第12章 1
秋もたけなわとなった。ルークとリエナの住むトランの村では、裏山でルビスの恵み――果物や木の実、きのこなどの山の幸の収穫の最盛期を迎えていた。この豊かな恵みを感謝して受け取り、自分たちで消費する他にも、ロチェスの町へ売りに行って、貴重な現金収入を得るのである。
村人は総出で収穫に勤しみ、ルークも護衛として同行し、収穫の方もみなと同じように励んでいる。
リエナは昨年の冬の終わりに倒れて以来、体調はほぼ戻っていたものの、ラビばあさんからまだ無理はしない方がいいと言われていた。そのため家で留守番をしているが、代わりに身体に負担のかからない範囲で、女達の手仕事を積極的に引き受けている。
二人はすっかり村の一員として溶け込み、素朴ながら山の幸に恵まれた豊かな生活を送っている。
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「お帰りなさい」
収穫から戻ったルークを、リエナが笑顔で出迎えた。
「ただいま。ほら、土産だ」
ルークは白い歯を見せると、手に持っていた籠を見せる。中にはたくさんの収穫物――林檎にあけび、艶やかな栗、そして様々な種類のきのこが山盛りに入っている。リエナがぱっと顔を輝かせた。
「あら、素敵。でも、こんなにいただいてしまっていいの?」
「ああ、心配ない。今日は特にたくさん採れたからな、他の連中もみなこれくらい持って行ったぜ。それでもまだ大量あるから、明日早速ジェイクがロチェスに売りに行くって言っていた」
「それなら、よかったわ」
「これ以外にも、今年は山葡萄が豊作らしい。こっちもどっさり採れたから、今年の葡萄酒は期待できそうだぜ」
ルークはうれしそうだった。もとから酒豪で、旅に出ていた間も時々地酒を買って楽しんでいたほど葡萄酒には目がない。トランには葡萄酒作りを得意とする夫婦がいて、村人の手を借りて毎年大量に仕込んでいる。村の男達にとっての、大きな楽しみだった。できあがるのは野性味あふれる力強い酒で、ルークはトランで思わぬ好みの葡萄酒に出会えて喜んでいるのである。
それ以外にも、女達はこぞって様々な果物を使った果実酒も作る。こちらは甘く口当たりがよいので、主に女達のためである。水で割って楽しんだり、菓子作りの風味づけに使ったりと、これまた女達の大きな楽しみになのだ。
「今夜ははりきってご馳走を作るから、楽しみにしていてね」
「ああ、頼む。もう腹減って死にそうだ」
ルークは籠を台所の食卓の上に置いて、湯殿に入っていった。手早く手と顔を洗って戻ると、リエナは楽しげに籠からあれこれ出している。今夜の献立を何にするか、考えていたらしい。
ルークと目が合うと、にっこりと微笑みを返した。その笑顔が眩しくて、思わず抱き寄せる。
「リエナ」
「……なあに?」
返事の代わりに、ルークはくちづけた。特に用があるわけではない。ただ、名前を呼んでみたかっただけなのだ。
二人がこの村に来て、早や一年以上経つ。だからもう新婚とは言えないだろうけれど、ルークはリエナの輝くような笑顔を見るたび抱きしめたくなるし、抱きしめればくちづけしたくなるのも変わらないのだ。
そしてリエナも、抱きしめられるたび、くちづけを受けるたびに、ルークとともに暮らしている幸せをかみしめているのである。
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数日後の夕方、ラビばあさんが訪ねてきた。
「おばあちゃん、こんにちは。どうぞ、入って」
玄関で出迎えたリエナはにっこりと微笑んで、家の中へいざなった。
「遠慮なく邪魔するぞ」
ルークとリエナは、ラビばあさんと相変わらず親しい付き合いが続いている。一月ほど前までは、ばあさんは薬の調合で忙しそうにしていた。だから邪魔をしてはいけないと遠慮して、訪問頻度をやや控えめにしていたのである。けれど、どうやらそれも一段落したらしく、またこうして頻繁に行き来するようになっていた。
ばあさんの方は、一度はリエナ達とは治療に必要な時以外は距離を置き、来年の春まで引き籠って生活するつもりだった。けれど、ローレシアへ薬を納めに行ったとき、偶然ルークの薨去を知ったことがきっかけで考えを変えた。ルークの葬儀で、ルビス神殿に安置されていた棺の蓋が閉められていた不自然さから、トランのルークとリエナがローレシアの王子とムーンブルクの王女であることを確信したからである。
ばあさんが出した結論は、自分の取るべき道は、リエナの治療に全力を尽くすこと。それがルークの亡き母で、ばあさんが心から敬愛して仕えたテレサ妃への償いであるのだと悟ったのだ。また、自分が二人の正体に気づいたことを覚られないためには、今まで通り、良き隣人として暮らすのが最善だと判断したからでもある。
それ以来、一段と熱心にリエナの治療にあたり、既にほぼ完治といえるほどによくなっている。
「ルークはどうした?」
リエナに手土産の香草茶を手渡しながら、ばあさんが言った。ルークはいつもならリエナと玄関に一緒に出てくるのに、姿が見えないのだ。
「薪割りを頼まれて、他のお家に行っているのよ。そろそろ戻る頃じゃないかしら」
「ほうか。ところでリエナちゃん、体調はどうじゃ?」
「おかげさまで、すっかりいいわ。収穫のお手伝いをしていなくて申し訳ないくらいよ」
「それは何より。じゃが、ここで無理をしてまた悪くしたらいかん。収穫ならルークがお前さんの分までやってくれるじゃろうから、気にせず甘えておけばええ」
「はい、そうします」
リエナも頷いた。確かにばあさんの言う通りである。長い時間をかけて治療して、やっとここまで良くなったのであるから、無理をしてまたぶり返すよりは素直に厚意を受け取る方がいいのである。
「ルークが出かけておるんなら、今のうちに診察をしておこうかの」
「よろしくお願いします」
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診察を終えて、ばあさんは大きく頷いた。
「完治じゃ」
リエナは菫色の瞳を大きく見開いた。
「治った……のね」
「そうじゃ。リエナちゃん、ようがんばったの」
「……ありがとうございます」
「もう治療は不要じゃが、もし身体を冷やし過ぎたり体調を崩した時のために、軽めの薬だけは持っとった方がいいじゃろ。今日は手持ちが無いから、今夜調合して明日にでも届けるからの」
「よろしくお願いします」
「それからの、リエナちゃん」
ばあさんはリエナに向き直った。ばあさんのちいさな目にはいつになく真剣な光が宿っている。
「はい」
リエナも姿勢を正した。ばあさんから何を言われるのか、予想がついていたからだ。
「完治したからには、いつ赤子を授かってもおかしくない」
「はい」
「こどもを持つかどうかは、ルークとようく話し合って決めるんじゃよ。どちらを選んでも、後悔せんようにの」
「わかりました」
リエナも真剣な表情で頷いた。昨年の冬、病に倒れた時に、リエナが今はまだこどもを持つことができない事情があるのだと、ばあさんに告白した時にも言われた言葉である。
「おばあちゃん」
リエナは菫色の瞳を真っ直ぐにばあさんに向けると、頭を下げた。
「おばあちゃんのおかげで、わたくしは健康を取り戻すことができました。本当に感謝しています」
「わしは、薬師として当然のことをしたまでじゃよ」
「そんな……。何か、お礼をさせていただけませんか?」
「礼なんぞいらん。わしは村の収穫に参加せんが、分け前はもらっとる。その礼がわりに薬を渡しとるんじゃ。エイミからも聞いとるじゃろ?」
「もちろん聞いているわ。でも、それでは申し訳なくて……」
礼金が不要なのは、紛れもなくばあさんの本心なのだが、リエナがこう言ってくれる気持ちもわかる。しばらく思案顔になると、ゆっくりと頷いて見せた。
「そこまで言ってくれるのなら……そうじゃな、これからも、わしの話し相手になってくれんか。いつぞやの物語の感想を聞かせてくれた時は、ほんに面白かった。またあんな風に語り合えたら、それが何よりの礼じゃ」
「ええ。わたくしでよければ、いつでも。でも、そんなことでいいのかしら? わたくしの方こそ、おばあちゃんとお話ができて楽しくてたまらないのに」
「わしも同じじゃよ」
「それなら、これからもよろしくお願いしますね」
「わしこそ、よろしく頼むぞ」
二人はまるで実の祖母と孫娘のようににっこりと微笑みを交わすと、リエナはばあさんの手土産の香草茶を手に取った。
「このお茶、とてもおいしそうね。早速淹れてくるわ。さっき焼きあがったばかりのお菓子もあるのよ。一緒にいかが?」
「それは楽しみじゃ」
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リエナが台所で茶の支度をしている間、ばあさんは一人居間の長椅子で座って待ちながら、安堵の溜め息をついていた。
リエナの完治は予想よりも早かった。自分の治療方針が正しかったことが証明されて、薬師としての満足感も覚えていた。けれど、短期間で完治できたのは、リエナ本人が治したいと強い意志を持っていたことが一番の理由である。
ここで、ばあさんの脳裏にふと、二人がローレシアの王子とムーンブルクの王女なのだとの考えがよぎる。これまでの葛藤を思い出し、吹っ切ったはずなのにまだ心にしこりのようなものが残っているかと気が重くなった。
同時に、リエナが完治したことはが喜ばしい結果につながるとは限らないことにも思い至った。無論、身体のことを考えれば、放っておくなどありえない。治療をしたこと自体は正しかったと確信している。
リエナが倒れた翌日、この家を初めて訪れた時の、リエナとの会話が甦る。
リエナは涙を滲ませながら、今はこどもを持つわけにはいかない、もし一生産めなくても仕方がないと話してくれた。その時にも余程の事情があるのだろうとは感じたが、ばあさんはそれ以上何も詮索することはなかった。
ルークとリエナが国を捨てて駆け落ちしてきた王子と王女であると知った今では、こどもを持つという選択そのものが二人にとってよいことなのかどうか、ばあさんには判断がつかなくなっている。
二人にこどもが授かれば、その子は望むと望まざるとにかかわらず、ローレシアとムーンブルク両王家直系の血を引くことになる。完治したことで、かえって悩みを増やす結果になってしまうのではないか……ばあさんはここまで考えて、無理やり思考を追い払った。
こどもを持つかどうかは、ルークとリエナが二人で話し合って結論を出さなければいけない問題である。この件については本人達から相談されない限り、考えるべきではないと思い直した。これでもう、自分の役割は終わったのだから。
けれど、一点だけまだ気に掛かっていることがある。ルークの薨去が公式発表されたことである。
二人が今後、このままトランで生活することを考えればその事実を知っておいた方がよいのかもしれないとも思うのだ。
しかし、それを伝える術はない。この村でその事実を知るのはばあさんだけであるが、もし伝えたとすれば、何故それを知ったのか説明しなくてはならないからだった。無論、ローレシアの薬屋と取引があると説明すれば納得はしてもらえるだろうが、村のまとめ役であるジェイクとエイミの夫婦にすら薬屋と取引があることだけで、どこの店かまでは伝えていないのだ。第一、自分がローレシアと関わりがあることは、絶対に知られたくない。
ちょうどその時、リエナが台所から戻ってきた。手にしている盆には、ばあさんの手土産の香草茶とリエナ手作りの焼き菓子がのっている。
ばあさんの思考は、そこで中断せざるを得なかった。
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ばあさんとリエナがお茶を楽しんでいると、玄関で扉が開く音がした。ルークが帰って来たのだった。
「ばあさん、来てたのか」
「来て悪いんか」
ばあさんはルークをちらりと見遣ると、香草茶をすすった。
「別に悪いなんて、一言も言ってねえぞ」
「また、リエナちゃんを取られたと思っとるんじゃろ」
「取ってるって自覚があるんなら、早く俺にかえしてくれたらいいだろうが」
「いつまで経っても、女房離れできん男じゃの」
「それを言うなら、いつまで経っても夫婦仲がよくて結構、じゃねえのか?」
「ふん、減らず口だけは一人前じゃの」
相変わらずの二人の遣り取りに、リエナはくすくすと笑いを漏らしながら、ルークの分のお茶を淹れるために立ち上がった。
リエナがルークの前に熱い香草茶を置くと、あらためて、三人でのお茶を囲んだ。
「なんだ、ばあさん。まだいるつもりか?」
ばあさんはまったく動じず、新たに運ばれて来た茶を手に取った。
「せっかくのいい報告をしようと待っとったのに、おまえさんは聞きとうないようじゃの」
「いい報告?」
「聞きたいか?」
「もったいぶらずに、さっさと教えてくれ――いや、頼む」
ルークは予感がしたのか、珍しく殊勝な態度でばあさんに向き直った。
「リエナちゃんの病気は、完治しとる。さっき、リエナちゃんには話したところじゃ」
「完治、した……? 本当か!?」
「わしは、嘘は言わんぞ」
ルークは姿勢を正すと、ばあさんに向かって頭を下げた。
「ばあさん、リエナの病気を治してくれたこと、心から感謝している」
ばあさんは内心で、居心地の悪い思い――身分を捨てたとはいえ、ローレシアの王太子に頭を下げさせたことである――をしたが、敢えて態度を変えずに言う。
「礼には及ばんぞ。リエナちゃんにも言うたがの、薬師として当然のことをしたまでじゃ」
「ばあさん、礼金を受け取ってくれないか。ばあさんが礼を受け取らない事情は聞いてるが、ここまで世話になって何もなしってわけにはいかない」
「礼なら、もうリエナちゃんに頼んでおいたぞ」
「リエナに?」
ルークが驚いた表情でリエナに視線を向けると、リエナは微笑んで見せた。
「ええ、わたくしもおばあちゃんにお礼をって言ったらね、これからもお話相手になって欲しいのですって」
「話し相手って……そんなのでいいのか?」
「そんなのどころか、これ以上はない礼じゃぞ? リエナちゃんのような教養あふれる貴族のお姫様と色々な話ができるんじゃからの」
ルークはやや渋った表情をみせたものの、ばあさんの言い分もわかる気がした。先日、リエナと書物の話題で話に花が咲いたのを思い出したのだ。トランの住民は善良な人々ばかりだが、ばあさんのような元貴族とはそういった趣味の面では話が合うはずがない。ばあさんにもリエナは恰好の話相手であるが、リエナにとってもそれは同じことだと気づいたのだ。
「わかった。これからも、リエナと仲良くしてやってほしい。よろしく頼む」
「わたくしからも、あらためてお礼を言わせてくださいね。おばあちゃんには本当にお世話になりました」
「そんなかしこまらんでもええぞ。ほんに、夫婦して義理堅いことじゃの」
ばあさんは、ゆったりとした笑みを浮かべると、茶器を手に取った。
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