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旅路の果てに
第12章 10


 トランの村は今年も無事に冬支度を終えた。そろそろ初雪が降ろうかという初冬の午後、居間の暖炉の前の長椅子で、リエナがせっせと針を動かしている。

 やがて白い手が止まった。糸の端を始末して鋏を取り出し慎重に切る。リエナはほっと息をついた。

 ここ二ヶ月ほどかけて縫っていた、寝台の上掛けがようやく完成したのである。リエナは立ち上がるとできあがったばかりの上掛けを長椅子の上で広げてみた。初めてにしてはうまくできたと自分でも思えて、思わず微笑みが浮かぶ。

「ただいま」

 玄関の扉が開く音がすると同時に、ルークの声がした。引き受けた村の頼まれ事を終えて、戻ってきたのである。

「あ、お帰りなさい」

 リエナはにっこりと微笑むと、玄関までルークを出迎えた。

「お、できたんだな」

 長椅子の上掛けに目を留めたルークが言った。

「ええ。たった今、完成したところよ」

「思ってた以上の大作だ――すごいな」

「ありがとう」

 嬉しそうなリエナを抱きしめてただいまのくちづけをする。ふと何かに気づいたルークがリエナを見下ろして言った。

「リエナ」

 ルークの声には心配げな響きがある。

「なあに?」

「お前、熱があるんじゃないか?」

 腕の中のリエナの身体がいつもよりもやや熱い気がしたのだ。大きな手を額に当てる。

「やっぱり熱いな」

「そう? ここ数日、少しだるい気はしたけれど体調が悪いわけではないの。だから大丈夫よ」

「お前の大丈夫はあてにならんぜ。とにかく今日は無理するな。すぐにラビばあさんを呼んでくるから」

 リエナは昨年の冬に倒れて以来、村の薬師であるラビばあさんの治療を受けていた。この秋にようやく完治したけれど、まだまだ無理は禁物だとも言われているのである。

「でも、おばあちゃんも冬支度で忙しいころじゃなくて?」

「他人の心配をする前に、自分の心配をするんだ」

 リエナは自分を後回しにする傾向がある。これは今に始まったことではなく、旅をしている時からそうだった。もともとの性格もあるのだろうが、ムーンブルク崩壊で目の前で父王と兄を失った――それも自分を守るためだったことから、リエナは他人が自分の犠牲になることを極端に厭うのだ。そのせいか、日常の些細なことでもこのような言動を取るのが常だった。

 ルークはそのことを重々承知している。だからこそ余計に、リエナが心配でたまらないのである。

「わかったわ。じゃあ、おばあちゃんのお迎えをよろしくね」

********

「なんじゃ、お前さんしかおらんのか」

 玄関でルークを見上げたラビばあさんはわざと大きな溜め息をついてみせた。

「俺だけで悪かったな」

「冗談じゃ。何か用かの?」

「ああ、もし時間があるなら今から俺達の家に来てもらえないか? リエナが体調を崩しかけてるらしい」

「それは心配じゃな。ここんところは調子がええと聞いとったが……体調を崩しかけとると言うが、どんな感じかの?」

「熱っぽいんだ。あとここ数日だるいらしい――相変わらずリエナは大したことないって言ってるし、俺の目から見ても特にどこか悪そうには見えないんだが、以前のこともあるから診てもらえたらありがたい」

 ルークは心配で仕方がないのである。リエナが倒れた時も突然だった。ばあさんの献身的な治療のおかげで完治したとはいえ、またいつぶり返すかはわからないからだ。

「熱っぽいじゃと? それとだるさも感じとる――わかった。今からお前さんの家に行く。すぐに用意するからちょっと待っとくれ」

 答えるばあさんの表情には深刻さは感じられない。とりあえず大病ではなさそうだとルークはすこしだけ安心した。

********

「おばあちゃん、ひさしぶりね」

「ほんにひさしぶりじゃの」

 玄関で出迎えたリエナの表情は明るい。ラビばあさんも笑顔で頷くと居間の長椅子によっこらしょと腰を下ろした。そこへリエナがお茶と焼き菓子を運んできた。ルークがばあさんを迎えに行っている間にお茶を淹れていたらしい。

「リエナ、無理するなって言っただろうが」

「あら、これくらいなら大丈夫よ?」

 ルークはまだ文句を言いたそうだったが、とりあえずリエナの隣に座る。

「せっかくのリエナちゃんのお茶とお菓子じゃ。いただくぞ」

 ばあさんものんびりとしたものである。ルークも自分ばかりが深刻になるのもおかしい気がして、淹れたてのお茶を一口飲み、続けて目の前のおいしそうな焼き菓子に手を伸ばした。

「ルークが心配して飛んできたが、思ったより調子はよさそうじゃの」

 ばあさんが立ち昇るお茶の香りを楽しみつつ言った。

「ええ。だから大丈夫って言ったのに。おばあちゃん、今の時期は忙しいのではなくて? ――わざわざ足を運んでいただいて申し訳ないわ」

「いや、もうわしのところも冬支度は終わっとるでの。そろそろリエナちゃんとこうしてお茶を飲みたいと思っとったところじゃ」

 ひとしきりお茶をのみつつ話を楽しんだ後、おもむろにばあさんが言う。

「じゃあ、リエナちゃん、診察しておこうかの」

********

 ラビばあさんはリエナの診察を始める前に問いかけた。

「リエナちゃん、お前さん何か隠しておるのか?」

 その言葉とは裏腹に、ばあさんの表情は明るく、悪戯っぽさまでもが混じっている。リエナはちょっと驚いて目を瞠ったがすぐにはにかむように微笑んだ。

「おばあちゃんに隠しごとをしているつもりはないのよ。ただ……」

 リエナは言葉をぼかしたが、ばあさんはそれだけで察していた。

「ようするに、まだお前さんもはっきりとはわかっとらんのじゃな」

 そう言うと続けていくつかの質問をした。リエナの答えをふむふむと聞いたあとに診察である。すべて終えると満面の笑みを浮かべた。

「おめでとう」

「……間違いないのね?」

「間違いない。もうすこしで三ヶ月に入るといったところじゃの。予定日は来年の夏の盛りの頃になる」

 リエナは思わず自分の手をお腹に当てた。そこに浮かぶ表情は限りない喜びと慈愛に満ちた――まぎれもない母親のものである。ばあさんの目にはその表情がこのうえなく美しく映った。

「リエナちゃん、よかったのう。治療をがんばったからじゃよ」

「そんな……。何もかもおばあちゃんのおかげよ。本当にありがとうございます」

 リエナは感極まったように涙ぐんだ。

「やっとわたくしにも赤ちゃんが……うれしい……」

 もう後は言葉にならなかった。ラビばあさんはリエナの背中を撫でながら、続けてこれから気をつけることなどを話してくれた。

「ええか、今がいちばん大事にせんならん時じゃ。落ち着くまでは週に一度は診察して経過を見る必要があるから、わしがここに通ってくることにする。何か困った時には遠慮せずルークを寄越すんじゃ。すぐに来るからの」

「はい」

「とにかく無理は禁物じゃ。冬の間はなるべくゆったりのんびり過ごすようにの。身体を冷やさんよう、これから雪が消えるまでは、なるべく出かけん方がええ。そうはいっても、女達の集まりには出たいじゃろうから、調子のいいときだけにして、必ず行き帰りともルークに送ってもらうんじゃぞ」

 そのほかにも細々とした注意点も話した。リエナは素直に聞き、ばあさんが話し終わるとあらためて頭を下げた。

「おばあちゃん……これからもよろしくお願いします」

「わしに任せておけ。今のおまえさんの身体はぽっかぽかじゃ。腹の赤子も、さぞかし居心地がよかろうて」

 そう言うとリエナを労わるように言葉を継いだ。

「……ええ子を産みなされよ」

 ばあさんの表情はまるで実の孫娘に向けるかのような、あたたかなものだった。

********

「さて、わしは帰るとする。ルーク、邪魔したの」

 診察を終えて出てきたラビばあさんがルークに言った。

「何だ、ばあさん。リエナはどうだったんだ?」

「心配ない」

 ばあさんの顔には見方によっては悪戯っぽいとも言える表情が浮かんでいる。ばあさんとの付き合いはそれなりに長いが、ルークがこんな顔を見たのは初めてである。

「だから……! それだけじゃ訳がわからんだろうが!」

 リエナが心配な余り、ルークはどうしても詰問口調になってしまっているが、ばあさんは気にした風もなく答えた。

「病気じゃないから安心せい。――後はリエナちゃん本人から聞くんじゃな」

 ばあさんはそれだけ言うと、さっさと玄関に向かった。

********

 何が何だかわからないまま、ルークはラビばあさんを玄関先で送り、居間に戻った。リエナも部屋から出てきてお茶の後片付けをしている。

「おい、リエナ」

「ちょっと待っていてね。これを片付けてしまうから」

「そんなのは後でいい。いったい何だったんだ?」

 リエナは一瞬口ごもったが、ルークを見上げてはにかむように微笑んだ。

「あのね、赤ちゃんができたの」

 ルークは一瞬、何を言われているのか、わからなかったらしい。すこし間を置いて声をあげた。

「あか……ちゃん? ……って、お前、こどもができたのか?」

 リエナも輝くような笑顔で頷きを返した。

「……本当か! やったな、リエナ!」

 ほとんど叫ぶようにそう言うと、リエナを思い切り抱きしめた。そのまま何度もくちづけする。しかし突然ルークはあることが気になった。今になって、リエナもラビばあさんもいつもとは態度が違っていたのが引っかかるのだ。

「お前まさか、気づいてたのか?」

「……もしかしたら、とは思っていたわ」

「何で隠すんだ?」

 ルークの声音にはすこしばかり不満げな色がある。リエナとラビばあさんは知っているのに自分だけが仲間外れのように感じたのだ。

「別に隠していたわけではないわ。……わたくしもはっきりとわかっていたわけではないもの。もうあと十日程経っても様子が変わらなければ、おばあちゃんに診ていただこうと思っていたのよ」

「……それなら仕方ないか」

 ルークもようやく納得したらしい。このうれしい知らせを聞けば、ラビばあさんのああいった言動も当然のものだと素直に思える。

「ところで、いつ産まれるんだ?」

「もうすぐ三ヶ月になるんですって。予定日は来年の夏のいちばん暑い頃ね」

「そうか、待ち遠しいな」

「あなたがそう言ってくれてうれしいわ」

 リエナは心からの笑顔をみせた。追っ手がかかることを憂慮し、またリエナ自身も心労から身体を壊したことから一度はこどもを諦めていた。けれどその後、病は完治し、事情が変わったことから二人で話し合ってこどもを持とうと決めたのだ。新たな家族を迎えることは、今の二人にとって何物にも勝る喜びだった。

 リエナを見下ろしてルークがしみじみと言う。

「まだ腹は大きくないんだよな――と言うか、全然変わらん」

 リエナはちいさく吹き出した。けれどそれも致し方ない。ルークの生まれ育った環境――無論リエナも同じであるが――では、間近で妊娠した女性と接することなどまずなかったからである。

「そうね、目立ってくるのはあと一ヶ月……二ヶ月くらい後になると思うわ」

「リエナ」

「なあに?」

「……その、腹に触ってみてもいいか? もちろん力は入れないようにするから」

「もちろんよ」

 リエナはぱっと顔を輝かせた。長椅子に並んで腰掛け、ルークが慎重にリエナの腹部に手で触れた。

「ここにいるんだな……俺達の子が」

「……ええ」

 リエナも頷きを返すと、そっとルークの手の上に自分の手を重ねた。

 ルークはリエナに視線を向ける。深い青の瞳には真摯な光が宿っている。

「あらためてお前に言う。俺がお前と俺達の子を守る。だから安心して元気な子を産んでくれ」

「……ルーク」

 リエナの菫色の瞳にみるみる涙が浮かぶ。ルークはリエナをしっかりと抱きしめた。

「――これからは三人家族だ。一緒に幸せになろうな」

 リエナはルークの胸にすがったまま、ちいさく頷きを返した。




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