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旅路の果てに
第3章 5


 アーサーの婚儀からしばらく経った、初夏のある夜のことである。

 リエナは夜中にふと眼を覚ました。ムーンブルクに帰国して以来、こういったことは珍しくない。一度眼が覚めてしまうとなかなか寝つけないのはわかっている。いっそのこと起きて、少し読書でもしようかと、寝台に身体を起こそうとしたその時、ほとんど聞き取れないほどかすかな、呪文を詠唱する声に気づいた。

(これは、魔法封じの呪文……!)

 とっさに反撃するために睡眠の呪文を詠唱しようとしたが、通常のものでは間に合いそうにない。仕方なく威力は少し劣るが、短縮版を使うことにした。旅の間、戦闘中は長い詠唱をしている余裕のない時が多いため、アーサーと二人で研究して身につけたものである。こちらが気づいたことを覚られないよう、横たわったまま、小声で詠唱を始めた。

「精霊よ、我が身に害成す者を眠りに(いざな)え。――ラリホー」

 寝台の近くで、どさりと重いものが落ちる音がした。ぎりぎり間に合ったようだ。リエナはゆっくりと身体を起こした。背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、寝台を降りると、音のした方へ恐る恐る近づいて行く。予想通り、寝台の影に、杖を握りしめたまま倒れているチャールズ卿の半身が見えた。

 リエナはこの後どうしたらいいか、瞬時に考えを巡らせた。もし、こんな夜更けにチャールズ卿に寝室への侵入を許したなどと誰かに知られたら、どんな噂を立てられるかわからない。それを考えるだけで、身体が震えてくる。それならば、何も起こらなかったことにすればいい。チャールズ卿とて、深夜に次期女王の寝室に忍び込んで撃退されたなどとは、間違っても自分の口から言えるはずはないのだから。

 考えた末、リエナは他者転移の呪文で寝室から追い出すことに決めた。けれど、魔道士の杖は隣の居間に置いてあって、今は手許にない。杖がなければ威力が落ちるけれど、かまわずこのまま詠唱を始めることにした。いくら眠らせたとは言っても、この場にチャールズ卿を残したままでは、杖を取り行く心の余裕もないし、呪文で深く眠り込んでいる相手であれば、確実に発動させることができる。

 リエナは一つ深呼吸をするとあらためて精神を集中し、他者転移の呪文の詠唱を始めた。

「精霊よ、契約に従いて我が命に従え。我の前に眠りし我が身に害成す者、本来在るべき場所に帰し給え。――バシルーラ」

 かざしたリエナの両手のひらから、薄紅(うすくれない)の光があふれだす。チャールズ卿の身体は光に包まれ、徐々に輪郭が曖昧になり、そして消えた。

 無事にチャールズ卿を追い出すことに成功して、リエナはようやく息をついた。そして、あまりの出来事に、両腕で自分自身を抱きしめると、寝台の端に座り込んだ。

(間に合って、よかった……。もしあの詠唱に気づかなければ、今頃は……)

 なかなか結婚の申し込みを受けないリエナに、チャールズ卿は焦りを覚えたのだろう。既成事実を作ってしまえば言うなりになるとでも思ったらしい。あらためて恐怖と嫌悪の気持ちがこみあげてくる。いくら最強の魔法使いであるリエナでも、魔法を封じられてしまえば非力な女性に過ぎない。もっとも、リエナとチャールズ卿とでは魔力に圧倒的な差があるから、チャールズ卿の魔法封じの呪文がリエナに効かない可能性は高い。しかしチャールズ卿も、フェアモント家直系の魔法使いであり、決して侮れない魔力を持っている。しかも、眠っている間は精神的にも無防備な分、呪文が効きやすくなる。チャールズ卿の詠唱に気づき、咄嗟に短縮版を唱えると判断したおかげで、今回はわずかな差でリエナの詠唱が先に完結できたが、本当に危なかった。

(いったい、チャールズ卿はどうやってわたくしの寝室まで……?)

 ムーンブルク次期女王であるリエナの私室の扉の前には、当然のことながら、厳重な警備がなされていた。夜間も二人の近衛兵が常駐している。

(考えてみれば、チャールズ卿にとっては難しいことではないわ。深夜、わたくしの部屋の前まで来て、近衛兵に労いの言葉をかけるふりをして、睡眠の呪文で眠らせる。後は、開錠の呪文で、扉を開けてしまえばいいのだもの)

 このままでは、また同じことが起きる。リエナは今後の対策を考え始めた。

(どうしたらいいかしら? 解錠の呪文に対抗できるよう、鍵を魔力で強化するのも一つの方法だわ。でも、出入り口は窓や緊急用の脱出口など他にもあるし、いっそのこと、私室全体に結界を張ったほうがいいかもしれない。これならどこから入ろうとしても、必ず結界に阻まれるはず。これが一番確実だわ)

 リエナは立ち上がると、隣の居間へ行った。そこに置いてある愛用の魔道士の杖を手にすると寝室に戻り、周囲に結界を張り始めた。魔物除けの呪文を即興で変更したものだが、ひとまず今夜はこれで何とかなるだろう。しかし、明日から早急に対人用に改良するための研究をしなければいけない。リエナはこれからは、魔道士の杖を常に手許に置くと決めた。

 結界を張り終わり、寝台に横になったが、もう今夜は寝つけそうにない。心に思い浮かぶのは、ルークの姿ばかりである。

 リエナはルークとともに旅した日々を思い出していた。初めて会った時、自分でも無意識のうちに、ルークを愛し始めていた。三人での旅が始まり、自分の気持ちを自覚した時には、既に婚約が白紙に戻っていることも、彼を愛することが許されないのもわかっていた。だから、旅が終わったら想いを打ち明けて自分の気持ちに決着をつける、そう決めていた。

 旅の最後の日、意を決して告白をしようとしたその時、先にルークから想いを告げられた。互いの長年の想いがようやく通じ合った歓びのうちに、ルークの逞しい腕に力強く抱きしめられ、初めての熱いくちづけを交わした。うれしかった。もう一つの秘かな願いこそ叶わなかったけれど、これで充分だと思った。そしてすべては終わった、これからは自分の義務を果たすだけと、覚悟を新たにした、そのはずだった。けれど、帰国した自分を待っていたのは、あまりにも悲惨な境遇だった。

 菫色の瞳から涙があふれ、枕を濡らす。

 ――ルークに会いたい。

 リエナは切実に願った。そして、そう願った自分に驚いていた。

(わたくしは、今もまだ、ルークのことを待っている、というの……?)

 慌てて自分の気持ちを否定したが、同時に、旅の最後の日に告げられた、ルークの言葉が、ありありとよみがえる。

『1年待って欲しい。必ず父上を説得して、正式に結婚を申し込みに行く』

 あの時の自分は何の答えも返せなかったのに、ルークは『約束した』そう言ってくれた。

(わたくしは、ルークの言葉を信じて待ちたい……。そんなこと、決して許されるはずはないのだと、わかっているわ。それでも、わたくしは、ルークのそばに、いたい……!)

 心の底からあふれ出る思いがけぬほどの激情に、リエナは押しつぶされそうになっていた。それを抑えつけようと、必死に自分で自分に言い聞かせる。

(ルークとのことは、もうすべて終わったのよ。あの日の思い出を胸に、わたくしはこれから自分の為すべきことだけをすると誓ったわ。……だから、もう会わない方がいい。一度でも会ってしまえば、わたくしは……)




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