなことを、しかも明るい陽射しの降り注ぐ往来で言われたからである。いくら二人きりだとは言っても、どこで村人に聞かれているかわからないのだ。

「もう……」

 リエナはそう言っただけで、後の言葉が続かない。ルークの方は、リエナから賭けをする確約が欲しかったが、返事を聞く前にラビばあさんの家の前に到着した。リエナからのくちづけに未練たっぷりではあるが――いつも自分からばかりで、リエナからしてくれることがないからである――この話はひとまず打ち切りだった。

********

 ラビばあさんの家も、二人や他の村人達の家と同じく丸太小屋である。一人暮らしらしくややちいさめであるが、手入れが行き届き、家の周りまできちんと整えられていた。敷地の一角は畑になっていて、越冬できる品種の香草が数種類植えられている。

 ルークが玄関の扉をノックした。扉には干した香草を巻いて作った飾りが掛けてある。

 すぐに扉が開かれ、ラビばあさんが姿を現した。

「よう来たな」

「ばあさん、邪魔するぜ」

「こんにちは、おばあちゃん。今日はいいお天気ね」

 この家も他の家と同様、玄関を入ってすぐが居間になっている。部屋に足を踏み入れた瞬間、何とも清々しい香りが二人を包み込んだ。

 香りのもとはすぐにわかった。壁やあちこちに薬草や香草を干した物がたくさん飾られているのだ。こじんまりとした居間の設えも素朴ながら、よく考えられたものだった。置かれた家具こそ如何にも山の村らしい素朴なものだけれど、不思議なほどに調和がとれている。そこに、香草が放つ香りが加わって、一層居心地よくしているのだった。

 ルークも部屋の装飾などに関しては、いいものかどうかだけはわかる。ラビばあさんの意外なほどの趣味の良さに少々驚いていた。

「いい部屋じゃないか」

 リエナも同じ印象を抱いたらしい。

「本当に素敵なお部屋ね。それにとてもいい香りだわ」

「そうか、貴族のお姫様だったリエナちゃんに褒められるのはええ気分じゃの」

 リエナの素直な称賛に、ばあさんも機嫌よく笑っている。

「ばあさん、俺だって褒めてるぞ」

「おまえさんはどうでもええ。どうせ、部屋の設えに関してなぞ、大して興味はないんじゃろ」

 ばあさんの口調は相変わらずだったが、言われたことは間違いない。ルークは苦笑するしかないのである。

「ねえ、ルーク。わたくしの言った通りのお家だったでしょう?」

「まあな」

「何じゃ、ルークはもっと違うふうに予想しとったわけか」

「ええ、そうなのよ。薬草や薬をつくるための道具がたくさん置いてあって、おどろおどろしい雰囲気じゃないか、なんて言っていたの。――失礼よね」

「リエナ、ここでそんなことををばらすな!」

 ルークが慌てふためき、ばあさんは不機嫌そうな顔を見せた。

「どうせ、得体の知れない薬と道具が、ぼろぼろになった書物や埃と一緒に埋もれとるくらいに思っとったんじゃろ」

「そこまでひどいことは言ってねえぞ!」

「ふん、どうじゃろうかの」

 ばあさんはそっぽを向いた。もっとも口でこう言っているだけで、本気で気分を害したわけではないのは、二人にもわかっている。

********

「さて、これで今日の治療は終わりじゃ。――お茶にしようかの」

 ラビばあさんが、薬箱の蓋を閉めながら言った。

「わたくしもお手伝いするわ」

「ほうか、じゃあ頼むぞ」

 リエナはにっこり微笑むと、持ってきた籠の中から包みを取り出した。

「おばあちゃん、よかったらこれを一緒にいかが?」

「ほう、リエナちゃん手作りの焼き菓子じゃな。ありがたく相伴に与るとしようかの」

 女二人で仲良く台所に消えた後、手持無沙汰になったルークは部屋を見渡した。

 居間の隅には大きな書棚がある。ルークは何気なく、書棚に並べてある書物の背表紙を眺めてみた。薬師を生業としている家らしく、各種の薬草や、医学に関するものが大半である。その他にも、各地の伝説に関するものや詩集まであって、またもやルークは驚かされていた。

「ルーク、何を見ていたの?」

 振り返ると、リエナが三人分のお茶をのせた盆を手に立っている。

「ああ、書棚見せてもらってたんだ」

「あら、とてもたくさん書物があるのね」

 続いてラビばあさんも出てきた。こちらは、菓子を乗せた大振りの皿を持っている。

「リエナちゃんは書物が好きかの?」

「ええ。大好きよ。わたくしも見せていただいていいかしら?」

「もちろん、構わんぞ」

「ありがとう、おばあちゃん」

 リエナは居間の卓上にお茶を置くと、早速書棚に目を遣った。

「素敵だわ。各地の伝説や物語に、香草を使ったお料理の本……詩集まであるわ。特に薬草の専門書がたくさんあって、いかにもおばあちゃんらしい書棚よね」

 ざっと背表紙を見渡したリエナが言った。ルークと同じで、思いがけない充実ぶりに驚いている。

「なあ、ばあさん、これ全部読んだのか?」

 お菓子の皿を卓上に置きながら、ラビばあさんは答えた。

「あたりまえじゃ。その程度のもんが読めんで、この仕事はできんわい」

「ばあさんって、実はすごいのかもしれんな」

「実はっていうのは何じゃ? わしは薬草の知識だけは誰にも負けんぞ。たとえ城仕えの薬師にでもな」

 ラビばあさんは、当然のように言い切った。

「大した自信だぜ。まあ、ばあさんの治療のおかげでリエナは良くなってきてるから、まるっきり大法螺ってわけでもねえか」

「何か言うたか? そっちこそ、口の減らん男じゃ」

 リエナが振り向いて、ルークを窘めた。

「ルーク、また失礼なことを言っているのね。おばあちゃんが素晴らしい薬師なのは間違いのない事実だわ」

「リエナちゃんはようわかっとるようじゃな。どこぞの男とはえらい違いじゃ」

 ばあさんはルークを横目で見遣った後、リエナに笑顔を向けた。

「書棚はお茶が済んだらゆっくりと見るがええ。もし読みたい物があれば、貸してあげよう」

「ありがとう、おばあちゃん。とってもうれしいわ」

 リエナは目を輝かせて喜んだ。トランでは書物を手に入れることができない。ここに来るとき、リエナが持ってきたのは魔法の専門書数冊だけであったから、ばあさんの申し出はとてもうれしいものだった。

 三人はあらためて、それぞれ居間の椅子に腰を下ろした。卓上には香り高いお茶があたたかな湯気を上げている。ルークとリエナにもすっかりお馴染みとなっているラビばあさん特製の香草茶である。それに、リエナが持ってきた焼き菓子と、ばあさんが焼いたらしいビスケットが添えられていた。

 リエナがビスケットを手に取った。

「とてもおいしいわ。塩味のビスケットって初めてよ」

「ほうか、それならよかった」

 それを聞いて、ルークも手を出した。甘いものはリエナ手作りのお菓子以外口にしないのだが、塩味なら話は別である。

「意外といけるじゃねえか」

 ルークはそう言って、もう一枚口に入れた。

「意外にとは何じゃ」

 ばあさんも口ではこう言いながらも満更ではないらしい。実は、ルークが甘いものが苦手だと知っているのでわざわざ塩味のビスケットを焼いておいたのである。

 リエナは二人の遣り取りをくすくす笑いながら見ていた。

「ねえ、おばあちゃん。このビスケットにも香草が入っているのね」

「そうじゃよ。一風変わった風味じゃが、このお茶には合うじゃろ?」

「ええ、本当に。よかったら、作り方を教えて欲しいわ」

「もちろんじゃ」

「ありがとうございます、おばあちゃん」

 リエナがうれしそうに微笑んだ。治療に通ってもらううちに、リエナとラビばあさんは、まるで祖母と孫娘のように仲良くなったのだ。偏屈と言われていたばあさんもリエナとは何故かうまが合うらしく、顔を合わせた時にはいつも楽しそうに会話をしている。ルークもリエナが明るい笑顔を見せてくれるのは喜ばしい限りである。

 その後三人はゆっくりとお茶とお菓子を楽しんだ。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。気がついた時には、窓から差し込む光が長い影を落としていた。

「あら、もうこんな時間」

「そろそろ帰るか?」

「そうね、すっかりお邪魔してしまったわ。――おばあちゃん、とても楽しかったわ。また遊びに伺ってもかまわないかしら?」

「もちろんじゃ。治療とは関係なく、いつでも来たらええ」

 ばあさんも機嫌よく頷いた。

「リエナ、ばあさんの家に遊びに来るのは構わんが、たまにだけだぞ」

「あら、どうして?」

「俺が寂しいだろうが。だいたい、他にも女達の集まりがあるのだって、俺は我慢してるんだぜ」

 文句たらたらのルークに向かって、ラビばあさんは言い返した。

「何を言うておる。リエナちゃんが来たいと言うてくれとるんじゃ。いくら女房に惚れとるからといって、あんまり出かけるのを駄目だと言ってばかりおって、愛想を尽かされても知らんぞ」

「リエナに限って絶対にそんなことはない。さ、リエナ帰るぞ」

「リエナちゃん、こんな亭主はほっておいて構わんぞ。そうそう、ビスケットを分けてあげるから持って行くがええ。書物はまた明日、治療に来た時に貸してあげるからの」

「はい、そうさせていただくわ。おいしいお茶とお菓子をご馳走様でした」

「リエナ、もう来んでいいぞ。ばあさん、邪魔したな」

 ルークはまだ文句を言い足りない顔をしていたが、お土産のお菓子だけは忘れずにしっかり貰ってきた。

********

 家に戻ってきたリエナは外套を脱ぐと、すぐにエプロンを着けた。予定よりも遅くなってしまった夕食の支度にとりかかろうというのである。

「リエナ」

 台所に入ろうとしているリエナをルークが呼び止めた。

「なあに? おなかが空いたと思うけれど、すぐに夕食の支度をするから待って……」

 みなまで言い終わる前に、いきなり抱きしめられた。そのまま、唇を塞がれてしまう。思いがけないほどの熱いくちづけに、リエナは息が止まりそうになる。

 ようやく唇を離しても、ルークはまだリエナをしっかりと抱いたままだった。リエナは戸惑ってしまって、ルークをまともに見ることができないでいる。こんなふうにくちづけされること自体はしょっちゅうあって、リエナももう慣れたつもりだった。けれど、ここまで急だとまだ動揺してしまうのである。そしてルークの方は、恥じらうリエナが可愛くて仕方がない。だからその姿が見たいがために、つい抱きしめたくなるし、抱きしめれば今度はくちづけしたくなるのだ。

「驚かせちまったか?」

「……ルーク。いきなり、どうしたの?」

「お前が賭けに勝ったからだぜ」

「賭け?」

 言われて、リエナはようやラビばあさんを訪ねる前にルークとしていた会話を思い出していた。

「ああ、お前、忘れてたのか?」

 リエナはすぐには答えられなかった。忘れるも何も、自分も賭けをするとは一言も言っていないのだから。けれど、ルークは気にした風もなく、話を続ける。

「今回ばかりは、俺が勝ちたかったけどな」

「あなたが勝ちたかったって……」

 リエナはルークが勝った時の条件を思い出し、それ以上何も言えなくなっていた。

「ああ。俺が勝ったら、お前からくちづけ、だ。いい機会だと思ったんだがな。――これまでお前からは一度もしてくれたことないだろ?」

 リエナは真っ赤になってうつむくばかりだった。確かにルークの言った通りなのだけれど、こう面と向かって言われてしまっては、返す言葉が見つからない。

 別にリエナ自身、自分からルークにくちづけすることが嫌なわけではないのだ。とにかく恥ずかしくて、自分からできるとはとても思えないだけである。

 他にも、もう一つ理由がある。それは、ルークからあまりにされることが多くて、自分からする機会そのものがないのだ。この理由にはたった今気がついた。けれど、それをルークに告げるのも恥ずかしく、ただ腕に抱かれたままでいるしかない。

 そのまましばらく時間が経った。

 ルークはまだリエナを離そうとしない。ひたすら愛おしそうに、リエナを見つめ続けているのである。リエナの方は何も言えないまま、おとなしく腕のなかにいる。

「な、リエナ」

「……なに、かしら?」

 今度は何を言われるのかと、思わず身体を固くしたリエナにルークが言った。

「お前からくちづけしてくれないか?」

 リエナの身体が一気に緊張した。ある程度予想していたとはいえ、ここまで直接的に言われるとは思っていなかったのである。

「あの……」

「何だ?」

 ルークはわざと、リエナの顔を覗き込んだ。リエナはますます頬を染めて、顔を逸らすしかない。

「どうしても……?」

「どうしてもだ」

「それなら、また今度……ね?」

「今すぐがいい」

「……え?」

「駄目か?」

「駄目かって……」

 心の準備がまだ……と続けて言いたかったのだが、ルークに真っ直ぐに見つめられてしまった。深い青の瞳は思いがけず真剣な色を湛えている。

 どうやらリエナがくちづけしてくれるまで、離すつもりはないらしい。リエナは覚悟を決めるしかなかった。

「……わかった、わ」

 聞き取れるかどうかの声でそう言うと、思い切って背伸びをする。

 それに気づいたルークは軽くかがんだ。リエナの背丈はルークの肩くらいまでしかないから、すこしでもしやすいようにと、気を利かせたつもりなのである。そして、目を閉じた。本当はくちづけしてくれる間もリエナの顔をずっと見ていたいのだが、流石にそれではやりにくいだろうと思ったのである。

 ルークの唇に、柔らかなものが触れた……と思ったが、ほんの一瞬でそれは離れていった。触れていたのはわずかな時間だったけれど、限りなく甘く優しく、ルークにはこのうえなく素晴らしいものだった。

 ルークが目を開けると、リエナはまたうつむいてしまっている。華奢な肩が細かく震え、まだ緊張が解けていないのだとわかった。

「リエナ――ありがとうな。うれしかったぜ」

 抱きしめたままのルークの腕にまた力が籠った。頬に手をかけて上を向かせると、予想通りまだ顔を赤くしたままだった。その表情はたとえようもないほどに、愛おしい。

 堪らず、ルークはまたもや唇を重ねていた。知らず知らずのうちに、より熱く、より深くなっていく。リエナも初めて自分からしたことに加えて、今度はルークからこれ以上ないほどの情熱を受けて、胸の鼓動がおさまらなくなっている。

 唇を離した瞬間、ルークはリエナを抱き上げていた。




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