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旅路の果てに
第5章 13


 この日の午後、リエナは居間で魔法に関する書物を読んでいた。季節は既に秋に入ろうとしている。ロンダルキアの雪原に近いムーンブルクは、ローレシアやサマルトリアに比べて秋の訪れが早い。ローレシアではまだ残暑が厳しい日もあるけれど、ムーンブルクでは木々の葉も黄色く色づき始めている。

 リエナは鬱々とした心をかかえたまま、それでも表情だけは平静を保ち、ゆっくりと書物の頁を捲っている。

 突然、部屋の入口のすぐ近くから、女官長の切羽詰まった声が聞こえて来た。

「チャールズ卿、リエナ姫様はご面会のお支度が必要でございます。控えの間にて、今しばらくお待ちくださいまし……!」

 リエナはわずかに眉を顰めた。チャールズ卿がいきなり自分の私室を訪問してきたらしい。いつもなら必ず事前に訪問の予約を取り付けるための使者を送って来るのに、今日に限ってそれがない。

 チャールズ卿は女官長が必死に止めようとするのを振り切り、挙句の果てには女官長を突き飛ばすようにして、居間に押し入って来た。女官長がよろけて床に倒れ込む。

「次期女王のお部屋ですよ! いくらあなた様でも無礼にもほどがございましょう!」

 まだ制止し続ける女官長に、チャールズ卿は無言で一瞥をくれた。その凍てつくような視線の冷たさに女官長はすくみあがった。動けなくなった女官長を無視して、チャールズ卿は真っ直ぐリエナの座っている席まで歩み寄ってくる。

 リエナは椅子に掛けたまま、毅然とした態度を崩さず窘めた。

「チャールズ卿らしからぬお振る舞いですこと。わたくしに何か御用でしたら、事前にしかるべき手順を踏んでいただかないと困りますわ。どうぞ、お引き取りくださいませ」

 チャールズ卿はリエナの辛辣な言葉にもまったく意に介していない。その場で立ったまま、一言の挨拶もなしに、叩きつけるような口調で宣言した。

「あなたと私の婚約を正式に発表します」

 リエナは耳を疑った。リエナの返答も待たず、チャールズ卿は一方的に話を続ける。

「発表は3日後と決まりました。ムーンブルク国内で発表と同時に、諸外国へも通知のための使者を派遣します。使者は移動の魔法で訪問しますから、国内発表と同日中に、全世界が私達の婚約を知ることになるでしょう」

 リエナは思わず立ち上がり、声を震わせて抗議する。

「何故、わたくしの許可なくそのような重要事項を決定するのです!? わたくしは、あなたの結婚の申し込みをお受けした覚えはありませんわ……!」

「姫、あなたが一向に承諾なさらないからですよ。今まではあなたの顔を立ててお待ちしていましたが、このままでは埒が明きません。既に議会で承認されています。もうあなたに拒否する権利はありません」

「ムーンブルクの次期女王たる、このわたくしの意志を無視するというのですか? 無礼な……! すぐに宰相を呼びなさい!」

「宰相一人、いくら頑張っても無駄なことです。宰相以外は、すべて賛成したのですからね」

 リエナは菫色の瞳に怒りを滲ませ、チャールズ卿をきっと睨みつける。だがチャールズ卿の方は、リエナの怒りも何ほどにも感じていないらしい。余裕しゃくしゃくで受け流した。

「おや、恐い顔をしていますね。――あなたの怒った顔は、いちだんと美しい」

 そう言いながらリエナに近づいてくる。リエナは後じさりながらも、チャールズ卿を睨みつけることはやめない。チャールズ卿は息がかからんばかりに、リエナに顔を近づけた。

「あなたは、そこまで私と結婚するのがお嫌ですか。――まあ仕方がありませんな。何故なら、あなたは今も、ローレシアの王太子殿下を待ち続けているのですから」

 チャールズ卿の言葉が、リエナの心をえぐる。リエナは自分の顔色が変わるのがはっきりとわかった。

「……おっしゃる意味がわかりかねますわ」

 明らかにリエナは自分の言葉に傷ついている。それを認めて、チャールズ卿は笑いを滲ませる。

「今さら隠す必要などありませんよ。あなたの心の中にいるのがルーク殿下ただ一人であることは、私も最初から承知しています。あなたは今もなお、一縷の望みをかけて、ローレシアから求婚の使者が訪れるのを待っている。――違いますか?」

「……チャールズ卿、ルーク様はローレシアの王太子でいらっしゃいます。ムーンブルクの次期女王であるわたくしとの縁組など、最初から不可能だとわかりきったことではありませんか」

 リエナはかろうじて答えを返したものの、顔色は蒼白になり、華奢な肩が細かく震えている。

「確かに、あなたは以前にもそう明言されていましたな。賢明なご判断ですよ。もっとも、そう深刻にお考えになる必要もありませんが」

 リエナは咄嗟に何と返せばいいか、判断がつきかねた。

「どうやら、姫は私の言葉の意味がおわかりではないようですね。――それでは教えてさしあげましょうか」

 チャールズ卿の口の端が、ふっと上がる。

「ルーク殿下は、あなたのことなど既に忘れていらっしゃるから、です」

 心底楽しそうに一つ笑いを漏らすと、続けて話し始めた。

「簡単なことですよ。なにしろ、ルーク殿下はローレシアの王太子で破壊神を倒した英雄です。しかも、あれだけの男振りの方だ。ルーク殿下に望まれて断る女性がいるなどとは、到底考えられませんからな。どこの王族の姫君だろうが名門貴族の令嬢だろうが、よりどりみどりでしょう? 貴族女性だけではありません。ほんの戯れに側仕えの侍女を手折っても、侍女本人もその親も喜びこそすれ、嘆くようなことはありませんよ。何人愛妾をお持ちになっても咎められる立場の方ではありませんしね。ただ、何事にも限度というものがあります。まだ妃を迎えておられないのも、今のうちに気楽な独り身を楽しんでおきたい、そう考えていらっしゃるのでしょう」

「……何ということをおっしゃるの……!?」

「私は事実を言ったまでですよ。リエナ姫、あなたは確かに美しい。まさに、月の女神の再来と謳われるだけにふさわしい美しさだ。ですが、ルーク殿下の周りにも大勢美女はいるのですよ。それも、自ら肉体を投げ出してくる美女が、です。このような環境で、いつまでも昔の恋人だけを想い続けるなど、ありえないとは思われないのですか?」

 心ない言葉に、リエナは全身の血が音を立てて引くほどの喪失感を覚えた。同時に、自分でも思いがけない言葉が漏れる。

「……あなたには、わたくし達のことはわからないわ」

 リエナの言葉に、チャールズ卿の眉がわずかに動く。

「わたくし達? ――今、そのようにおっしゃいましたね」

 チャールズ卿は得心が行ったように、頷いた。

「なるほど。あなたとルーク殿下はそれだけ深い愛情で結ばれていた、そうおっしゃりたいわけですか。実に、麗しい。――ですが、先程も申し上げたように、それは過去の話、です」

 チャールズ卿は面白くてたまらないといったふうに笑い声を上げると、追い打ちをかける。

「そう、過去の話ですよ。ルーク殿下だって、いつまでも昔の恋人にこだわり続けるわけにはいきませんでしょう? 事実、あなたが帰国してから今まで、ローレシアでは何の動きもありません。これがどういう意味か、聡明なあなたならおわかりでしょうに」

 リエナは何も言い返せなかった。チャールズ卿の言う通り、ルークの公式訪問はおろか、手紙一通送られてきていないのだから。

「どうやら、おわかりいただけたようですね」

 チャールズ卿はそう結論した。リエナが納得していないことなど承知の上である。

「婚礼の儀は来年の春を予定しています」

 チャールズ卿はリエナに最後通告を突き付けた。

「――これで、私の話は終わりです。では、失礼しますよ」

 それだけ言うと踵を返し、勝ち誇ったように笑いながら部屋を出て行った。リエナは震える肩を抱きかかえたまま、その場に立ち尽くすばかりだった。

********

 チャールズ卿は、自分の執務室に戻ると極上の葡萄酒を運ばせ、一人祝杯を挙げていた。

 何度も何度も、先程のリエナとの遣り取りを反芻する。

(予想通り――いや、あの姫君は、それ以上に楽しませてくれる)

 華奢な肩を震わせ、必死に自分を睨みつけてくるリエナの菫色の瞳を思い出し、チャールズ卿は笑いを漏らした。

(美しい。実に、美しい。すべてが極上の美しさに輝いている。誇り高き古の月の王国の姫にして、月の女神。――それがついに、私の所有物となる)

 どうやって、あの月の女神を蹂躙するか。チャールズ卿は想像にふけりはじめた。高まる期待に、表情が奇妙に歪む。人前では決して見せない、下卑た笑みだった。

 チャールズ卿は、人には決して言えない、ある趣味の持ち主だった。リエナをその趣味の対象にしようというのである。

 チャールズ卿は幼少時からずば抜けて優秀だった。学問だけでなく、魔法においてもムーンブルク王家以外の人間のなかでは、魔力・操れる呪文の種類ともに優れ、成長につれて誰もが一目おくほどの抜きん出た才能をみせつけるようになっていった。

 しかし優秀な反面、残虐性も学問や魔力と同じくらい持っていた。子供の頃からその傾向はあったけれど、特に目立つこともなく、男児にはよくあること、というふうに周囲の人間も見ていた。しかし、チャールズ卿は成人して間もなく、ある重大な事件を起こした。父であるフェアモント公爵が報告を受けた時、すぐには信じられなかった。同時に、事件の内容に震えあがったものである。凡庸な長男には大して期待はしていなかったが、次男であるチャールズ卿はずっと自慢の息子だったから、余計に受けた衝撃は大きかった。このままでは大変な醜聞になるのは避けられない。公爵の指示で、事実は徹底的に隠蔽され、また被害者には多額の慰謝料を支払い、事件はなかったものにされた。

 この事件について、チャールズ卿は父公爵から形ばかりの訓戒を受け、ようやく自分の趣味が世間には受け入れられないものであることを悟っていた。

 ――それならば、誰にも知られないようにすればよいのだ。

 チャールズ卿は、如何に自分の名誉が傷つかず、趣味を楽しむことができるか考えを巡らせた。出した結論は、回復の呪文を活用することである。初級のものであれば、回復の呪文はもっとも簡単な呪文の一つであり、チャールズ卿も既に習得していた。それを、最大限利用すればいい。

 この頃から、チャールズ卿の残虐性の指向が変化していったことも、隠蔽に役立った。単に相手をひどく傷つけるよりも、美しい女性をわずかずつ、執拗に傷付ける方を好むようになっていたのである。露わになった白い肌に細く流れる鮮血、美しい顔を苦痛に歪め、跪き、泣いて自分に許しを乞う――これが、チャールズ卿がこの世で一番美しいと信じる女性の姿である。

 続けて、どのように趣味の対象となる女性を調達するかを思案した。

 ムーンブルクは千年以上の歴史を誇る大国である。歴史が長い分、今は没落した名門貴族も多い。彼らは誇り高く、名門にふさわしい教養もある。しかし、体面を保ちたくとも先立つ物がないため、華やかな席には顔を出すことができない。

 チャールズ卿はそこに眼をつけた。芸術や文学の話し相手を求めるとの口実で、貴族の令嬢達をフェアモント公爵家の別邸――チャールズ卿の常の住居でもあった――に招待した。そのときに、令嬢達が肩身の狭い思いをしなくてよいよう、豪奢なドレスや装身具を贈ることも忘れなかった。

 招待を受けた令嬢達は、嬉々として公爵家の別邸を訪れた。次男とはいえ、チャールズ卿はムーンブルク筆頭公爵家の嫡子である。気に入られれば、正室ではなくとも愛妾として迎えられる可能性がある。この、没落した家を復興させる絶好の機会を、令嬢本人は無論のこと、その父親達が逃すはずがない。

 チャールズ卿は招待した令嬢達の中から、より自分好みの娘を選び、趣味にふけった。要は、殺しさえしなければいいのだ。いくら傷つけても、チャールズ卿が自ら回復の呪文で癒してしまえば、どこにも証拠は残らない。最後に、報酬という意味で多額の金品を渡した。没落貴族にとって、喉から手が出るほど欲している物だった。

 あまりのことに、事実をすべて父親に訴えた令嬢もいた。しかし、与えられる苦痛さえ耐え忍べば、回復の呪文で傷跡も残らず、多額の報酬が手に入るのである――中には親が嫌がる娘を無理やり説き伏せてチャールズ卿の許へ送り込み、またあるときには、家のためにと自らを犠牲にする令嬢さえいた。

 こうして、令嬢達は次々とチャールズ卿の奴隷となっていったのである。やがて、父フェアモント公爵もこの事実を知ることになった。しかし公爵の方は、自分が言い聞かせたくらいで悔い改めるとは到底思えなかった。おまけにチャールズ卿は自分で後始末までしていて、表だった問題になっていない。フェアモント公爵にとって、表面化していない問題は何も起きていないことと等しい。結局、現在まで我関せずという態度を貫いている。

 その後も、チャールズ卿は想像にふけり続けた。ずっと、下卑た笑い声を漏らしながら。

********

 一方、部屋で一人残されたリエナは、まだ立ちすくんだままだった。

(チャールズ卿と、わたくしが婚約。発表は3日後、来年春に婚儀……)

 リエナの頭の中で、この言葉がまわり続ける。

「……姫さま! リエナ姫さま……!」

 リエナは我に返った。女官長がすぐそばに立っていた。いつもはほとんど無表情の女官長も、今ばかりはいたわるような視線を向けてくる。

「お怪我はございませんか? ……申し訳ございませんでした。私がお側についておりながら、あのような無礼な振る舞いを許してしまいまして」

 謝罪する女官長に、リエナはちいさくかぶりを振った。

「わたくしなら大丈夫よ。あなたこそ、怪我はなくって?」

「もったいないお言葉でございます。私はどこも怪我などいたしておりません。――ひとまずは、椅子にお掛けくださいまし。今すぐ、あたたかいお茶をお持ちいたしましょう」

 女官長はリエナを長椅子にいざない、腰掛けさせた。一礼するといったん居間から下がり、ほどなくして手ずからお茶を運んでくる。運ばれてきたのは、リエナが好む香りのお茶である。甘い小菓子も添えられていて、すこしでも落ち着きを取り戻して欲しいという、女官長の心遣いが感じられた。リエナにもその気持ちは理解できたから、柔らかく微笑んで労いの言葉をかけた。

「ありがとう。いただくわ」

 かたちばかり口をつけたあと、リエナが女官長に声をかけた。

「――女官長、申し訳ないけれど、しばらくわたくしを一人にしてくれないかしら」

「かしこまりました。控えの間におりますゆえ、何かございましたらお呼びくださいまし」

 女官長はまだ心配そうな表情をしていたが、リエナが一人になりたい気持ちもよくわかる。深々と一礼し、退室していった。

********

 いつの間にか、日が暮れていた。

 女官長が退室した後も、リエナは呆然と前方を見つめるばかりだった。室内が暗くなったことにようやく気付き、立ち上がって窓の外に視線を移した。宵闇の中、東の空の低い位置に、欠けることのない満月が浮かんでいる。

 いつもなら、灯火の呪文を使える侍女が灯りをともしに来る。もうとっくにその時刻は過ぎているが、今日ばかりは女官長から入室を許可されていないらしい。リエナは自ら呪文を唱えた。部屋全体が、柔らかな魔力の光で満たされる。リエナは椅子に座り直すと、なんとか現状を打破することができないか、考えを巡らせ始めた。

 けれど、婚約は議会で正式に承認されてしまった。正式に婚約が発表されれば、もう絶対に覆せない。頼みの綱の宰相カーティスも、圧倒的多数の賛成の前には手も足も出せない。

 どう考えても、リエナに残された手段はもう何もない。

 リエナは懸命に、自分の心を落ち着かせようと努力を続けていた。けれど、チャールズ卿の言葉が、思い出す度に胸に突き刺さる。

 何よりリエナを深く傷つけた言葉は、ルークはリエナのことなど既に忘れている。これまでローレシアもルークも何も具体的な動きを見せていない――これだった。

 リエナは今も、ルークが自分を愛してくれていると信じている。自分との結婚を望み、ローレシア王へ許可をもらうべく努力しただろうことも疑ったことはない。けれど、最初から実現など不可能だとわかりきっていた。王だけでなく、周囲の人間すべてに反対され、自分へ手紙を書くことすら制限されているのだろうとも想像がつく。もしくは、ムーンブルクへ手紙が届けられても、チャールズ卿が握りつぶした可能性もある。

 ルークから想いを告げられた時の記憶が鮮やかによみがえる。

 ――1年待って欲しい。必ず父上を説得して、ムーンブルクへ正式に結婚を申し込みに行く。

 その言葉と、真摯な光を湛えた深い青の瞳がありありと脳裏に浮かぶ。

(あれからもう2年……。それでも、ルークは……!)

 諦めたはずだった。ルークのことは、思い出として、心の奥底にしまったはずだった。

 それなのに、自分はまだ心のどこかでルークを待っている。彼の言葉を信じたいと、願っている。

 (わたくしは……今も、こんなにも、ルークのそばにいたいと願っている、なんて……)

 それを思い知らされて、リエナは新たな涙を流した。

********

 もう夜も更けようとしている。着替えもせず、このまま夜を明かすわけにはいかない。リエナは涙を拭うと控えの間にいる女官長を呼び、寝支度を整え、お付きの侍女達をすべて下がらせる。全員退室したことを確認すると、居間に戻り、魔道士の杖を手に取った。就寝中にチャールズ卿が侵入するのを防ぐため、私室全体に結界を張るのである。

 最近は結界も二重三重に張るのが習慣になっている。チャールズ卿は以前寝室に忍び込んでリエナに撃退された。しかし懲りずに再三忍び込もうとし、危うくもう少しで結界を破られそうになったことがあったからだ。チャールズ卿もリエナには遠く及ばないものの、優秀な魔法使いであり、各種の呪文を使いこなす。気を抜くわけにはいかない。

 再び、窓の外に視線を移す。満月は既に高く昇っている。

 リエナは杖を構えると精神を集中し、小声で呪文を唱え始めた。




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