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旅路の果てに
第11章 15


 ムーンペタには、ルビス大神殿に属する二つの修道院がある。一つが男子修道院、もう一つが女子修道院で、いずれもムーンペタの郊外、この地の領主であるルーセント公爵家の本邸にほど近い場所に位置している。

 ローレシアで第二王子アデルが正式に立太子した数日後の午後、この女子修道院に隣接するルビス神殿で、一人の婦人が跪いて祈りを捧げている。

 修道院には一般の信者は立ち入りできないが、こちらの神殿はすべての人に解放されており、ルーセント公爵家に仕える人々を始め、近隣の熱心な信者が折々に祈りのために訪れるのである。

 女子修道院の院長を務めるイネスが神殿の入り口に立った。

 神殿に入ろうとして、ふと人影に気がつき、その婦人の後ろ姿を確認して静かに息をつく。祈りを捧げる婦人はイネスもよく知っている、ルビス教の敬虔な信者だった。ある理由で以前に深く関わったことがあり、今もなお親交が続いている。

 イネスは婦人の祈りを妨げないよう、しばらくそのまま見守っていた。

 やがて、祈りを終えた婦人が立ち上がった。イネスはゆったりとした足取りで歩み寄り、婦人に声をかけた。

「……マーサ様」

「イネス院長様」

 マーサと呼ばれた婦人は、軽く会釈を返した。マーサはリエナの乳母を務めた女性である。リエナの成人の儀の一年前、家庭の事情で王宮を辞していたためムーンブルク城襲撃をまぬがれ、今はムーンペタの自宅で一人で暮らしている。

「今日もいらしていたのですね」

「ええ。私ができることは、姫様の一日も早いご回復を祈るだけですから」

 そう言って、マーサは寂し気に微笑んだ。訪れる時間はまちまちだけれど、ほぼ毎日のようにここを訪れていることをイネスは知っていた。

「あの、リエナ王女殿下とは今も……?」

「ええ……」

 マーサは視線を外すと、遠くを見つめる。

「ムーンペタの離宮にお戻りになられてから、幾度もお側仕えに復帰したいと申し入れてはいるのですが……」

 マーサは語尾を濁した。

 これから本格的に始まる復興事業で、何かと心労が多くなるであろうリエナを支えたかった。マーサには宰相カーティスの下で、外交の仕事に従事する息子がいる。リエナが凱旋してすぐ、その息子を通じて願い出たのであるが、フェアモント公爵家から女官は足りていると、けんもほろろに断られたのである。

 理由はわかりきっている。チャールズ卿がリエナの味方となる人物、それもだいぶ前に辞したとはいえ、乳母を務めたほどの女官を側仕えにするのは何かと不都合なのだ。

 イネスも世俗を離れた身とはいえ、その辺りの事情は承知している。マーサを慰める言葉が見つからないまま、ただこう言うしかなかった。

「リエナ王女殿下は、ルビス様と月の神々の祝福を受けた御方――私も殿下のために祈りましょう」

「……お心遣い、感謝しております」

 間もなく、マーサはイネスに見送られ、ルビス神殿を後にした。

********

 自宅に戻った後、マーサはいつにない疲れを覚えていた。

(ルーク殿下が薨去遊ばされて早や一月余り……)

 マーサは公式発表を無条件で信用している。ルーク薨去が事実と異なるなどとは思ってもみないのだ。

 何故なら、マーサは真実を何一つ知らされていないからである。

 ルークがリエナを救う為に拉致同然で出奔したことも、だから本当は生きているはずなのも、薨去の報はそれらの事実を隠蔽するためのものであることも。同様に、リエナがムーンペタの離宮には不在であることも知らずにいる。

 当然だった。いくらもとはリエナの乳母であっても、王宮を辞した身である以上、部外者としか言えないのだから。第一、リエナの不在は国家機密である。絶対に外部に漏らしてはならないのだ。当然、この事実を知る人間はムーンブルクでもごく一部に限定され、わざわざマーサの耳に入れるわけがない。

 マーサは早くに母王妃を亡くしたリエナにとって、実母にも等しい存在である。同様に、マーサにとってリエナは、かけがえのない養い君であった。二人目の子を出産後、乳母に任命されたときには課せられた責任の重さに身体が震えるほどだった。緊張する中、初めてリエナと対面して、その類稀な美しさにまず驚かされた。成長するに従ってますます愛らしくなり、自分を慕ってくることが喜ばしくて、心を籠めて仕えてきたのである。

 このままずっと務めたかったのであるが、リエナが14歳になったばかりの頃、やむなく乳母を辞すことになった。夫が病に侵され、看病に専念するためである。

 その後、リエナは15歳で成人の儀を迎えた。当日、特別に一日だけ女官に復帰したが、それを終えて間もなく夫は身罷った。しばらくして、リエナがルークとの婚約が内定したと聞かされたのである。マーサはまだ夫の喪に服している時だから遠慮するつもりだったけれど、宰相カーティスから直々に、マーサさえよければぜひリエナに声をかけて欲しいとの手紙を受け取った。

 それならばと、マーサも心からの祝福の手紙とささやかな祝いの品を贈り、リエナからも丁寧な礼状が届いた。感謝の言葉が綴られるなか、言葉の端々に、婚礼を心待ちにしている様子が手に取るようにわかった。ムーンブルク王家直系の王女がローレシアへ嫁いだ前例はなく、不安に感じているのではと心配していたのであるが、杞憂に終わって安堵していた。ルークとの婚姻はリエナにとっても真実幸福であるに違いないと確信できて、我が事のように喜ばしかったのである。

 また、送られた礼状には別の私信も添えられていた。そこへは夫を病で亡くしたばかりのマーサを気遣う言葉が記されていた。いついかなる時にも細やかな心遣いを忘れないリエナに、マーサは涙を拭ったことをよく覚えている。

 実はマーサは乳母を辞した後、成人の儀以外でもしばらくの間だけ側仕えの侍女として復帰していた期間がある。それは他ならぬ、リエナがハーゴンの呪いによって犬の姿にされていた時だった。その時のリエナはルーセント公爵邸で保護されていたのだが、世話をするために絶対の信用の置ける人物として、公爵から直々に依頼を受けたのだった。

 幸い、ルークとアーサーがラーの鏡を手に入れたおかげでリエナは元の姿を取り戻すことができた。その後も、旅立ちまでほんの短期間であるけれど、側仕えを務めた。

 旅立ちの直前、リエナはマーサの手を取って言った。

――わたくしは必ず目的を達成して生きて帰るわ。そして、ムーンブルクを復興させてみせます。だから、マーサもそれを見届けてちょうだい。

 その時の決意に満ちた菫色の瞳に、マーサは何も言えずにただ手を握り返すことしかできなかった。

 マーサは三人が旅に出ている間もルビス神殿に通った。自分にできることはこれだけだからと、ひたすら無事を祈り続けた。

 二年後、見事ハーゴンを討伐して凱旋したとの報に、マーサはどれほどの安堵を覚えたか。リエナがムーンペタの離宮に戻った時には夫の喪も明けていたため、また側仕えにと申し入れたものの、フェアモント公爵家からすげなく拒否されたのである。マーサは旅立つリエナを見送って以来、一度も対面を許されていない。

 しばらくして、リエナが旅の間にルークと深く愛し合うようになったと噂で耳にしたのだった。

 婚約は白紙に戻ったにもかかわらず、凱旋後もルークがリエナとの婚姻を望んでいる、しかも、当初の予定であるリエナがローレシアへ輿入れするのではなく、なんとルークの方がムーンブルクへ婿入りを希望しているのだと聞いて、マーサはルークへの感謝の念とともに、もしそれが実現すればどんなによいか――到底無理なのはわかってはいても、それでも願わずにはいられなかったのだ。

 けれど願いもむなしく、リエナは絶対安静となり、さらにはルークも古傷の悪化で生命を落とす結果となってしまった。

(リエナ姫様は、病床で、どれほどのお悲しみに沈んでいらっしゃるのでしょうか……。せめてお慰めに上がりたいとは思っても、それすらかなわないなんて……)

 リエナの心情を思うだけで、胸が締め付けられる。こういう時にこそ、側についてわずかでもリエナの悲しみと苦悩を引き受けたい――その思いが強かった。

 ルークの薨去が発表されてすぐ、またもやマーサはリエナ付きの女官に復帰したいと願い出ていたのだ。しかし、結果は同じだった。幾度も繰り返される不毛な遣り取りに、マーサは息子だけでなく、リエナの乳姉妹にあたる娘からも揃って、気持ちはわかるがもう諦めた方がいいと言われる始末だったのだ。

 諦めることなど到底無理だけれど、自分一人の力ではどうしようもない。今はただ、ルビスの加護を願うのみだった。




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