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旅路の果てに
第3章 2


 サマルトリアの王太子であるアーサーも、秘かにムーンブルクに関する報告を受け、この事態に心を痛めていた。彼は、ルークとリエナ、二人にとってかけがえのない親友であり、最大の理解者であり、よき相談相手であった。そして、二人の周囲で唯一の、すべての事情を知る人物でもある。ルークとリエナの出会い、婚約内定、正式発表直前での婚約解消の事情、ルークがリエナの亡き兄で、自身にとっても親友であったユリウスの言葉『自分に万が一のことがあったら、リエナを頼む』を遺言としていることも、旅の間、ルークがどれだけリエナを気遣い、命懸けで守り通してきたかも、そして、リエナがすべてを失った後、彼女にとって唯一、心安らげる場所がルークのそばであることも、知っていた。

 二人が初めて会った時から惹かれ合っていたことも、旅の間に、互いに何も口には出さなくても、深く愛し合うようになっていったことも、つぶさに見てきたのである。ルークが一向にリエナに自分の想いを打ち明けようとせず、それにリエナが不安を感じているのを知って、いらいらさせられたことも多かった。しかし、その理由が理解できるにつれ、何とか二人に幸せになってほしいと切望していた。そして時には、ルークに発破をかけたり、リエナの相談相手になったりもしながら、見守り続けてきたのである。

 特にリエナには、大国の王女に生まれながら、他人には想像もつかないほどの苦労を負ってきた分、幸せになってほしかった。自分には幼いころに将来を誓った婚約者がいて、近々婚儀を挙げるのが決定しているし、自分の妹姫が何不自由なく幸せに、周囲の愛情に囲まれているのを見て余計にそう願っていたのである。

********

 この日、アーサーは父であるサマルトリア王の執務室を訪ねていた。王はいつもと同じく、淡々と書類を熟読し、決裁の署名を続けている。

「父上」

「アーサーか」

 王はちらりと息子の姿を見遣ったが、すぐに手許の書類に視線を戻した。

「お話したいことがございます」

「ムーンブルクのことだな」

「はい」

「その件なら、話すことは何もない」

 王は執務の手を休めることなく、そう答えた。

「ですが……!」

「お前がいくらルーク殿とリエナ姫とともに生命を懸けて戦ってきた仲間であっても、この問題は別だ」

「父上も、リエナ姫の現状についてはお聞き及びと思いましたが」

「もちろん報告は受けておる。だが、サマルトリアが口を出すべき問題ではない。いくら表面上だけとはいえ、リエナ姫が復興事業の指揮を執り、次期女王としての即位も決定しておる以上、こちらが何かを言えば、内政干渉としか見えないのだ。そんなこともわからぬほど、お前は愚かではないはずだ」

「私もそのことは承知しております。ですが、現状はあまりにも許し難いことではありませんか」

「お前はそう言うが、まだ我が国も、ムーンブルクの内情を正確に把握しているわけではない。今の状態で迂闊な行動を取れば、痛くもない腹を探られることになる」

 そう言うと、王はアーサーに向き直った。

「まもなくお前の婚礼の儀がある。余程のことがない限り、リエナ姫も出席なさるだろう。その時の姫の様子次第で、今後の対応を考えても遅くはない」

「……わかりました。ですが、もしリエナ姫がムーンブルク次期女王としてふさわしからぬ待遇を受けているのであれば、黙っているわけにはいきません。ともに戦った仲間であるからだけではなく、サマルトリアとしてでもです。その点だけは、ご承知おきください」

 アーサーは執務室を退出し、自室に戻る途中も考えを巡らせていた。サマルトリアはロト三国の中では一番国内情勢が安定しているとはいえ、他国に内政干渉できないのはローレシアと同じである。現在の状況では、中立を守る立場を崩すわけはいかなかったから、今はまだ、父王の指示に従うしかない。けれど、ともに生命を懸けて戦ってきた、かけがえのない仲間の危機に、自分が何もせずにいられるわけもなかった。アーサーはルークとリエナに直接会って話したかったが、機会があるとすれば、自分の婚儀の時しかない。何とか時間を作って、個別に面談できるよう、秘かに根回しを始めることにした。

********

 その頃、ロト三国では、まことしやかに、ルークとリエナの噂話が囁かれていた。

 曰く、

『ローレシアがこの機に乗じてムーンブルクを取り込もうと、陰謀を企てている』

『リエナはローレシアから復興援助を引き出すため、美貌を武器にルークを誑しこんだ。ルークはまんまと引っ掛かり、リエナに手を出し、結果として、損害賠償の代りにムーンブルクへの大規模な復興援助をせざるを得なくなった』

『リエナはルークとアーサーの二股をかけていたが、最終的にアーサーは幼馴染みの婚約者コレットを選んだため、ルークに的を絞った』

『ルークとアーサーがムーンブルクを手に入れるためにリエナを争ったが、リエナはロト三国宗主国の王太子であり、まだ相手が決まっていないルークを選んだ』

 などである。この他にも、とても聞くに堪えないようなひどいものすらあった。これらは、何らかの利得を得ようとする貴族らによる、はっきりと悪意を持ったものもあれば、もっと身分の低い、国政にはまったく関与できない階級の人間が、単なる興味本位で面白おかしく話し合っているものもあった。

 これらの噂話は、本人達の耳にも届いている。ルークとアーサーはともかくとして、まだ若い女性であるリエナにとっては、耐え難いほどつらいものだった。それでも今は耐え忍ぶしかない。そして三人は、これらの噂を一切無視し、何事もないように振る舞っていた。下手に反応して、余計に噂を煽ったりしては、噂をした人々を喜ばせるだけだからである。

********

 厳しい寒さが徐々に緩みはじめたある日、チャールズ卿はリエナの部屋を訪れていた。チャールズ卿は茶菓を運んできた侍女に労いの言葉をかけた後、さりげなく人払いをすると、おもむろに話を切りだした。

「リエナ姫。ご報告したいことがあります」

「何でしょうか」

 答えるリエナの表情は硬い。また何か、自分にとって不利な話を聞かされるのでないかと、身構えていた。

「サマルトリアより、あなた宛てに書状が届きました。アーサー殿下の婚礼の儀の招待状です」

「アーサーが……」

 硬かった表情がふっとやわらぎ、笑みが浮かんだ。リエナにとっても、喜ばしい報告である。

「わかりました。それでは、わたくしが出席する旨、返答をお願いいたします」

「そのことですが……」

 チャールズ卿は、わざと一呼吸置くと、言葉を継いだ。

「婚礼の儀には、ムーンブルク次期女王の名代として、フェアモント公爵が参列する旨、決定しました」

 思わぬ言葉に、リエナは自分の耳を疑っていた。

「どういうことですの?」

「あなたのご健康状態では、婚礼の儀のような、緊張を伴う儀式に参加なさることは無理だとの、侍医の判断です」

「そんな……」

「既に、サマルトリアへは正式に返答してあります。よろしいですね」

「わたくしの許可なく、もう返答したとおっしゃるのですか?」

「そうです。既に議会の承認も得ています」

「アーサーはわたくしにとって、かけがえのない友人ですわ。その友人のお祝の席にすら、出席させてはもらえないのですか」

「アーサー殿下があなたにとって、大切なご友人であることはもちろん承知しています。ですが、無理なものは無理でしょう。名代を立てるのはあくまで、あなたご自身の体調を慮った上での判断なのですから」

 その後もリエナは、自分が出席したいと何度も訴えたが、チャールズ卿はにべもなく、既に議会に諮って決定したうえで正式に返答したから覆せない、と繰り返すばかりである。

 かけがえのない仲間の慶事の報に喜びもつかの間、リエナはまた自分をないがしろにしたフェアモント公爵家の行いに、涙を呑んで耐えるしかなかった。

********

 凱旋から約半年後、サマルトリアに春の花々が咲き始めたころ、アーサーと幼馴染みの婚約者コレットとの婚儀が執り行われることとなった。

 ルークも今、ローレシア王の名代として親友の婚儀に出席するため、サマルトリアを訪れている。ルークがサマルトリアを公式訪問するのは、凱旋帰国して以来、初めてのことである。この機会にアーサーと個別に話したい、けれど今回は彼が主役であるから時間を取るのは無理かもしれないと考えていたところ、婚儀の三日前に、アーサーの方から面談したい旨、使者が送られてきた。

 その夜、侍従に案内され、ルークはアーサーの私室を訪れた。アーサーはにこやかに旧友を迎え入れると、侍従を労い、さりげなく人払いをした。ルークはそれを確認するやいなや、久しぶりに会った親友との旧交を温める間もなく、すぐに本題を切り出した。

「リエナは欠席だってな」

 ルークもローレシアであらかじめそう聞いていたけれど、やはり直接確認したかったのである。アーサーも、余計な時間を使うことはない。即座に頷いて答えた。

「理由は体調不良だ。彼女の名代として、フェアモント公爵が出席している」

 それを聞いたルークは、唇をかんでいだ。半ばこうなるかもしれないとは予想していたとはいえ、もしリエナに会えるとすれば、このアーサーの婚儀以外にない、できれば直接話をしたい、それが無理なら、せめて姿だけでも見たい――そう期待していただけに落胆は大きかった。

(チャールズ卿……、そこまで、やるってのか……)

 思わず口に出しそうになるが、それをぐっとこらえる。今のような各国の王族・貴族が集まっている中では、迂闊な言葉を口にするわけにいかない。いくら人払いをしてあっても、どこで誰が聞き耳を立てているか、わからないのである。

 アーサーもルークもそのことは充分に承知している。ルークは眼だけで、リエナが今どういう状況にあるのか知っているか、そうアーサーに問いかけ、アーサーもそれに頷き返すことで、肯定した。

 その後しばらく、二人ともが無言だった。アーサーにはルークの気持ちが痛いほどわかっていた。ルークが現況に対して、手をこまねいて見ているわけがない。リエナを助け出すべく、でき得る限りの努力をしているはずである。けれど同時に、それがどれだけ困難なことかも、理解していたのである。

「アーサー」

 ずっと厳しい表情で考え込んでいたはずのルークに唐突に声をかけられて、アーサーは彼に視線を向けた。ルークはゆっくりと言葉を継いだ。

「いちばん大事なことをまだ言ってなかった。おめでとう。お前は幸せになってくれ。一足先に、な」

 親友に祝いの言葉を言うルークの顔には、先程までとは打って変わって、穏やかな笑みが浮かんでいる。アーサーも愛する婚約者を故郷に残し、ずっと戦ってきた。旅の間アーサーは、万が一サマルトリアが息を吹き返したハーゴン率いる魔物の集団に襲われても、自分で愛する人を守ることはできない。不安がなかったと言えば嘘になる。それでも、愚痴めいたことなど何一つ言わず、自分が為すべきことを見据え、仲間二人とともに、目標に向かって突き進んだのである。

 コレットも、自分の愛する人が、常に死と隣り合わせの旅に出ている、けれど、サマルトリアで無事を信じて待つことしかできなかった。それが身を切られるほどにつらいものだったということは、アーサーはもちろん、ルークにも理解できていた。

 ルークとリエナがともに戦い、支え合うことで、愛を育んできたとすれば、アーサーとコレットは、離れていても、互いの無事を祈り、信頼し合うことで、愛を深めてきたのである。

 ルークは今、アーサーに祝いの言葉で、「一足先に」と言った。それは紛れもなく、ルークはどんなことがあろうとリエナをこの窮地から救い出し、自らの手で幸せにしてみせるという、強固な意思表示である。アーサーだけは、そのことがわかっている。若草色の瞳に柔らかな光を湛え、笑みを浮かべて答えた。

「ありがとう。お前も一日も早く幸せになれるよう、祈ってるよ」

********

 アーサーの婚儀の当日、リエナは床に伏していた。また昨夜から熱を出し、先程見舞いに訪れたチャールズ卿に「やはり婚儀には名代を立てて正解でした」と言われたことで、ただでさえつらい身体が、余計につらくなっている。

 豪奢な天蓋付きの寝台に横たわったまま、リエナはずっとルークのことを考え続けていた。

 出会いの場となった舞踏会でのダンス、亡き兄との稽古で、初めてルークの剣の凄さを目の当たりにして驚きを隠せなかったこと、三人での旅が始まった日の夜、悪夢にうなされた自分を抱きしめてくれた力強い腕、魔物の攻撃から自分を庇い続けて傷だらけになったルークの姿、――そして、旅の最後の夜の出来事……。

 次々と旅の終わりまでの、ルークとの遣り取りが浮かんでは消えていく。自分にとって、どれだけルークという存在が大きいのか、あらためてそのことを突きつけられた。リエナはゆっくりと眼を閉じた。ルークの瞳が瞼の裏に浮かぶ。真摯な光を湛え、自分を真っ直ぐに見つめてきた、あの、深い青――ローレシアの海の色。リエナはあふれる涙を拭うこともせず、ずっとルークの面影を追っていた。

 そしてリエナは、アーサーの婚約者コレットの姿を思い出していた。

 艶やかな栗色の髪に、榛色の瞳を持つ美しい女性だった。物静かで、それでいて一緒に居ると心が和むような、あたたかい雰囲気を持っていたのが深く印象に残っている。ルークとの出会いとなった舞踏会の翌日のお茶会で、アーサーと幸せそうに寄り添っている姿を見て、将来、自分もルークの妃となったとき、少しでもああいうふうになれたらいい、そう思ったのをはっきりと覚えている。

 そして、旅の途中でサマルトリアに寄ったときにも、再会したアーサーとコレットの様子に、二人が既に深い愛情と絆とを築いているのを目の当たりにして、つい自分のその時の境遇と引き比べ、複雑な思いを持たざるを得なかった。

 あの頃の自分は、ルークのそばにいて、いつも守られていたというのに。それでも、お互いを信頼して、待つことを許されているのが、どうしようもなくうらやましかったのである。

 そして、愛するアーサーと婚儀を挙げたコレットに対して持った感情は――わずかではあっても、嫉妬めいたものだった。アーサーとコレットの幸せを心から祝う気持ちは真実だけれど、それだけではない――自分の心に潜む闇に気づいたとき、リエナはどうしようもないほどやりきれなく、それが彼女の体調に悪影響を及ぼしたのか、その後も数日間、床を離れることができなかった。




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