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旅路の果てに
第11章 2


 ラビばあさんは、ルークとリエナの家に向かっていた。手にはいつもの薬箱ではなく、ちいさな包みをかかえている。春の香草を使った新しいお茶を作ったので、リエナに届けようというのである。

 春も終わりに近づいていた。日差しは次第に強くなり、今日などまだ午前中だというのに、もう夏が訪れたかと思うほどに眩しい日の光が降り注いでいる。

 二人の暮らす家に着いたばあさんは、玄関の扉を叩いた。が、しばらく待っても返事がない。もう一度繰り返すが同じだった。珍しいこともあるものだと思ったが、大方ジェイクの家に出かけているか何かだろうと、出直すことにした。

 家に戻りかけたが、せっかく来たのだし、念のために裏庭を覗いていこうと思い直した。そのまま、裏庭に向かって一歩踏み出したところで、かすかに話し声が聞こえてきた。

 やはり居たのだとばあさんが裏庭を覗いてみると、ルークの後ろ姿が見えた。広い背中に半分近く隠れているが、リエナもいる。ルークは剣の稽古を終えたばかりらしく、手には大剣を持っている。リエナの方は稽古で汗をかいたルークに着替えを持ってきたのか、衣服らしきものを抱えている。

 二人にもっと近づこうとしたところで、ルークは着ていた上着を脱いで、リエナに渡した。上半身を晒したルークの姿に、ばあさんは言葉を失っていた。

 ばあさんが見たのは、ルークの傷跡だった。鍛え抜かれた背中にも両腕にも、夥しい数があるうえに、遠目にもはっきりとわかる程に残っていたのだ。なかでも、背中の腰に近い位置にあるものは特にひどい。

 そうしているうちに、ルークはリエナから代わりの上着を受け取って身につけた。その時、ほんの一瞬こちらを向いた姿には、絶句するしかなかった。ルークの腹部には、背中より更に大きな傷跡があったからだった。

 ばあさんは思わずその場に立ち尽くしたが、慌てて踵を返した。今はこのまま帰宅した方がいいと咄嗟に判断したのである。何故か、見てはいけないものを見た気がしたからだった。

********

 新しい上着を身につけたルークが、後ろを振り返った。

「どうしたの?」

「いや、表に誰かいた気がしたんだが」

 リエナも見たが、特に人影は見えない。

「誰もいないわ。――村の人が通り過ぎただけじゃないかしら?」

 この時、ラビばあさんは二人が振り返ったことに気づかなかったが、偶然家の影に隠れていて、姿を見られずに済んだのである。ルークも気配だけで、敵意は感じなかった。再び表の様子を探ってみたが、既に気配は消えている。やはりリエナの言う通りだろうと、この時には特に気もとめず、二人で家の中に戻っていった。

********

 ラビばあさんは自宅に戻ると、居間の長椅子に座り込んでいた。先程見た、ルークの傷跡が目に焼き付いて離れないのである。

(あの二つの傷跡は、同時にできた――腹から背中へ貫通したものじゃ。恐らくは、太く尖った何か――それが何かまではわからぬが、一気に貫かれたに違いない)

 その時の様子を思い浮かべるだけで震えが走る。腕のいい薬師だけに、あの傷跡が残るほどの怪我がどれほどひどいものかがわかるからだ。

(……あの傷で、生きておったとは。普通の人間なら即死をまぬがれまい。しかも、傷跡がひどく残ってはおるが、わしが見る限りはまったく後遺症はないらしいの。リエナちゃんが回復の呪文をかけたのかもしれんが、あれほどの傷、呪文だけで治すのは無理じゃ。ルークは一体どんな修羅場を潜ってきたというのか……想像もつかん)

 ラビばあさんは大きな溜め息を一つついて立ち上がった。どうにも落ち着かず、鎮静効果のある香草茶を淹れるために、台所へ入っていく。

(ルークは本当にただの騎士なのか?)

 急に、疑問点がいくつも浮かぶ。

(……わしには剣のことはわからんが、自分の目でルークの剣捌きを見た村の連中は口をそろえて、尋常な腕でないと言っておった。どんな魔物もすべて一撃で倒したとな。そのルークがあれほどの傷を負うとは……。いくら魔物との戦いが過酷なものとはいえ考えにくい)

 ばあさんも、無論のこと騎士がどういうものかは知っている。魔物と戦うのが本職である以上、身体に傷が残っていて当たり前なのだ。しかし、ルークの傷跡は、それだけとは到底思えないほどに、数も多くまたひどいものなのである。

 ばあさんは、湯を沸かしながらも、まだ考え続けていた。

(そして、どう考えてもおかしいのはルークのリエナちゃんへの態度じゃ。主人筋の娘に対するものとは明らかに違う。いくら駆け落ちして今は夫婦になっているとしても、どこか卑下した態度が出るはずじゃが、ルークにはそれがない。リエナちゃんの方もそうじゃ。自分に仕える騎士へではなく、対等の身分を持つ者への接し方に思える)

 考えれば考えるほど、腑に落ちないことが増えていく。

(確かに夫婦である以上、お互いに対等だと考えていてもおかしくはない。しかし、生まれ持った身分差を真に超えるのは無理じゃ。どこまでもついてくる。とすると、ルークはもっと高い階級出身の可能性があるのか……?)

 振り返ってみれば、ルークはいつも堂々としていた。主人の娘と駆け落ちしてきたにも関わらず、言動にもまったく後ろ暗いところがない。普段の振る舞いも、鍛え上げられた長身も相まってか、主人に仕える騎士というよりも、むしろ彼らを従える主人であると考える方がしっくりとくる。言葉遣いこそ庶民と変わりないが、荒事に慣れているからと思えば決して不自然ではない。

(しかしそれなら何故、駆け落ちしなくてはならぬほどに結婚を反対されたのかがわからん。ルークのような立派な若者で身分が釣り合えば、世間的には申し分のない良縁じゃ。最初こそ高望みしておっても、最後には娘可愛さに両親が折れるじゃろうに。それにルークほどの剣の腕を持っておれば、それを活かして実力でのし上がっていく可能性に賭けることもできるからの。もしくは、余程の名家からの縁談が持ち込まれておったのか……)

 気がついた時には、目の前の薬缶が音を立てて沸騰していた。慌ててかまどから薬缶をおろし、棚から茶葉の入った缶を出してきた。

 淹れたての熱い香草茶を持って居間に戻り、再び長椅子に腰かける。立ちのぼる香りを深く吸い込み、ゆっくりと一口すすって、ようやく人心地がついた。しばらくの間、無心に茶を飲むことに没頭する。

 空になった茶碗を持ったまま、再び溜め息をつく。

(ルークの素性は、わしらが聞いておるのとは違うのかもしれんの。しかし、もし身分を偽っておるのなら、それ相応の理由があってのことじゃろうて。……これ以上考えても致し方なかろ)

 香草茶のおかげか、落ち着きを取り戻したばあさんは、これからはルークとリエナの素性について何も考えないと決めていた。正直なことを言えば、まだ気になって仕方がない。しかし、これからも二人とは村のよき隣人として付き合っていきたいと願っている。もし隠している過去があるのなら、それを暴くような真似だけはしたくない。余計な詮索をして失うものはあっても得るものは何もないと、あらためて気づかされたからだった。

********

「リエナ」

 ルークが声をかけた。稽古の後、小腹が空いたと訴えるルークに付き合って、軽食を取った後のことである。

「なあに? お代わりなら持ってくるわよ」

 リエナが微笑んで返事をしたが、ルークの表情がいつもと違うのに気がついた。

「どうしたの? 何か気になることでもあるのかしら」

「いや、さっきの人の気配のことだが……」

 剣の稽古の後、リエナが持ってきてくれた洗いたての上着に着替えた時のことを話しているのである。

「……え? 誰もいなかったはずよ。あなたはそんなにはっきりと感じたの?」

 リエナも人の気配には非常に敏感であるが、ルークは更にそれを上回る。

「いや、はっきりという程じゃない。だが、誰かが俺達のことを見ていた気がしたんだ」

 この言葉で、リエナの顔色がみるみる蒼ざめた。

「まさか……あなたは、追っ手がこの村に来たと言うの……?」

「いや、それはない。俺の言い方が悪かった」

 リエナの様子に、ルークは慌てて否定した。

「人の気配を察したって言っても、敵意を感じたわけじゃない」

 ルークは席を立つと、リエナの隣に屈みこんだ。安心させるためにそっと抱き寄せる。

「単に村の誰かが前を通って、俺達二人がいるのを目にとめただけだろうよ」

「ええ」

 リエナは震えながらもしっかりと返事をした。

「第一、追っ手であれば、こんなあからさまな行動を、それもこんな日の高い時刻にとるはずがない。しかも気配がした方向は、俺達の家の玄関側だ。もし村の住人以外の人間がいたら、目立ってしょうがないぜ。俺が追っ手ならそんな馬鹿な真似はしない。すくなくとも姿を隠せる場所に身を潜めるし、当然、気配も徹底的に消す」

「……そうね、そうよね」

 リエナがようやく落ち着いたのを確認すると、軽くくちづけて腕を離した。立ち上がって自分の席に戻る。

「ただ、これからは気をつけないとな」

「気をつける? ……あ、あなたの傷跡ね?」

 ルークが頷いた。

「裏庭だからと、つい油断したな。表からは覗かれない限り見えないはずだが、これからは家の中に入ってからにしないとな。村の連中に傷跡を見られたら面倒なことになる可能性がある」

 ルークの傷跡は、今回見られたかもしれない上半身だけにあるわけではない。それこそ、全身に残っている。特に、腹部と、同じ位置にある背中側のもの――最終決戦で、断末魔の苦しみにもがいた破壊神シドーの爪に貫かれた時のものである――はひどかった。初めて見るものはみな絶句し、その後おそるおそる、今は大丈夫なのかと確認されたのである。

 傷は既に完治しており、今はまったく後遺症も残っていない。しかし、ローレシアに凱旋帰国した後、ルークは人から絶句される経験を繰り返していることで、自分の傷跡が他人にどう映るのかを嫌というほど思い知らされている。それ以来、ルークはよく知った人間以外の前では、こうした行動を取ることはやめていた。

 ルークが大神官ハーゴンと破壊神シドーと死闘を繰り広げたことを知っている人々ですらこうである。ましてや、ここトランではルークは元は騎士でリエナと駆け落ちしてきたのだと偽っているのだ。しかも、ルークの強さは実際に魔物と戦う姿を目の当たりにした誰もが驚くほどなのだ。その強いルークが、これほどにひどい傷を負うなど、誰も考えたことすらないだろう。だから村人に見られたとしたら、ルークの過去と素性について、あらぬ疑いを持たれかねない。

 もう一つ、ルークが傷跡を見せない大きな理由がある。追っ手が、ルーク本人だと特定する重要な情報となるからである。ルークの容姿――漆黒の髪と深い青の瞳を持つ堂々たる長身の若い戦士――条件がこれだけなら他にもいるだろうが、それに加えて全身に傷跡、特に腹部と背中の同じ位置に目立って大きなものが残っているとなると、ルーク以外にいなくなる。

 この傷は、普通なら間違いなく即死である。それにも関わらず九死に一生を得たのは、持ち前の並外れた体力に加え、リエナが魔力の限界を超えてまで発動した回復の呪文、それも最上級のもののおかげだったのだ。

 リエナがうつむいた。まだ表情は曇ったままである。

「ごめんなさい。わたくしが着替えを持って行ったからね」

「お前が謝ることじゃねえよ。俺が家の中に入って着替えれば済んだ話だ。だからもう気にするな。実際に見られたわけじゃないしな」

 ルークはリエナに安心させるように白い歯を見せて笑うと、目の前にある、空になった皿を指さした。

「ところで、お代わり頼む。やっぱりお前の手料理はいつ食ってもうまいぜ」

「……ええ。待っていてね。すぐに持ってくるわ」

 いつもと同じルークの言葉に、リエナにもようやく笑顔が戻っていた。お代わりを持ってくるために、席を立った。




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