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旅路の果てに
第6章 1


 結界を張り終えたリエナは寝室の長椅子に座り込んだ。

(わたくしはもう、この運命からは逃れられない。どんなに拒否しても……)

 リエナはムーンブルク王家最後の一人となったときから、自分が女王として即位し、次代に血を残すことが絶対の義務であると理解していた。義務を果たすために、周囲が決めた人物を夫として迎えなければならないのも、自分の相手にルークが選ばれることがありえないことも最初から承知していた。それにもかかわらず、リエナがチャールズ卿との結婚を拒否し続けたのは、あくまでムーンブルクのためである。

 チャールズ卿は条件だけを見れば、リエナの相手として不足はない。ムーンブルク筆頭公爵家の次男であり、魔法使いとしての実力や政治的な手腕も充分である。事実、現在のムーンブルク復興の実質的な最高責任者であり、復興も順調な滑り出しを見せている。だから仮に、チャールズ卿がリエナを次期女王として尊重し、形だけでも復興事業の指揮を執らせ、その上で夫として支えてくれる人物であれば、リエナも決して拒否しない。それどころか、ルークへの想いはどんなにつらくとも心の奥底に封印し、チャールズ卿へ対して嫌悪の感情しか持たないとしても、迷うことなく結婚を承諾する。

 だが、現実はチャールズ卿にとってリエナとの結婚はムーンブルクの王位を奪還するためでしかない。しかも、チャールズ卿とフェアモント公爵家が欲しているのは、あくまで『ロトの血を持たないムーンブルク国王』なのである。将来リエナが儲けるであろう世継ぎなど、彼らにとっては邪魔者でしかないのだ。それならば、手っ取り早くリエナに遺言書――自分が世継ぎを儲けず崩御したときには、王配であるチャールズ卿に譲位するというもの――を書かせ、リエナの生命を奪ってしまえばいい。第一、リエナと世継ぎの二人を暗殺するより、リエナ一人を葬る方がずっと容易なのだから。

 リエナの最大にして絶対の義務――王家を存続させるために、次代に血を残すこと。しかし現状では、それすら果たすことが許されず、単なる道具として扱われ、役目が終われば生命を奪われる。

(運命から逃れられないのなら、せめて、ムーンブルク女王として恥ずかしくない最期を迎えなければ)

 リエナは既に死を覚悟している。けれど、いくら覚悟を決めたとはいっても、決して納得して運命を受け入れたわけではない。リエナは4年前のあの日、すべてを失った。そして再び、ただ一つだけ残された、全生涯をムーンブルク復興に捧げようとした、自分の生命すら失おうというのだから。

 リエナは胸の前で両手を組むと、何者かに問いかけていた。

(わたくしは、何のために戦ってきたのでしょうか?)

 零れ落ちた涙が、細かく震えている両手の上を伝っていく。

(祖国を、ムーンブルクをこの手で復興するためではなかったのですか? 今わたくしがこのような思いをしなければならないのは、わたくし自身の罪なのですか?)

 答えはどこからもなかった。

********

 しばらく放心したように座り込んだままだったリエナは、ふと仏蘭西窓の外に人が降り立った気配を感じた。咄嗟に常に手放すことのない魔道士の杖を握り直す。この大きな硝子の窓の外には広いバルコニーがある。いつものチャールズ卿なら私室の入り口から忍び込もうとするが、失敗続きなのでここから侵入する可能性は充分考えられる。この結界を破るのはそう簡単だとは思えないが、用心するに越したことはない。リエナは窓辺のカーテンの陰に隠れ、小声で睡眠の呪文の詠唱を始めた。

 詠唱が完結する直前、仏蘭西窓の外の気配の動きをリエナが捉える。同時に、リエナは呪文を完結し、発動させるためにカーテンの陰から出た。しかし、リエナの口から、最後の詠唱の文言が発せられることはなかった。

 リエナは大きく眼を見開き、信じられない表情で立ち尽くしていた。白い手から、魔道士の杖が音をたてて落ちる。

 満月の光を背に姿を現したのは、青い旅装束に身を包んだ、長身の男だった。

「……ルーク……?」

 ルークがこちらに視線を向けた。ほんの一瞬、驚いたような表情を見せるとすぐさまリエナに向かって走ってくる。リエナは結界を解除し、窓の鍵を開けるとバルコニーへ駆け出した。

「リエナ……!」

 ルークが広げた腕に、リエナが飛び込んだ。ルークもリエナを受けとめ、思いの丈を籠めて、華奢な身体を抱きしめる。

 菫色の瞳から涙が溢れ、リエナは言葉を失っていた。二度とルークに逢うことはかなわないはずだった。それが今、ルークの力強くあたたかい腕に、しっかりと抱かれている。

「すまない……、遅くなった……」

 リエナはルークの胸にすがり、わずかに首を振るだけだった。

********

 ルークが抱きしめていた腕を緩めた。リエナの白い頬に手を掛けて顔を見る。その瞬間、ルークは愕然とした。

 二年振りに見るリエナは心労にやつれ、華奢な身体は更にひとまわり痩せていた。

「リエナ、お前……」

 ルークはリエナのあまりの変わりように続く言葉を失っていた。離れ離れの間、どれほどの苦労を重ねてきたのかありありとわかるほどの変化だったのである。けれど、決して彼女の美しさを損なうことはない。むしろよりいっそう、凄絶なまでの美しさを放っていた。

 ルークを見上げるリエナは、涙を流し続けている。

――そこに浮かぶのは、諦念ともいうべき、微笑み。

 絶望の淵に立たされ、それでも愛する人を信じ続けた。たった今、その想いが報われたのだ。

 頬を包む大きな手に、ちいさな白い手がかかる。握り返してくる手はその力すらも弱々しい。

――俺がもっと早くに出奔を決意していれば、ここまでつらい思いをさせることはなかった。

 湧き上がる後悔と自責の念に駆られ、ルークは再びリエナを抱きしめた。

――二度と離さない。この先、どんなことが起こってもリエナを守る。

 抱きしめるルークの腕に力が籠る。リエナはただ、先程と同じ微笑みを浮かべるのみだった。これでもう何も思い残すことはないのだから。

********

 二人は室内に戻ったが、こんな姿を誰かに見つかったら計画は全て水の泡となる。それどころか、今ルークのしていることは他国の次期女王の寝室への不法侵入である。警備の近衛兵に気づかれ、生命を奪われても文句を言えない。もちろん、ルークが近衛兵ごときに遅れを取ることなどありえず、返り討ちにするのはたやすいが、万一ルークの仕業と知れたらとんでもない問題に発展する。落ち着いて話をするにはどうすればいいか、リエナはしばらく考えると、離宮全体に睡眠の呪文をかけることにした。

 通常、睡眠の呪文はせいぜい数体の魔物、もしくは数人の人間相手にしか発動できない。その呪文を、この離宮全体にかけようというのである。途方もない魔力が必要となるが、リエナにとってはさして困難なことではない。

 リエナは魔道士の杖を構え直し、眼を閉じると詠唱を始めた。

「精霊よ、契約に従いて我が命に従え。この離宮のすべての生きとし生けるもの、新しき(あした)の日の光を浴びるまで、いと深き眠りにいざなわん――ラリホーマ」

 杖から薄紅の光が溢れだした。光は瞬く間に奔流となり、開け放たれたままの仏蘭西窓から流れ出し、みるみる離宮全体を包み込んでいく。

 リエナが緊張を解いた。ルークが耳をすませてみても、何も聞こえない。城内から一切の音が消えている。離宮全体が深い眠りに落ちていた。

 しかし既に夜も更け、二人に残された時間はそう多くはない。

 ルークは再びリエナをしっかりと抱きしめると、深い青の瞳を真っ直ぐに向けた。リエナも菫色の瞳をルークに向ける。

「リエナ、愛している。一日たりともお前を忘れたことはなかった」

「わたくしも……」

 リエナの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。もう二度と逢えないはずのルークと再会できた。危険を冒してまで自分に逢いに来てくれた。――もう思い残すことはない、このままムーンブルクで生命を落としても悔いはないとあらためて覚悟を決めた。しかし、ルークの口から発せられたのは予想だにできない言葉だった。

「リエナ、よく聞いてくれ。俺は祖国も地位も捨てた。お前も俺と一緒に今すぐここを出るんだ」

「祖国も地位も捨てた……って、どういうことなの!?」

「言葉通りの意味だ。俺は、ローレシアの王太子位を返上し、王族としての権利も何もかも放棄した。それだけ書いた手紙を残して、ローレシアを出てきたんだ」

 リエナの美しい白い顔が苦悩にゆがむ。

「なんてことを……! そんなことが許されるとでも、本気で考えているの!?」

「俺がやったことは、王族としての最大の罪だ。それは最初から承知している」

 ルークは真正面からリエナを見つめ、説得を再開した。

「頼む、お前もすべてを捨てて俺について来て欲しい。――この2年の間、俺なりに精一杯の努力をしてきた。だが、父上からお前との結婚の許しを賜るどころか、お前の窮地を救うことも、直接会うことすらできなかった。もうこれしか方法は残されていないんだ」

「だからって、何故あなたが、わたくしのためにすべてを捨てなければならないの!?」

 リエナは面を伏せ、振り絞るように声を震わせながら、かぶりを振った。

「わたくしにもムーンブルクを捨てろと言うの? そんなことできるわけないわ! わたくしは、王家最後の王女なのよ。あなただってわかっているはずでしょう!?」

 リエナが一度はこう言うだろうことは、ルークにも予想がついていた。

「リエナ、突然こんなことを言われて、すぐにはいって言えるわけがないのはわかる。だが、お前が殺されるのを黙って見てられるか!」

 驚きに、涙に濡れた瞳が大きく見開かれた。

「ルーク、何故そのことを……」

「フェアモント公爵家がお前に何をしようとしているのか、俺が知らないとでも思うのか? チャールズ卿がお前に結婚を申し込んだ。傍から見れば、決しておかしくない縁組だ。しかし、やつらの真の目的は王朝交代、しかもロトの血を引かない新たな王の即位だ。お前と結婚してすぐにでも、女王崩御の後には王配に譲位するとでも遺言書を用意してお前に署名させれば、やつらの野望は実現する。お前が毒を盛られたことも、婚約が間もなく公式発表されることも知っている。ここまで追い詰められた以上、ムーンブルクに残ってもどうにもならないのは、お前だってわかってるはずだ!」

「あなた、そこまで、知って……」

「お前の現状を把握するためにずっと情報を探ってた。ただし、遺言書については俺もはっきりと証拠をつかんだわけじゃない。だが、やつらがやるとしたらこれしかないと確信していた」

「……ええ。あなたの言う通りよ。わたくしも、遺言書に署名させられるだろうとは予想できていたわ。フェアモント公爵家の方達は、今も自分たちこそが正当なるムーンブルクの後継者だと信じているもの。あの方達にとって、わたくしは単なる道具に過ぎないのよ。役目が終われば間違いなく殺される。それでも、わたくしはムーンブルクを捨てるわけにはいかないのよ……!」

 リエナは涙ながらに訴える。

「あなたにそこまで愛されて……、それだけで、充分幸せよ……。わたくしも、あなたを心から愛しているわ……。だからお願い、このまま引き返して。今ならまだ間に合うはずよ。もうこれ以上あなたを巻き込みたくないのよ。お願い、わかって……!」

「嫌だ。俺はお前を決して離さない! 何もかも捨てて、誰も知らない静かな場所で、二人きりで暮らそう」

 リエナは呆然とルークを見上げる。

「何もかも捨てて、二人きりで、暮らす……?」

「そうだ。もう誰にも邪魔はさせない」

 白い頬を涙に濡らしたまま、リエナはかぶりを振った。

「ルーク……、わたくしだって、できることならあなたと……。……でも、できないわ、許されることじゃないのよっ……!」

 リエナはルークにすがりついて泣きじゃくった。ルークはリエナをもう一度しっかりと抱きしめ、言葉を尽くしてかきくどく。

「お前は今まで何のために戦ってきた? ムーンブルクを自分の手で復興させるためだったんじゃないのか?」

「そうよ……。そのためになら、わたくしは何だって耐えられたわ」

「じゃあ、今のお前の状況はいったい何なんだ!? 軟禁され、鬼畜野郎と無理やり結婚させられた挙句に、殺されるのを待つだけじゃないか!」

「わかっているわ! でも今ここで逃げたら、わたくしを助けるために生命を落とした方達――お父様、お兄様、たくさんの騎士たちへ、どう顔向けしろというの!? 逃げてはいけない、たとえ殺されても逃げてはいけないのよ。わたくしにとって、ムーンブルクを復興することだけが、あの方達への償いだったのよ。でも、もうそれもかなわない。今のわたくしにできることは、ムーンブルク女王として恥ずかしくない最期を迎えることだけだわ!」

「お前の気持ちはわかる。だが、お前がここに残って殺されたら、生命を懸けてお前を救った人々はどうなる? 絶対に浮かばれやしない。彼らのためにも、お前は生きなきゃいけないんだ!」

「許されないの……! わたくしは、自分の幸福を求めてはいけないのよ!」

 リエナは涙を流しながら、かぶりを振り続けた。ルークの予想以上にリエナは頑なに自分との出奔を拒み続けている。このままでは埒が明かないと考えたルークは、別の方法で説得を試みることにした。

 ルークはリエナの涙に濡れた頬を指で拭ってやり、安心させるようにしっかりと抱きしめる。すこし落ち着きを取り戻したのを確かめて、説得を再開した。

「リエナ、聞いてくれ。俺はお前が帰国した後、今年の春に二度、ムーンブルクを公式訪問している」

「あなた、ムーンブルクへ来ていたの?」

 リエナは驚いてルークを見上げた。

「やっぱり知らされていなかったんだな。多分そんなことだろうとは予想はついていたが」

「何も聞いていないわ! あ……でも、周りの様子がどことなくおかしい時があったわ。まるでわたくしに隠しごとをしているみたいに。――でもまさか、あなたが訪問していたなんて……」

「一度目はお前の現状を把握するために、復興事業の現状視察の名目で来たんだ。お前を見舞いたいと言ったら、案の定チャールズ卿は拒否した。それでも、何とか交渉して、チャールズ卿がお前に復興状況の定期報告をするときに同行する約束を取り付けた。だが、当日になって、お前が熱を出してとても面会できる状態じゃないからと、会わせてもらえなかった。しかし、宰相カーティス殿とだけは個別に面談できた。そのときにお前が三度にわたって毒を盛られたと知らされた」

「そんなことが……」

「お前の生命が危ないことがはっきりした以上、ローレシアとしても見過ごすわけにはいかない。かといって、そのままチャールズ卿と交渉を続けても、勝算は薄い。一旦引き下がって、ローレシアに帰国した。帰国途中で次の策を考えて、戻ってすぐに父上と相談した。――お前をローレシアに転地療養させようと考えたんだ」

「転地療養……?」

「そうだ。ローレシア城の近くの湖畔に離宮があるのは知ってるな。環境も空気もいいところだ。そこへお前を迎えるつもりだった。俺はその交渉のために視察の翌月にもう一度、父上の侍医を連れてムーンブルクに来た。父上も親書を用意してくださった。ただし、父上からはローレシアがお前を救う具体策を実行するのは最初で最後だと申し渡されていた。――そこまで準備していながら、俺はチャールズ卿との交渉に失敗したんだ」

 そのときのことを思い出したのか、ルークの表情が曇る。

「こちらの提案すべてを、お前を見舞いたいという申し出すらチャールズ卿がねじ伏せた。――父上の、ローレシア王アレフ11世の親書を無視してまでな」

 リエナを抱いているルークの腕が怒りに震えている。リエナはルークが自分を救うために、どれだけ力を尽くしてきたかを知って言葉を失っていた。

「俺がチャールズ卿との交渉に失敗した後、再び父王に王太子位を返上してムーンブルクへ行きたいと願い出た。だが、一回限りと言われた機会の交渉が失敗に終わった以上、ローレシアはムーンブルクの問題からは手を引くと言われた。それでも食い下がろうとして、父上に謹慎を命じられたんだ。謹慎中にずっと考え続けた。俺はどうするべきなのか、何より、俺自身がどうしたいのかをな」

 深い青の瞳がリエナを捉える。

「俺の出した結論はこうだ。俺がお前を拉致してでも出奔しなければ、お前は確実に殺される。それを見過ごすことこそ、俺にとっての最大の罪だ。お前を見殺しにするか、ローレシアを捨て、お前にもムーンブルクを捨てさせるか、どちらか一つを選ばなければならない。――そして、俺はすべてを捨てる方を選んだ」

 リエナはルークの真摯な想いに打たれていた。自分が信じたとおり、ルークは約束を違えることはなかった。どんなに困難でも決して諦めず、自分を救うために、すべてを捨てようとまでしているのだから。

「リエナ、愛している。生涯かけて、俺の手で、お前を幸せにしたい。そのために俺はここに来た」

「でも……、それではあなたが……」

「覚悟はできてる」

 リエナは迷い始めていた。今までどれだけこの腕のあたたかさと力強さに救われてきたのか。今この瞬間も、絶望の淵に立たされた自分を支えてくれている。

 ――ルークの、この腕を離したくない。

 その想いに突き動かされ、リエナの口から、自然に言葉があふれ出る。

「わたくしは、あなたのそばにいたい……! 許されないことだとわかっていたわ。それでも、わたくしはあなたのそばにいたいのよ……! 旅の間もずっと、そう願っていたわ!」

 ルークはリエナの言葉に衝撃を受けていた。常に自分を押し殺し、決して何かを望むことがなかったリエナが、初めて感情をあらわにしたことに。

 そして何よりも、自分のそばにいたいと、願い続けていたことに。

「リエナ、俺と行こう。二人で何もかも、新しく始めるんだ」

「何もかも、新しく始める……あなたと、二人で……」

「そうだ」

 ルークはリエナを抱く腕に力を籠めた。

「俺も、お前を二度と離さない」

 ルークの腕のなかで、リエナは長い間逡巡していた。ルークの言うとおり、このままムーンブルクに残っても死を待つだけである。義務である王家の血を残すことすらできない。どう考えても、これ以上状況は悪くなりようがない。

 どんなにあらがっても、最後には生命を落とす運命ならば――せめてその時までだけは、ルークとともにいたい。

 リエナは顔を上げ、ルークをみつめる。

「――行くわ。一生あなたに、ついて行く」

 菫色の瞳にはもう迷いの色はない。

「ついてこい。俺がお前を守る」

 ルークの力強い言葉に、ようやくリエナに白い顔にほのかな微笑みが浮かぶ。ルークも笑みを返す。

 どちらからともなく眼を閉じると、ごく自然に二人の唇が重なった。

 ――この先、何が起ころうとも、二度と互いの手を離すことはない。

 二人の誓いのくちづけだった。

********

 一度決心すると、リエナの行動は早かった。もう夜明けもそう遠くはない。リエナは衣裳部屋の奥に思い出として大切に保管しておいた衣装箱を取り出した。そこには、白いローブを始め、旅の間に使っていたものがすべて保管してある。わずかだが現金もある。それらと、魔法の専門書数冊だけを手早く荷造りし、絹の夜着を脱ぎ捨て、ローブに着替えた。

 衣装箱を元通りにしまい、ざっと部屋を整える。念のため、ルークの靴跡などがないか確かめた。わずかでもルークがここに居た痕跡を残すわけにはいかない。

 リエナは移動の呪文を唱えるため、ルークが持って来た地図で森の位置を確かめた。二人で仏蘭西窓からバルコニーに出る。少しでも発見を遅らせるため、リエナは再度外から窓に結界を張り直した。

 これで準備は整った。既に夜明けまでに残された時間はあとわずかである。

 ルークはしっかりとリエナを腕に抱いた。リエナもルークを見上げて頷くと、移動の呪文の詠唱を始めた。魔道士の杖からあふれ出る薄紅の光が二人を包み込み、ふわりと浮きあがる。

 夜が明け初めていた。

 ルークの腕に抱かれて森まで移動する間、リエナは東の空に鮮やかな朝焼けを見た。

 リエナは思った。

 ――この光景を一生忘れないだろうと。




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