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旅路の果てに
第10章 7


 翌日の夜のことである。昨日と同じく午後からラビばあさんの家に治療に出かけ、お茶も一緒に楽しんでから帰宅した。リエナの手料理を囲んでの夕食後、居間に移り、暖炉の前にある長椅子に並んで座った。

「リエナ」

「なあに?」

「ラビばあさんのことなんだが」

 ルークの口調は、いつもばあさんの話題を出す時とは打って変わって、真面目なものだった。

「おばあちゃんがどうかしたの?」

「ばあさん、元は貴族だな」

 リエナはしばらく無言のままルークを見つめていたが、やがて口を開いた。

「あなたも同じように感じたのね」

「やっぱり、お前もそうだったか」

 リエナは頷いて、話し始めた。

「おばあちゃんは素晴らしい薬師だわ。知識も何もかもが、おばあちゃん自身が言っていた通りの、城に仕える薬師にも負けない、いいえ、それ以上だもの。あのお部屋の設えもそうよね。この村に相応しく素朴な雰囲気だけれど、考え抜かれたものよ」

「確かにな」

「何よりもあの書棚に並べられた書物を見れば、そうとしか思えないわ」

「だよな。とても町で開業している薬師や産婆が手に入れられる代物じゃない。医学関連の書物は、それこそ城に仕える薬師並みの持ち物だ。値段だって恐ろしく高価なもののはずだ」

「わたくしも驚いたもの。医学関連のもの以外も、貴族階級の教育を受けなければ読みこなせないものばかりだったわ。――これだってそうよ。まだ冒頭の部分しか読んでいないのだけれど……」

 リエナはおもむろに一冊の書物をルークの前に置いた。今日ばあさんの家に行ったときに借りてきたもので、革の表紙に箔押しの装飾が施されたかなり豪華な装丁である。

「ある地方の伝承を題材にした物語よ。とても面白いのだけれど、この物語を真に理解するには、元となった伝承を知っているだけでは足らないのよ。そこに至る歴史や風俗習慣の知識が必要だわ――あなたにもそれはわかるわよね」

「ああ」

 ルークは短く答えた。この伝承は、ルークの亡き母、ローレシアの前王太子妃であったテレサの出身国にまつわるものだからだ。テレサは出産と同時に亡くなったため、ルーク自身は実母の記憶を持っていない。しかし、亡母の国出身の侍女――テレサの輿入れの時に国から同行し、薨去の後も、今度はルーク付きとなってローレシアに残った侍女達である――から、何度も伝承を聞かされていたのだった。

 リエナの方も、この伝承についてよく知っていた。単にムーンブルク王女の教養としてだけではない。ムーンブルク崩壊前、ルークと婚約が内定した後に、将来のローレシア王太子妃に必要な知識の一環として学んだからだった。

 そのまま、二人ともがしばらく無言になる。

「……そういうわけか」

 リエナにもルークが何を言いたいのかは、わかっていた。

「おばあちゃんがあまり村人と交流を持とうとしない理由は、自分の元の素性を知られたくないからだったのね」

「だろうな。特に俺達の前にはまったく姿を見せなかっただろ? お前がよく飲んでた熱さましも、普通なら直接渡してくれそうなものだが、いつもエイミ経由で貰っていたしな。それが今回の病気で、薬師として流石に見過ごせなかったんだろうよ」

「……そうよね。同じ貴族階級であれば、どうしても気づいてしまうもの」

「リエナ」

 ルークは、真剣な顔でリエナに向き合った。

「ばあさんがどこの国の出身かだが、この書物を見る限り、俺の母上の国の可能性がある」

 リエナも頷いた。

「ええ。この伝承は、他の国の人達にはほとんど知られていないはずよ」

「その通りだ。おまけに一見単純に見えて、実際にはかなり奥が深い伝承だからな。この書物の内容を理解できるほどに知識がある人間はおのずと限られてくる。それに、これを手に入れること自体、容易なことじゃない」

「あなたのお母様の祖国以外では、まず手に入らないでしょうね。後は、あったとしてもローレシアだけだわ。それも、お母様がお輿入れの際にお支度の品の一つとしてお持ちになっていればの話よ」

 リエナがローレシア王太子妃として必要な知識を身につけるために、教育係はできる限りの書物や資料を集めてくれた。けれど、この書物は伝承を学んだ時にも読んだことがなかったのだ。だから、ばあさんの書棚で見つけた時、非常に驚いたのである。

「ああ。確か今もローレシアの書庫に保管されているはずだ」

 再び、二人の間に沈黙が落ちる。それを先に破ったのは、ルークだった。

「……まずいな」

「……え?」

「もし俺達の予想が正しければ、ばあさんは俺の母上がローレシアに嫁ぎ、出産と同時に亡くなったことを知っている可能性が出てくる。そして、残された王子の名前がルークであることもな」

「……あなたは、おばあちゃんがわたくし達の素性に気づいたかもしれないと言うの?」

「ばあさんは、この村に来て15年以上経ってるそうだ。そうエイミから聞いた。何らかの事情があって国を出たんだろうが、それがいつなのかによって状況が変わってくる」

「あなたのお母様の薨去の時に、おばあちゃんがどこにいたのか……ね」

「そういうことだ」

「でも、いくら何でもおばあちゃんがあなたの素性に気づくとは思えないわ」

「ああ。すくなくとも今の段階ではありえない。第一、俺達は公式にはまだ国にいることになっているはずだ。無論、ある程度の人間にだけは現状を知らせざるを得ないだろうが、出奔の事実が外部に漏れたら、前代未聞の醜聞だ。俺達の不在を隠すために、対外的にも納得させられるだけの理由をでっちあげて正式に発表しているだろうよ。上流貴族の中でも中枢に近い人物ならともかく、末端には事実が知られているとは思えない」

「ええ、どんな手段を採ってでも、隠し通すでしょうね」

「お前についてだが……」

「ムーンブルクの王女に関しては、名前も含めて、おそらく何も知らないはずよ」

 ムーンブルクは他の国々に比べ、やや秘密主義のところがある。特に王女は成人の儀を迎える15歳まで公式の席には出ないため、ロト三国の王族などを除いた他国の人間には、名前もあまり知られていない。またリエナはルークよりも2歳年下であるから、リエナが誕生した時には既に国を離れていた可能性もあるからだ。

 リエナの名前を知る機会があるとしたら凱旋後であるが、公式では名前よりも、『ムーンブルクの王女殿下』と呼ばれる方が多かった。しかもその時には、ばあさんはトランの村にいたことが確実である以上、知らないと考える方が自然である。

「お前の方については心配なさそうだな。だが、今後の俺達の言動如何によっては、ばれないという保証もない。――ばあさん、これまでに俺達の素性について何か言ってきたことはあるか?」

「ええ。わたくし達がトランに来た経緯についてジェイクさんから聞いたって言っていたわ。わたくしが倒れた翌日、この家でお話した時によ。あなたは元は騎士でわたくしが領主の娘。結婚を反対されて駆け落ちしてきた、あなたが村の用心棒となる代わりに、村ぐるみでわたくし達を匿うことになったと――ジェイクさんがみなさんにお話したことと同じ内容だったわ」

「とりあえずは、それで納得してくれてるわけか。実際のところはどうかはわからないが」

「おばあちゃん、わたくし達の素性については追及する気はないって、はっきり言ってくれているわ。だから、余計な詮索をされる心配はないはずよ。ただ、気がかりなことは……一つだけ村の人達が知らないことを、おばあちゃんに話したの」

「何を話したんだ?」

「おばあちゃんに指摘されたのよ。わたくしの病気が悪化した原因は、故郷での心労だろうって。ただし、具体的に何があったかまでは答える必要はない、けれど、心労があったかどうかだけは確認したい、答えによって治療の方針が変わってくるから――そう言われたの」

「それに対するお前の答えは?」

「おばあちゃんの指摘通り、つらい日々だったこと、そこからあなたが救いだしてくれたと答えたわ。おばあちゃんの方からは、だから駆け落ちしてきたのかって確認してきただけで、それ以上は何も聞かれなかった。むしろ、つらいことを思い出させて悪かった、これからこのことを聞くことはないから安心して欲しいって謝られたの」

「なるほどな」

 ルークが頷いた。

「その程度なら問題ないぜ。薬師であるばあさんの目をごまかすことはできないからな。下手な作り話を聞かせるよりも、最低限の真実を話した方がずっといい」

 リエナがすこしほっとした表情を見せた。

「あなたに話せてよかった。もう一つ、あなたにも言っておくわね。おばあちゃんは魔法使いの特性――精神面の健康が肉体面に影響を及ぼすっていうことまで知っていたのよ」

「驚いたな」

 ルークの正直な感想だった。魔法使い自体、庶民には身近な存在とは言えないのだ。ばあさんが薬師として数多くの経験を積んできた証拠である。

「やっぱり、おばあちゃんはただの薬師じゃないのかもしれないわね。だから、わたくしもこれからは余分なことは一切、話さないようにしないと」

「そうだな。用心するに越したことはない。ばあさんが俺達の素性を追及するつもりはなくても、付き合いが長くなれば自然に色々なことがわかってくる。一つずつは些細な情報でもまとまれば別だ。常に、ばれる可能性だけは忘れるわけにはいかないだろうよ」

 ルークは息をついた。

「お前とこうしていろいろ話し合ったが、複雑に考える必要すらないのかもしれん。どこの誰が、こんな山の中の村で大国の王子と王女が、それも村人とまったく同じ暮らしをしていると思う? 常識ではありえないだろうよ」

 リエナも頷いた。

「ええ、おばあちゃんとお話していても、不自然に思うようなことはないわ。わたくし達のことは、単に元貴族だと思ってくれているはずよ」

「そうだな。その証拠に、ばあさんの俺達に対する態度は他の村人へと同じものだ。ばあさんが本当に貴族階級の人間なら、王族に対してあの態度や言葉遣いは絶対にできないはずだからな」

 ルークの言う通り、ばあさんの二人に対する態度には遠慮というものが一切ない。

「俺達もばあさんの素性はこれ以上考えない方がいい。今の、単に同じ村に住む住人としての関係を崩さないことが重要だ。お前の治療は当分かかりそうだが、治療が終わった後もこれまで通り、仲良くしてもらうのがいいだろうよ」

「そうね。おばあちゃんには言葉に言い尽くせないほどにお世話になっているもの。これからも同じよ。――だから、お互いが傷つくような結果にはしたくないわ」

「お前が言いたいことはよくわかるぜ。互いの過去をほじくり返しても何も生まないからな」




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