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旅路の果てに
第8章 番外編

静夜


 針を持った、リエナの白い小さな手が規則的に動いている。

********

 暖炉には炎がゆらめき、居間は心地よいあたたかさに満ちていた。

 白い手が止まった。裁縫箱から鋏を取り出し、縫い終わった糸の端を切る。

 リエナの唇に柔らかな微笑みが浮かぶ。ここ数日かけて縫っていた、ルークの上衣が出来上がったのだ。

 安堵の息をついて、リエナは傍らのルークにそっと視線を移した。ルークは床に座り込み、日課となっている剣の手入れに勤しんでいる。

 真剣な表情で一心不乱に剣に向き合う横顔に、リエナはちいさな感動を覚えていた。毎夜繰り返される光景なのに、何故か見るたび心を動かされる。

 もちろん理由はわかっている。ルークにとっての剣は自らの、場合によっては仲間の生命までをも預け、まさに命運をともにするものだからである。

 リエナの視線に気づいているはずなのに、ルークは手にした剣から眼を離すことはない。他のことをしている時になら、すぐにでも満面の笑みでリエナを抱きしめてくるのに、この時ばかりは違っている。そんなルークを、リエナは如何にも彼らしいと思っている。そして、心置きなく愛する夫の姿を眺めることができるこの時間も、リエナにとって大切なものだった。

 ふとリエナの視線がルークの横顔から、むきだしの腕に移った。冬真っ盛りだというのに、暑がりのルークは服の袖を肘の上までまくっている。

 そこに残る、いくつもの傷跡。

 リエナの心がわずかに痛んだ。腕ばかりではない。ルークの全身には、夥しい数の傷跡が残っている。

 初めてそれを目の当たりにした時のことを、リエナは忘れられずにいる。

 旅が始まった翌年の夏の盛り――暑さに耐えかねて、ある湖で水浴びをしたときのことだった。水浴びついでに泳ぎも堪能したルークは、上半身裸のまま夕食の支度をしていたリエナに声をかけた。振り向いたリエナは、ルークの身体に残る傷跡のあまりの多さに声を失っていた。

――わたくしのせいだわ。いつも、あなたがわたくしを庇って、攻撃を受けて……!

 リエナは自責の念に耐え切れず、泣き出してしまっていた。

 ルークは方はと言えば、まさかリエナがそんなふうに罪の意識にかられたなどとは思いもよらず、慌てふためくだけだった。例によってアーサーが泣きじゃくるリエナから事情を聞き、ようやくルークもリエナが何故急に泣き始めたのかが理解できていた。アーサーは言葉を尽くしてリエナを慰め、ルーク自身も気にする必要はないと言ってくれたのだった。

 ここまで思考を巡らせて、リエナは手に持った、縫いあがったばかりの上衣に眼を落した。微笑みを湛えていたはずの表情がわずかに曇っている。

 魔物との戦闘を繰り返し、ルークは幾度となく傷を負った。死と隣合わせの過酷な旅の日々を終えた今、傷跡は更に増えている。

 リエナは瞳を閉じた。

 ルークの旅装束を繕い続けた日々――その時の記憶がありありとよみがえった。

********

 宿の簡素な机に向かい、リエナはルークの旅装束を取り上げた。

 長い間着ている旅装束には既に、何箇所も繕った跡がある。

 針を持ち、破れ目の端に最初の一針を刺す前に、リエナは眼を閉じた。

――もうこれ以上、ルークが傷を負いませんように。わたくしが彼の旅装束を繕うのは、これが最後でありますように。

 続けてちいさくルビスの祈りの言葉を口にする。

 リエナはルークの旅装束を繕う時、祈りながら針を動かすのが常だった。戦闘を繰り返す以上、負傷は避けられない。ルークは接近戦で戦うのだから、尚更だった。だからリエナは、ルークがすこしでも傷を負わずにすむよう、祈りを捧げる。

 一針、一針に、ありったけの想いを籠めて。

********

 菫色の瞳が開かれた。そこには先程の曇りはない。

――今はもう、ルークが傷を負うことはないのだから。これからわたくしがルークのために針を持つのは、新しく彼が身に着けるためのものだけ。

 戦うことを知らない人々にとっては当たり前の幸せ。ようやく手に入れた、穏やかなひととき。リエナはそれが愛おしい。

 今は感謝の念を籠めて、心の中で祈りを捧げた。

 その時、ルークが立ち上がった。その気配に、リエナははっと我に返った。見れば、剣は手入れを終えて鞘に収められている。リエナはルークに声をかけた。

「終わったのね」

 ルークもリエナの手にした上衣を見て笑顔になった。

「ああ。お前の方も出来上がったみたいだな」

「ええ。一度、試しに着てみてくれる?」

「わかった。先に片付けてくるからちょっと待っててくれ」

 ルークは居間の扉を開けた。リエナもゆったりと微笑んで見送ると、裁縫箱を引き寄せて道具をしまい、そっと蓋を閉めた。


( 終 )



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