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旅路の果てに
第9章 7


 アーサーはようやく泣き止んだコレットをもう一度しっかりと抱きしめる。コレットも涙を拭った。

 コレットが落ち着いたことを確認して、アーサーは侍女を呼び、簡単な酒肴を運ぶように命じた。ほどなくして運ばれてきた甘い果実酒をアーサーは自ら注いでコレットに手渡した。自分には葡萄酒を注ぐ。

 コレットは果実酒を口にして、ほっと息をついた。アーサーも酒杯を手にした。

「たまには、こうして飲むのもいいね」

 アーサーが優しい笑みを向けた。コレットもちいさく頷いた。

「さっき、密偵から定期報告があった。君にも、ルークとリエナのその後の情報について話しておく」

 どんなに重要な情報もコレットには包み隠さず話すことにしている。葡萄酒を一口飲んで、話し始めた。

「まだ行方はわかっていない。相変わらず確実な目撃情報一つない状態だ。チャールズ卿は大々的に捜索をはじめるつもりらしい。各領事館にその旨通達を出したと報告を受けたよ」

「はい」

「ムーンブルクもいよいよ切羽詰ってきたらしいね。でも僕の推測では、二人は見つからない。その理由は、さっきの僕の質問に対する君の答えだ。もし定住したのなら、ルークとリエナは市井の民として暮らしているはずだからね」

 コレットは何故アーサーが先程自分にあのような質問をしたのか、真意を理解していた。

「御二方は、王族の身分だけでなく、生活までも完全に捨てた……アーサー様はそうお考えなのですね」

「君の言う通りだ」

 コレットはちいさく息をついた。だから、ローレシアもムーンブルクも懸命の捜索にもかかわらず、彼らの影すら見つからないのだ。

「ルークが出奔を決意できた理由の一つがこれなんだ。もちろん、一番の理由はリエナの窮地を救う為だけどね。普通なら、市井の民に混じって暮らすのは絶対に無理なことは君もよくわかると思う。それにもかかわらず実行に移せたのは、リエナなら庶民の生活にも耐えられるとルークが判断したからだ。質素な家に住み、自分で料理に洗濯、縫い物などをすることは、野宿の連続だったリエナにとっては、つらくはあっても耐えられないものじゃないはずなんだ」

 コレットは頷いた。アーサーが話してくれた旅の生活の様子は驚くことばかりだったし、今も理解できているとは言い難い。けれど、話の間にアーサーが常に笑みを絶やさなかったことから、リエナにとっても楽しいと感じられることもあったのだろうと思っていた。

「それにルークも、庶民と同じ暮らしはさほど苦にならないはずだ。旅もそうだけど、13歳から成人するまでの間、騎士団に在団していた経験がある。そこでみっちりと鍛えられたそうだ」

「ルーク様が騎士団に? でも王太子殿下なのですから、一般の騎士とは待遇が違うのではありませんの?」

 アーサーは笑ってかぶりを振った。

「それがそうじゃないんだよ。ローレシアの騎士団は荒っぽいことで有名だからね。王太子どころか、単なる見習い騎士の扱いだったそうだよ。だから当然のように、様々な雑用を言いつけられたらしい。それこそ、馬の世話から水汲み、火の番、見張り、更には料理番までね」

「まあ、そんなことが。でもお話を伺えば、とてもローレシアらしい伝統だと思いますわ」

「もっとも、料理番だけはどうしてもできなくて、騎士団長に免除してもらったって聞いた時には笑ったよ。それでも騎士団の生活はルークには合っていたらしいね。酒を酌み交わす、というか飲まされたと言う方が正しいんだろうけど、酒を片手にしての、古参の騎士たちの語る剣談義や武勇伝は実に心躍るものだったそうだ。他にも市井の楽しみについても色々と話だけは聞かされたって、懐かしそうに話してくれた。成人のために退団した後も、よく騎士団員と行きつけの居酒屋にお忍びで繰り出したらしいよ。あいつは旅の最初の頃はよく言っていたんだ。騎士団の雑用も率先してこなしていたから、それが今になって役に立つ、何事も経験だってね」

 これもまた、コレットの知らない世界の話である。同じロト三国でも、サマルトリアとはずいぶん国風が違うのだと感じていた。

「ルークがそんな感じだったから、僕も気楽だったよ」

「でもアーサー様は、騎士団の経験はお持ちではありませんでしたわ。野宿はおつらかったのではありませんの?」

「もちろん最初は面食らったよ。僕も出発前に知識だけは頭に入れておいたけど、実際にはその通りにはいかない。最初のうちには失敗もたくさんしたしね」

 コレットはまたもや目を丸くしていた。今日もう何度目かわからない溜め息をつく。アーサーが失敗する場面など、一度も見たことがないからだ。けれど、アーサーはまったく気にもとめず、さっきと同じように楽しそうに話し続ける。

「これでも僕は、順応性には自信があるからね。でも、もしルークが王族の生活に固執して文句ばかりだったら、いくら僕でも鬱陶しいと思っただろうけどね。あいつは全然そうじゃなかったから、僕も自然に旅の生活に慣れたんだと思う」

「リエナ様も、同じ感じでしたの?」

「そうだね。リエナは最初から覚悟を決めていたことが大きいんだけど、旅が長くなるにつれて、だんだんと楽しそうにしていることが増えたよ。特に彼女は料理が好きだったみたいだ。上手なのは間違いないし、何よりも、ルークがそれはそれはおいしそうに食べてくれていたからね。さぞ作り甲斐があったと思うよ。ルークがお代わりのためにリエナに空になった皿を渡すんだけど、その時の彼女の表情は本当にうれしそうだった」

 アーサーの表情がまた懐かしげなものになった。この話を聞いてコレットは、はじめてリエナが旅で感じたであろうささやかな楽しみを理解できた気がした。無論、コレットがアーサーのために料理をすることなど有り得ない。けれど、時折アーサーに手作りの小物――刺繍のハンカチや本の栞などを贈ることがある。その時にはアーサーはとても喜び、大切に使ってくれるのである。おそらくはそれに似た喜びなのだろうとコレットは考えていた。

「私、まだ野宿の光景はうまく想像できませんけれど、今のお話の御二方だけは目に浮かびますわ。確かに、旅だからこその喜びですもの。ルーク様はそんなリエナ様をずっと見ていらしたから、民の暮らしにも耐えられるとお考えになったのですね」

「その通りだ。けれど、彼らの周りの人間はそうは考えない。誰もがリエナが不自由しないような隠れ場所を用意しているはずだと考える。第一、旅は理由があって身分を隠していたのだし、しかも期間限定のものだ。いくら二人が普通の旅人と同じ生活の経験があることを承知していても、市井の民に混じって暮らすなんて、夢にも思わない。君と話した通り、王族と民とでは生活そのものが違いすぎるから、出奔後に旅と同じ生活をするという発想自体がないだろう。当然、探す範囲も二人が住むにふさわしい場所に限定される」

「本当に、おっしゃる通りですわね」

 たった今、具体的な旅の生活の様子をアーサー本人から聞いた自分ですら理解に苦しむのだ。そう考えている人々が見つけられないのも当たり前の話なのだ。

「見当違いの場所ばかりをいくら捜し続けたって見つかるわけがない。そして、この事実を知っているのは、二人と旅をともにした僕だけだ」

 アーサーは言い切った。コレットはアーサーの口振りから、あることに気づいていた。

「アーサー様は、このお考えを自分限りになさるおつもりなのですね」

「そうだよ。この考えを話すのも、君一人だけだ。父上にも一切言うつもりはない。僕は友人二人を売るような真似だけはしたくないからね。だから君も一切口外しないと約束して欲しい」

「わかりましたわ」

 きっぱりと頷いたコレットに、アーサーはゆったりと頷きを返した。コレットが一度こう言ったら、絶対に約束を違えることはない。

「もっとも、父上に申し上げたとしても一切取り合ってはもらえないだろう。この問題が起きた時から一貫して、静観の姿勢を崩してはいらっしゃらないからね」

 アーサーの言う通りだった。サマルトリア王は、二人が出奔するずっと以前から、リエナがムーンブルクで窮状に陥っていることを知っていた。アーサーが懸命に救出の策を講じたいとの訴えを続けてきたにもかかわらず、一切の干渉を拒み続けてきたのだから。

「第一、僕の考えをローレシアはともかくとしてムーンブルクが聞き入れるとは思えない。それどころか、僕が出奔に関与しているとあらぬ疑いがかけられるのが目に見えているのだから、話す必要もない。それに僕の推測が正しいとしたら、更に捜索は難しくなる。王族が住めるような場所は限られているけど、民は違う。それこそ全世界を虱潰しに調べないといけなくなる。今の時点で既に、発見は不可能だと言ってもいい」

「アーサー様、御二方はこのままずっと……」

 コレットは言葉を濁したが、アーサーには何を言いたいかはわかっている。

「そうだろうね。彼らは二度と元の生活に戻る意思はない。出奔するからには、それだけの覚悟を決めているはずだから」

 葡萄酒をもう一口飲んで、話を続ける。

「リエナがあのままムーンブルクに残っていたとしたら、待っていたのはチャールズ卿との結婚と死だ」

 コレットは何も言えずに目を伏せた。王族が国のために想い人と引き離されるのはままあることだが、リエナの場合はそれとはわけが違うのだから。

「それに比べれば、その後の生活の苦労はどうとでもなる。何より、ルークが一緒にいるんだからね」

「ルーク様と二人であれば、リエナ様はどんなご苦労も厭わないのですね」

「そうだよ。ルークとなら苦労を苦労とは思わず、乗り越えてしまうだろうね」

「あの、アーサー様」

 躊躇いがちなコレットに、アーサーは優しく続きを促した。

「僕の前だから、何を言っても構わないよ」

「こんなことを申し上げていいのかはわかりませんが、御二方はこのままお幸せになって欲しいと願ってしまうのですわ。――特に、今のようなお話を伺ってしまうと、何故かその気持ちが抑えられなくて。王族としては間違った考えであることは承知しておりますわ。けれど、御二方は心から愛し合っていらっしゃるのですから……」

 言葉を選びながら話すコレットの声も表情も、真摯なものである。

「……ありがとう。君が二人の幸せを心から願ってくれていることに、感謝するよ」

 そう答えるアーサーの表情もあたたかく、また真剣なものだった。

 責任を放擲して出奔した二人の幸せを願うことは、王族として決して許される感情ではない。アーサーも無論、承知している、けれど、それだけ親友二人との絆は深いものなのだろう。コレットは、アーサーは口にこそ出さないものの、最初からこう考えていたのだということに初めて気づいていた。




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