次へ
                                                       戻る
                                                      目次へ
                                                     TOPへ

旅路の果てに
第12章 5


「この役立たずめが!」

 チャールズ卿の叱責の声が飛んだ。秋も深まった深夜、ムーンペタの離宮にある卿の執務室での出来事である。

 卿の前では、密偵の一人が平伏したまま、動けずにいる。

「畏れながら、どこにもリエナ殿下のお姿は影すら残っていないのでございます。これ以上どこをどう捜索すれば良いのか……」

 卿は密偵にみなまで言わせなかった。卿の小声での呟きが聞こえた直後、密偵の口から苦悶の叫び声が上がる。

 密偵は激しい痛みに、自分の腕に目を向けた。ひどく焼けただれている。何故こんなことになっているのか、一瞬わけがわからなかった。しばらく呆然とするしかなかったが、ようよう原因に思い至った。あろうことか、卿が密偵に向かって火球の呪文を放ったのだ。

 密偵はのろのろと目をあげた。信じられないような表情で卿を見た。卿の薄茶色の瞳は凍てつくような冷たさのみが宿り、人間を傷つけたことに対しては何の感情も表れていない。密偵の背中に悪寒が走る。

 攻撃魔法を人に向けて発動することは絶対の禁忌である。魔法使いとして修業を始める時、誰もが最初に徹底的に叩き込まれるのだ。

 攻撃呪文はあくまで魔物と戦うために習得するものである。そのため、人間に対して発動することは演習などの例外を除き、固く禁じられている。このことはムーンブルクの民であれば、幼子であっても必ず知っている掟だった。

 それにもかかわらず、チャールズ卿は密偵に向かって火球の呪文を放った。しかも、明らかに傷つける目的としか思えなかった。いくら怒りが頂点に達したとはいえ、卿ほどの魔法使いが自分の魔力を制御できないはずがない。

「貴様など不要だ。何をぐずぐずしている。さっさと出て行け!」

「……申し訳……ございません」

 密偵は火傷を負った腕を庇いながら、這う這うの体で退出していった。

********

「まったく、どいつもこいつも使えない者ばかりではないか……!」

 チャールズ卿の怒りは治まらない。それどころか、日に日に行動は常軌を逸したものになってきている。最近では気に入らないことがある度、見境なく攻撃呪文を発動する。

 初めて火球の呪文の犠牲になったのは、若い侍女だった。出された酒を一口飲んだ卿は顔をしかめると、いきなり侍女に向かって酒杯を投げつけた。そればかりか、平伏して謝り続ける侍女に向かって、呪文を発動したのだ。

 侍女も魔法使いの禁忌のことは知っている。まさか、自分に向かって攻撃呪文を発動するなどとは思いもよらず、気がついた時には火球は彼女の頭の横をかすめていた。呪文自体は怒りに任せての短時間での詠唱だったために大した威力はなく、やけどもせずに済んだのは不幸中の幸いだった。しかし、いきなり火球を放たれた恐怖がいかほどかは察するに余りある。

 侍女はその場で失神した。卿は侍女をそのまま放置して、別の侍女を呼び、新たに酒を運ぶよう命じた。別の侍女は、同輩が床に倒れ伏しているのに気付いたが、その場では何もできなかった。

 チャールズ卿の方は運ばれた酒が今度は口に合ったらしく、やや機嫌を直していた。ここで初めて床に倒れた侍女を思い出したらしい。酒を運んできた侍女に倒れた侍女を連れていくよう、乱暴に手で追いやった。

 介抱されて、倒れた侍女はようやく息を吹き返した。二人の侍女は、もつれる足を必死に動かし退出していった。

 その後、似たような被害者がたびたび出るようになったのである。

 チャールズ卿が人間相手に攻撃魔法を発動するようになったきっかけは、他ならぬローレシアでの、ルーク薨去の報だった。

 卿はこれで、誰はばかることなくルークを血祭りに挙げられるとほくそ笑んでいたのに、その後も一向に見つからない事態に焦燥を募らせていった。これまでは曲がりなりにも残忍な性格を隠蔽してきたのであるが、碌な情報すら得られないことに苛立ち、だんだんと普段の行動までもが常軌を逸し始めたのだ。

 しかも、行動は日を追うにつれてひどくなっている。発動する火球の呪文の威力も、軽いやけど程度では済まなくなっている。

 幸い、ムーンペタには回復の呪文を使える魔法使いが大勢いる。やけどを負った被害者はすぐに呪文で癒され、痕が残ることもほとんどなく治癒している。しかし、いつ自分に火球の呪文が発動されるかはわからない。密偵や召し使いら周囲の人間はみな恐れをなして、どうしても必要な時以外は、卿に関わらないようになりつつある。

 ある側近の一人が思い余って、卿の父であるフェアモント公爵へ訴え出た。しかし、卿が暴走を始めたら誰も止められないことを一番よく知っているのも公爵だった。下手に窘めでもしようものなら、どれほどの暴言を吐かれるかわからない。誰が何を言おうが卿が行動を改めることなど絶対にないから、我関せずとの姿勢を貫いている。

********

 チャールズ卿は机の上の呼び鈴を鳴らした。

 間髪入れず、中年の侍女が現れた。わずかでも待たせると、卿は手が付けられなくなる。以前は行儀見習いとして離宮に上がった若い娘が卿付きの侍女となったが、流石に成り手がいなくなっている。この中年の侍女は美しくはないが気は利くため、いつの間にか卿付きの役目を押し付けられた格好なのだ。卿としても、盛りの過ぎた中年女よりも、見目良い娘の侍女の方がいいに決まっているが、それ以上に手際の悪さにいらつくことから、最近ではこの侍女に用事を言いつけるのが常だった。

 侍女の方はすでに諦めの境地だった。チャールズ卿は一旦怒りだすと手が付けられなくなるが、要求をきちんとこなしさえすれば、今のところは自分に危害が及ぶことはない。侍女はムーンブルク崩壊で家族も自宅も失った。人生の後半で天涯孤独となり、途方に暮れていた時、たまたま公爵家で侍女を募集していて雇われたのだ。今更暇を取るとはとても言い出せず、また住む家すらない以上、これしか生きていくための手段が残されていない。ひたすら息をひそめて、控えの間で待機し続ける日々である。

「御用でございますか」

「酒だ」

「かしこまりました」

 侍女は最低限の言葉でしか話さない。どんな言葉が卿の逆鱗に触れるきっかけになるかわからないからだ。酒の種類を訊ねることもしない。卿の好みは把握している。要求されたものを如何に手早く供するかにだけ、心をくだけばよい。

 侍女は一旦退室したと思う間もなく執務室に戻ってきた。卿の傍らの卓上に酒肴を並べ、そのまま深々と一礼して部屋を出ていく。卿も何も言葉をかけることもなく、すぐさま酒杯を手に取った。

 最初の一杯を一気にあおり、空になった酒杯に新たな酒を注ぐ。

 これもまた一気に飲み干したところで、卿の顔に奇妙な笑みが浮かぶ。この笑みは決して人前では見せることはない。もし目にすればその不気味さに、誰もが思わず目を背けたくなるほどのものだった。

 同時に、歪んだ口の端から笑い声が漏れる。

 ここ最近の卿は、夜一人酒をあおりながら想像にふけるのが日課になっていた。想像の内容は決まっている。

 リエナの凌辱と、ルークの公開処刑である。

 二人が見つかった後どう処分するのか、それを事細かに想像することで鬱憤を晴らしているのだ。

 卿の計画はこうだった。まず手始めに、リエナを犯す。それもただ犯すのではない。ムーンブルクで最も高貴な女を性奴隷のように扱い、地獄に堕ちた方がましだと思うほどの辱めを与えるのだ。しかもそれを、ルークの目の前でやろうというのである。当然リエナは呪文を発動して抗おうとするだろうが、あらかじめ魔法を封じておけば問題ない。いくら当代最高の魔法使いといえど、ムーンペタの魔法使いを総動員して何重にも呪文封じの呪文をかければ退けることは不可能だろう。

 凌辱される姿をルークに見られることによって、リエナの心身の傷はこれ以上ないほど深くなる。ルークも同じだ。生命をかけて守ってきたとまでほざいた女を、憎しみしかない相手に限界まで凌辱される。その心情はいかばかりか。

 リエナが必死になって抵抗し、声をあげて抗う度に、更なる辱めを与える。しかし最後には、リエナの声は苦痛ではなく、肉体の快感を告げるものに変わるに違いない。ルークによって目覚めさせられた女体が、自分の行為に反応せずにいられるはずがないのだ。その変化を想像するだけで、そして何より、それを目の当たりにさせられたルークの反応がどうなるのか、考えるだけでもたまらなかった。

 次に、ルークを処刑する。そして、執行の様子はすべて公開するのだ。ルークはローレシアの王子ではない。単なるムーンブルク次期女王の拉致強姦犯であるから、誰にも遠慮せず、堂々となぶり殺しにできる。もちろん、その席にはリエナを連れてくる。リエナは半狂乱になってルークを救おうとするだろうが、やはり魔法を封じておけばいい。呪文を封じられた魔法使いなど単なるかよわい女にすぎず、取るに足らない存在でしかないのだから。

 公開で処刑することには、もう一つ大きな利点がある。リエナの拉致強姦犯が、ルークだということを全世界に知らしめることができるのだ。

 無論、ルークは公式では死んでいる。だから、処刑される男がローレシアの王太子だったとは誰も言うことができない。しかし、死にゆく男が紛れもないルーク本人であるのは明白であるから、先日の薨去の報は虚構であり、リエナの拉致を隠蔽する目的だったと、これまた白日の元に真実が晒されるのだ。

 ルークの公式での名誉は保たれる。けれど、一人の人間としての名誉は地に落ち、汚泥にまみれたものになる。

 ルークの処刑後、更にリエナを凌辱する。もうどんなに叫んでも抗っても、ルークはこの世にいない。絶望の淵でリエナは死を望むだろう。けれど、そうやすやすと死なせるつもりなどない。肉体的にはもちろん精神的にも徹底的に痛めつけ、廃人になったところで離宮のどこか――今は使われていない塔にでも幽閉する。対外的には、リエナは引き続き病であるとでも公表し、自分が実権を握る。

 そしてゆくゆくは、自らが王位に就くのだ。

 ――チャールズ卿の顔はますます歪み、口からは高笑いの声が響き渡る。

********

 控えの間では、侍女が身をすくませていた。ここ数日、深夜命じられて酒を運んだ後、この高笑いが聞こえるのだ。思わず耳を塞ぎたくなるが、またいつ呼ばれるかわからない以上、耐えるしかなかった。

 侍女は言い知れぬ不安に駆られながらも、既に思考は停止している。




次へ
戻る
目次へ
TOPへ