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旅路の果てに
第5章 8


 ムーンブルクではリエナとチャールズ卿の正式な婚約発表に向けて、着々と準備が進められていた。

 まずは、チャールズ卿がリエナの王配となることに対して、議会での審議が行われた。結果は、ほぼ満場一致での可決である。ただし、一人だけ反対を唱えた人物がいた。宰相カーティスである。しかし、多勢に無勢であり、今となってはリエナとチャールズ卿との婚姻を覆すことは不可能となった。

 続けて、婚約発表と婚礼の儀の時期についても話し合われ、秋に婚約発表、翌年春に婚儀を取り行うことが決定した。

 国家の最重要事項にもかかわらず、これらの件はすべて、リエナへ報告されることすらなかった。チャールズ卿が厳重な緘口令を敷き、一切の情報をリエナの耳に入れないよう徹底したからである。

 リエナのただ一人の味方といえる宰相カーティスも、最近はリエナと対面する機会がほとんどなくなっていた。先日ラダトームで起こった外交問題が、一旦はカーティスの尽力で解決をみたものの再びぶり返したのである。

 チャールズ卿もこれ幸いと、カーティスにラダトームとの交渉の全権を渡した。リエナとこれ以上接触しないに越したことはない。非常に難しい案件で、カーティスでなければ解決できないことも確かであり、カーティスはその対応に忙殺され、ムーンブルクとラダトームを行き来する日々が続いている。

 リエナは孤立無援の立場に追い込まれていた。

********

 ――いよいよ、ムーンブルク王位奪還計画の最初の山場を迎える。

 議会終了後、自室へ戻ったチャールズ卿は椅子に掛けると満足げに笑みを漏らした。

 フェアモント公爵家の人間は今もなお、自分達こそが『正しき月の神々の末裔であり、正当なるムーンブルクを継ぐ者』であることを信じて疑っていない。

 遥か古の時代、この地を治めるために、月から神の子が下された。その後、長くその誇りを守り続けたにもかかわらず、一人の王が何を血迷ったのか、世継ぎの妃にアレフとローラ姫の娘を迎え、あろうことかロトの血の侵入を許してしまった。侵略者アレフ――ローレシアを建国した勇者アレフをフェアモント家の人間はこう蔑称している――の血など、ムーンブルクには何の利益ももたらさないというのに。

 そればかりか、愚かな王は建国以来受け継がれてきた尊い王名までも捨ててしまった。現在の王家の『ディアス』『ディアナ』という名など、それまでのムーンブルクの歴史書のどこにも出てこない。単に、アレフとローラ姫の娘が産んだ男子の名が『ディアス』だったに過ぎないのだ。女王の『ディアナ』も単に『ディアス』を女性名に変えただけで、深い意味などない。

 確かに、ロトの血が混じった王家の人間の魔力は更に強大になった。だが、それが何だと言うのか? 伝説では、ロトは異世界から来た人物だと言う。本来この世界に存在しなかったはずの、それも神ですらないただの人間を、何故ここまで崇める必要がある?

 フェアモント家こそが、月の加護を受ける一族であり、何者にも侵さざるべきムーンブルクの支配者である。ロトなどという異質な穢れた血を受け継ぐ現在の王家など、許される存在ではないのだ。

 長い長い、フェアモント家の苦難の時代がようやく終わりの時を迎える。

 そして、新たなる時代が始まる――古と同じ、『フェアモント』の名を冠した王が誕生する。

********

 数日後の午後、チャールズ卿は見舞いがてらリエナの私室を訪ねた。女官長に案内され居間に入ると、リエナが出迎える。しかし、相変わらず表情は固い。

「リエナ姫、お加減はいかがですか?」

「特に変わりはありませんわ」

 これもいつもと変わらぬ会話である。リエナの返答は礼を失することはないが、よそよそしい。

「それはよかった。充分に養生なさってください」

 そっけない物言いにもチャールズ卿は特に気にしたふうもなく、笑みを浮かべて答えた。そして、あらためてリエナに視線を向ける。

 リエナはますます美しくなっている。きめ細かく透きとおるように白い肌、まばゆいほどのプラチナブロンドの髪はゆるく結い上げられ、後れ毛が窓から差し込む光を受けて煌めいている。そして、見るものすべてを虜にする菫色の瞳。そのどれもが更に輝きを増していた。

 チャールズ卿はゆっくりと、リエナの肢体を眼でなぞりはじめた。細い首筋から豊かな胸、続けてすんなりとした腕から指先、再び胸元へ戻ってくびれた胴から続く腰から裾へ――。

 ねっとりとからみつくような視線に、リエナは思わず身体を固くして身構えた。

 チャールズ卿からこんな視線を向けられたのは初めてだった。リエナが身につけているドレスは一切肌を見せない意匠である。それにも関らず、まるでドレスを透かして裸身を視られているかのような錯覚すら覚える。あまりにあからさまな視線は、一歩間違えば不敬罪になりかねないほどだった。それでも、具体的な行動に出てこないどころか、指一本触れられることすらない以上、咎めることも難しい。

 チャールズ卿はしばし、リエナの美しい肢体を――自分へ対する拒否反応をも含めて楽しんでいた。リエナが自分の視線を嫌悪していることなど最初から承知している。議会で自分が王配となることが決定した以上、リエナは既に自己の所有物であり、臣下として敬意を払う必要などないと考えているのである。

 リエナは無言のまま、わずかに顔をそむけた。

 気丈な王女も流石に露骨な視線には耐えきれなかったとみえる――チャールズ卿がそう考えた直後、眼に映るリエナの姿がぼやけ始めた。困惑したリエナはわざと視線を外し、ほとんど声を出すことなく詠唱を始めていたのである。

(――幻惑の呪文か? 普通のものと効果が違ってはいるが)

 幻惑の呪文は、詠唱者が自らの周りに複数の幻影を映しだし、自分の真の居場所を特定できなくするものである。しかし今リエナが唱えたものは、姿は単独のまま、輪郭だけがぼやけて滲んで見える。まるで、霞の中に幻影が浮かんでいるかのようだった。

(私の視線を避けるために、咄嗟に詠唱を変更したというわけか。――なるほど、おもしろい)

 チャールズ卿は心の中で余裕の笑みを漏らすと視線をもとに戻した。

(まあよい。今日のところはこれで許すとしよう。今は私の視線からうまく逃れられたが、ムーンブルクの世継ぎを儲ける義務がある以上、婚儀を挙げてしまえば、いくら泣こうが喚こうが私を拒否することは許されないのだから)

 そして、何事もなかったかのようにリエナに話しかけた。

「では、私はこれで退散しましょう。姫、くれぐれも御身を損なわぬようご養生ください」

 チャールズ卿はわざとらしいほど丁重に一礼すると何も言えないリエナを残し、部屋を後にした。

********

 婚約発表の直前に、自らがリエナに告げる――チャールズ卿は、そのときのリエナの様子を想像して、薄い唇の端に酷薄な笑みを滲ませる。

 絶対に結ばれる可能性のない恋人を今なお想い続け、頑なに自分を拒否し続ける王女を絶望の淵に突き落とすことができる。

 それでもリエナは怒りと悲しみにうち震えながらも、決して取り乱すことはないだろう。王女としての誇りを失わず、毅然としたまま自分を見据えてくるに違いない――あの美しい菫色の瞳で。

 チャールズ卿はリエナの美しい肢体を心の中で反芻していた。

 この春、リエナは19歳の誕生日を迎えた。まだほんの少女の頃から月の女神の再来とまで謳われ、誰もが眼を奪われるほどの神秘的な美貌の持ち主である。凱旋後の体調不良で心なしか痩せてはいたが、小柄で華奢ながらも肢体は豊かな曲線を描き、充分に成熟した女性としての魅力にあふれている。

 今まで数多くの貴婦人と秘かな関係を持って来たチャールズ卿は、肌を見せないドレスの上から観察しただけで、リエナが想像以上の、まさに極上の肉体を持っていることにも気づいていた。

 婚儀を挙げた後は、あの素晴らしい肉体を思うがままに楽しむことができる。――自分の隠された性癖を知ったリエナの反応が、今から楽しみで仕方がない。

 大国ムーンブルクの美しき女王を完膚なきまでに傷つけ、すべてを奪い、蹂躙し尽くし、最後には生命を奪い、王位を我が手に取り戻す。

 チャールズ卿は、フェアモント家の人間としての王位を奪還する喜びはもちろんのこと、リエナのすべてをも我がものにする――己の暗い欲望が充足されることに、このうえない満足感を覚え、思わず高笑いしたくなるほどだった。




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