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旅路の果てに
第12章 4


 翌朝、ルークもリエナも普段と同じ時間に起床し、いつも通りの日課――ルークは剣の稽古、リエナは朝食の支度をこなしていた。

 昨夜の話し合いを経て、二人の今後の方向性は決まった。後はこどもを持つかどうかである。この問題は一筋縄ではいかない。まずはリエナ自身がどう考えているのか、明らかになってからでないと、話を進めることができないのである。

 リエナは昨夜、今日結論を出すと言った。午前中は普段と変わらず、朝食を終えた後は家事に勤しんでいる。ルークも回答を急かすような真似はせず、こちらも村の仕事に――収穫の最盛期であるから、やることはいくらでもある――精を出していた。

 村人もみな忙しく立ち働いている。村のまとめ役のジェイクもロチェスの馴染みの店から注文を受けて、妻のエイミと一緒にせっせとルビスの恵みを仕分けている。他の村人もそれぞれの作業に忙しく、集会所や外で顔を合わす以外、今日は夜までほとんど誰も二人の家を訪ねてこなかった。

 ラビばあさんだけは、午前中に昨日言っていた薬を持ってきてくれたが、玄関先でリエナに薬だけを手渡すとすぐに帰って行った。

 多忙な一日を終えて、二人が夕食の席についたのは、いつもよりもすこしばかり遅い時間だった。

 今夜もリエナの心づくしの手料理が並ぶ。ルークは顔をほころばせると、いつも通りの大食い振りを発揮した。リエナもその様子をうれしそうに眺めながら、ゆっくりと料理を口に運んでいる。

 食事が終わり、片付けを済ませたところで、リエナが口を開いた。

「ルーク、昨日の話の続きをしたいの」

「結論、出たんだな?」

「ええ」

 リエナの菫色の瞳に迷いの色はない。

「わかった」

 二人は並んで、居間の長椅子に座った。リエナがルークに視線を向ける。

「ルーク、わたくし、あなたのこどもが欲しいわ」

「そうか」

 ルークは短く答えると、続きを促した。リエナの思いを残らず話してもらうためである。リエナも言葉を選びながら、話し始める。

「正直なことを言えばね、わたくし、こどもを持つことはあきらめていたの。前にも話したけれど、ムーンペタにいた頃にも治療を受けていたわ。けれど、まったくと言っていいほど効果がなかったのよ。わたくしの侍医はムーンペタでも一流と呼ばれた人だったし、本当に献身的に治療にあたってくれていたのにね。それがおばあちゃんに診察してもらって、原因が心労だとはっきり指摘されてようやく真の原因に思い当ったのよ。そして、おばあちゃんに治療さえすれば必ず治るって言ってもらえた時、わたくしの中で、何かが変わったわ」

 リエナの表情がふっと変わる。

「――あなたのこどもが欲しいと、望みはじめたのよ。心の奥底で」

 その後もリエナは自分の思いを吐露し続ける。

「でもね、ここに来た時には違っていたわ。あなたと暮らせると思うだけで本当に幸せだったの。ムーンペタで軟禁されていた時には、せめてもう一度だけ、あなたに会いたかった。それがかなったどころか、ずっと一緒にいられるのだから……」

 リエナは今も、ルークがムーンブルクでの地獄のような日々から救い出してくれたことを感謝し続けている。あの満月の夜、ルークがすべてを捨てて来てくれなかったとしたら、今頃は間違いなく生命を落としていたのだから。

「それにね、もし授かったとしても、とても喜べなかったわ。だって、見つかったらムーンブルクに連れ戻される。戻ったところで、国を捨てたわたくしが王位継承権を保持しているとみなされるかすら定かではないのよ。仮に保持できていても、チャールズ卿は出奔を理由に、わたくしを確実に廃太子に追い込もうとするわ。それに、こどもがわたくしの子だと認めてもらえるかもわからない。もし嫡子と認められ、王子または王女の宣下を受けたとしても、今度はチャールズ卿との王位継承争いを避けられない。いいえ、それどころかチャールズ卿はまたわたくしを暗殺しようとするわ。最初の計画通り、わたくしの死後は卿が即位するという遺言書を偽造して、わたくしの子もろともに……」

 リエナは膝の上で、両手をぎゅっと握った。

「この問題はムーンブルクだけに留まらない。父親があなただとわかれば、ローレシアも巻きこんでしまう……。それだけは、どうしてもそれだけは、避けなければならないのよ……」

 リエナは目を伏せた。長い睫毛が震えている。

「……だから、わたくしはこどもを望めない身体でよかったのだと、そう思い直してもいたの。おばあちゃんにはっきりと今の健康状態ではこどもを授かることはできないって言われて、悲しいけれどやっぱり仕方がないって思ったの。それが、治療すれば良くなる、まずは身体をきちんと治すことが一番大切で、こどもを持つかどうかは完治してから考えても遅くない。その時になったら、ルークとよく話し合って、二人で決めたらいいって言われたわ」

 リエナは面を上げた。菫色の瞳に、あたたかな、それでいてどこか寂し気な笑みが滲む。

「もしかしたら、あなたのこどもを産むことができるのかもしれない――思いもしなかった感情が湧き上がってきて、自分でも心境の変化にとまどったわ。それと同時に、決してそれを望んではいけないと、自分を戒める気持ちが働いたのも事実なの」

 その理由は聞くまでもなくはっきりとしている。

 もし二人が追っ手に見つかり、それぞれの国に戻ったとしたら出奔自体もさることながら、リエナが子を持つ母となっていれば、また子の父が誰であっても大問題となる。おまけに、ルークが父であるとはっきりすれば、更に問題は深刻になる。ルークとリエナは婚約が内定していたものの、ムーンブルク崩壊で白紙に戻っている。その状況は今も変わらない以上、二人がいくら子を生したといえど、正式な婚姻は有り得ない。当然のことながら、ムーンブルクはローレシアに対し、次期女王を辱めたことに対する莫大な賠償を要求するだろう。

 まさに、全世界を揺るがす前代未聞の醜聞である。

 それが、ルークの薨去が公式発表されたことで状況が変わった。

 ルークがローレシア国内で薨去している以上、リエナの子の父親がルークでは有り得ないということになる。従って、この問題において、ローレシアを巻き込む懸念が無くなったのだ。

 また、追っ手の気配をまったくと言っていいほど感じないことから、まず間違いなく、ローレシア、ムーンブルクの両国では、二人の居場所どころか有力な情報すら掴んでいないと考えられる。ムーンブルクのチャールズ卿が捜索を諦めるとはとても思えないが、今後見つかる可能性は極めて低いのである。

 リエナは心の奥ではこどもを望んでいた。けれど、それが許されない状況から自分の気持ちを無意識のうちに抑え続けてきた。けれど、今になって突然状況が変わってしまったのだ。

「昨日、おばあちゃんから完治したと告げられ、その直後に薨去の報を聞いて、心の底からあなたのこどもを産みたいと思ってしまったのよ。一度自覚してしまったら、もうその思いを抑えきれなくなったの。だから、素直に自分の感情を認めるしかなかった。そして、わたくしが次に考えたのは、授かるかもしれないこどもの将来……」

 リエナがルークを正面から見つめる。

「わたくしは我が子に幸せになってほしい。ささやかでいいの、成長して、働いて、愛する人と家庭を持って、身分や義務に縛られることなく自由に生きてほしいわ。――自分の、力で」

 リエナの言葉には迷いがない。しかしルークは、リエナがこう言えるようになるまで、どれほどの葛藤があったのか――それに思い至って、心が痛んだ。

 今までであれば、常に追っ手に発見される可能性を考慮し、連れ戻された場合の対応も考える必要があった。しかし、ローレシアでの薨去の発表で、ルークは帰るべき祖国を失った。だから自分も、生涯、市井の民として生きていく。今後何が起ころうとムーンブルクへ戻ることはないという決意に他ならないからだ。

 これはまさに、真の意味で、ムーンブルクを捨てるという意思表示である。

 リエナはほうっと息をついた。言うべきことはすべて言い終わって、どこかしら安堵の表情にも見える。

「……そうか。お前の考えはわかった」

「わたくしは言いたいことはすべて伝えたわ。だから、今度はあなたの考えを聞かせてほしいの」

「俺の答えは簡単だ。お前に俺の子を産んでほしい」

 リエナは一瞬、信じられないといった表情を見せる。

「……本当に?」

「ああ。――何で、そんなふうに聞くんだ? 俺が子を望んでいないとでも思っていたか?」

「ごめんなさい、それについては、あなたがどう思っていたのか、よくわからなかったのよ」

 リエナはためらいがちに付け加える。

「……それに、あなただって、こどもを持たない方がいいと考えていたのではなくて?」

「確かに、トランの村に来たばかりの頃はそう考えていたこともあった。だがな、今なら授かったらいいと思ってる」

「……そうなの?」

「ああ。トランに来て一年以上、まったく追っ手の気配もない。俺は公式で死んだことになったから、ローレシア側の心配はなくなったしな。ムーンブルクの方は厄介だが、俺達の居場所については、碌な情報も掴んでいないはずだ。今後も見つかる可能性はまずないと思う」

 そう言うと、ルークあらためてリエナに向き直った。

「リエナ。心の底から惚れて、拉致同然の出奔までして一生をともにすると決めたお前との子を、俺が望まないと思うか?」

「……ルーク」

「この一年、色々なこともあったしな。だが、生活も落ち着いてきて、おまえの病気も治った。こどももいる家族が欲しくなるのは当たり前じゃないか」

「……こどももいる家族、そうね、そうよね」

「もう一度言う。俺はお前との子が欲しい」

 ルークの言葉に一切の迷いはない。

「俺が全力で守る。――お前も、俺達の子も」

 ルークが穏やかな笑みを見せる。その笑みは限りなく暖かく、そして力強い。リエナは、あの時ルークとともに歩む人生を選択したことは、決して間違いではなかった――そう確信できていた。

 リエナはあのムーンブルク崩壊で、自分の家族も失っていた。けれど、このトランの村で、新たな家族を作っていく――ルークとともに。

「……ルーク。ありがとう」

 リエナがルークの胸にすがる。ルークはリエナをしっかりと抱きとめた。

「お前は俺の妻だ。これからも、ずっと一緒に暮らしていこうな」

 もう言葉にならなかった。菫色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

********

 その夜。

 リエナの身体は、新たな歓喜にうち震えていた。

 ルークに触れられるたび、くちづけを受けるたびに、心の底から湧き上がる、歓び。

 これまでは、ただひたすらに、二人の愛を確かめあうために触れ合っていた。

 激しく求めあい、満たしあうことで、互いの存在を、二度と手を離さないことを、確認し続けてきた。

 リエナの内部で、何かが変化しつつあった。

 まるで、これまで身体の奥深くで眠っていたのものが、ようやく目覚めたかのように。

 未来へつながる、生命。

 新たな家族。

 自らが生きた証。

 一度は失ってしまった、家族。

 それを再び作り上げる。この地で、ルークとともに。


 ――リエナはルークに抱かれ、想いのすべてを開放する。




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