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旅路の果てに
第13章 4


 いよいよ夏も盛りに近づいてきた。初夏の日差しは眩しく、暑さも日に日に厳しくなっている。リエナは大きなお腹で家事をこなすのが大変そうだった。それでも安定期に入った後は悪阻もおさまり、心配していた体調を崩すこともなく経過は順調である。

 もうあとしばらくすれば、いつ産まれてもおかしくない時期になるため、週に1−2度、ルークと二人でラビばあさんの家に通っている。こどもを迎える準備もすっかり整い、こども部屋にする予定の寝室隣の小部屋には、村の男達が作ってくれたちいさな寝台をはじめ、産着など必要な物がきちんと用意されていた。

********

 今日も二人は連れ立ってラビばあさんの家に出かけた。ラビばあさんは二人を家に迎え入れると、香草をたっぷり入れたお茶を淹れてくれた。口に含むと涼しげな香りがいっぱいに広がり、暑さを忘れるような味わいである。

「これ、いつ飲んでもうまいな。最初はこのくそ暑い時に熱い茶なんて何考えてんだって思ったんだが、飲んでみたら反対に涼しく感じる」

「暑気払いにはぴったりじゃろ? そう感じるように調合した、わしの自信作じゃ。しかしルーク、褒めてもなーんも出んぞ」

 リエナも笑って同意した。

「本当に不思議よね。さっぱりしていて、とても飲みやすいもの」

「夏だからというて冷たい物ばかり飲んでおると身体を冷やすからの。特にリエナちゃんはもともと冷えやすいようじゃから、暑い時でもこういうものの方がよかろうと思うたんじゃよ。ま、ルークは冷たかろうが何だろうが平気じゃろうがの」

「またそうやって、俺のことを殺しても死なないくらい丈夫だって言いたいんだろうが」

「間違っとらんじゃろ? それよりルーク、何か複雑な顔をしとるが、どうかしたのかの?」

「いや、前にばあさんが言ったこと、本当だと思ってな」

「何じゃ? わしが言ったこととは」

「リエナが最近よく食うんだ。話には聞いてたとはいえ、本当だったから驚いた」

 今も食卓にはリエナの持参した焼き菓子の他、ばあさんの心づくしのお茶請けが幾種類ものっている。リエナもさっぱりとした香草茶のおかげもあって、いつもよりも食が進むらしい。

「わたくし、そんなに?」

「ああ、実際に見るまで信じられなかったんだがな」

 リエナはやや恥ずかし気にうつむいた。リエナにもその自覚はあるだけに、いくら妊娠中とは言え、人の何倍も食べるルークに指摘されるのはやはり気になってしまうのである。

「あ、悪い。別にそういう意味で言ったんじゃないぜ。悪阻の間はほとんど食えなかったから、逆に安心してるんだ」

 二人の微笑ましい遣り取りに、ばあさんは頷きを返した。

「ルーク、だから心配せんでも大丈夫だと言うたじゃろ? リエナちゃん、今はしっかり食べてええ子を産むんじゃよ」

「ありがとう、おばあちゃん。でもね、わたくし食べ過ぎじゃないか心配になってきたわ。――大丈夫かしら」

「リエナちゃんは元が細いうえに悪阻で減った分もあるから、まだまだ大丈夫じゃよ。じゃが、食べてばかりもよくない。前にも言うたが、今の時期はある程度身体を動かすことも必要じゃ。それから、ルーク。おまえさんがリエナちゃんを大事にするのは結構じゃが、それも行き過ぎはよくない」

「ああ、気をつける」

 ルークのいつもとはすこしばかり違う反応に、ばあさんはちょっと目を瞠った。

「ほう、今日はえらく素直じゃ。ルークもそろそろ父親になる自覚が出てきたかの」

「そりゃそうだろ? 日に日にでかくなるリエナの腹見てるんだから」

「それがそうでもないんじゃよ。実はの、ルークは赤子が産まれたらリエナちゃんを取られて寂しがるんじゃないかと思っておったんじゃが……違っておったか」

「いや、それはある」

 大真面目に言うルークに、ラビばあさんは、腹を抱えて笑った。

「正直で何より」

「あら、そうなの? 今までそんなこと一度も言ったことなかったわ」

 リエナが意外そうに呟いたが、ばあさんは笑ってかぶりを振った。

「リエナちゃん、初めて父親になる男はみんなこんなもんじゃ。おなごと違うて男は腹の中で赤子を育てるわけではないから、産まれるまで実感が湧かないのも仕方ない。特にルークはリエナちゃんに心底惚れておるから、余計に寂しいんじゃよ。それでも、産まれたらルークは間違いなく、子煩悩になるじゃろ」

「確かにそうかもしれないわね。そうしたら今度は、わたくしは放っておいて赤ちゃんの心配ばかりしていたりしてね」

 リエナにしては珍しく冗談めいた言葉である。

「赤子の心配はありえる話じゃのう。じゃが、このルークがリエナちゃんを放っておくことだけは絶対にないじゃろな。もうどうしようもないほど惚れておるからの」

 ルークはこのラビばあさんのからかう様な口調に、開き直ったように反論した。

「ああ、俺はリエナに惚れてるぜ」

「今更強調せんでもわかっとるわい。さて、リエナちゃん、お茶も飲み終わったことじゃし、診察をしておこうかの」

********

「さて、腹の赤子も元気じゃ。よく蹴っ飛ばされるじゃろ?」

「ええ、もうしょっちゅう。時々痛くて一瞬動けなくなることもあるくらいよ――でも元気な証拠だもの。うれしいわ」

「結構結構。もしかしたら、男かもしれんのう。ルークに似とったら、さぞかし腕白になるじゃろうて。そうしたら、リエナちゃんは追いかけるのが大変じゃ」

 思わず互いに笑みを交わす。リエナの明るい笑顔はばあさんにも眩しいほどだった。

 二人が居間に戻ると、待ちかねたようにルークが尋ねる。

「どうだった、腹の子は元気か?」

「ええ、とても元気よ。もう予定日まであと一月もないわ」

 ラビばあさんも笑顔で頷き、ルークに視線を向ける。

「経過は順調。あとはいつも言っとるように、リエナちゃんが何かおかしいと思ったら、すぐにわしのところへ人を寄こすようにの。じゃが、心配し過ぎるのはかえってよくない。母親になるおなごなら、みな通る道。男のおまえさんができることはない。最初の子は特に時間がかかるから、しっかり覚悟しておくんじゃよ」

「わかった……なんか緊張してきたぜ」

「今からそんなんでどうする。本番はもうちょい先じゃ」

「ああ、リエナと俺達の子をよろしく頼む」

「おばあちゃん、よろしくお願いします」

 あらためて頭を下げる二人に、ばあさんは頼もし気に頷いた。

「わしに任せておけ――夫婦してほんに律儀なことじゃ」

********

 予定日が近づくにつれ、リエナは幼かった昔の日々を思い出すことが増えてきた。

 あのムーンブルク崩壊の日、その後の長く過酷な旅、凱旋後のルークとの別離の日々。運命に翻弄されながらも抗い続け、ぎりぎりのところでルークに救い出された。

 縁あって、ここトランの村に移り住み、穏やかな日々を送るようになって、ようやく心にも昔を懐かしむ余裕が出てきたのかもしれない。そのせいか、しきりに母のことが思い出されるのである。

 実母である王妃シルヴェーヌは透き通るように美しい佳人だった。病弱ゆえにか物静かで、リエナの記憶にある母は、自室の寝台に横たわってるのが常だった。それでもいくらか調子のよい時には、お気に入りの椅子に腰掛けた母王妃の膝の上で絵本を読んでもらうことができる。幼いリエナにとっての何よりの楽しい時間だった。

 リエナの脳裏に、ある記憶が突然よみがえった。あまりにも悲しい出来事が多すぎて、意識の底に封じ込められていた記憶。

 それはたった一度だけ出かけた、母との散歩。リエナが4歳になったばかりの春爛漫の日、城内の大きな古木がこぼれんばかりの花をつけたのだ。淡い桃色のちいさな花がびっしりと咲き誇り、重たげに枝を揺らしている下で母が見せた微笑み。

 あまりにも儚く、この世のものとも思えないほどに美しかった。

 それから間もなく母は身罷った。リエナは悲しみに暮れながらも、不思議な感覚に囚われていた。棺に眠る母は、リエナの目には何一つ生前と変わらぬようにしか映らない。物言わぬ母が、どこか安堵の表情を浮かべているように感じられてならなかったのだ。

 そして長い月日が経って、儚げな微笑みの陰に隠された苦悩の真の理由を知った。母に課せられた使命の重さ。それを思うと今も胸が痛む。それでも決してリエナに見せることはなく、自らの使命を果たして母は逝った。

 リエナは目を閉じ、月への祈りの言葉――ルビス教とは別に、古からムーンブルクへ伝わる独自の信仰である――を唱えた。その後もしばらくの間、亡き母を偲んでいた。

 リエナにはもう一人、懐かしいひとがいる。乳母だったマーサである。幼くして母王妃を亡くしたリエナにとっては実母にも等しい存在だった。マーサは献身的に仕え、何よりもたくさんの愛情を持って育ててくれた。

 あたたかく懐かしい笑顔を思い起こしながらも、マーサにはマーサの人知れぬ苦労を思い出さずにはいられない。

 マーサがどこまで真実を――亡き母の苦悩の原因、そしてリエナ自身の存在意義――知っていたのかはわからない。けれど、今も自分の幸せを願い続けてくれるであろうことを疑うことはなかった。

(わたくしが母になると知ったら、喜んでくれるに違いないわ)

 やはり、自分自身が母となるからなのか、この二人の母との記憶が愛おしく懐かしくてたまらない。

「……お母様、マーサ」

 リエナは愛おしげにそっとお腹に触れる。間もなく迎える新たな家族。自分が生きてきた証。次代へ繋いでいく生命。

 菫色の瞳に涙が滲む。これまで流してきたものとは違う、あたたかな涙だった。




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